ペリー来航(黒船来航)っていつ頃、どんな目的で起きた出来事だったの?
日本はペリーがやってきたことによって何が変わったの?
黒船が江戸湾に現れて江戸はパニックに!?
この記事では、ペリー来航(黒船来航)にいたる時代背景、ペリー来航が日本へ与えた影響、変化を解説していきます。
ペリー来航(黒船来航)とは何だったのか?
ペリー艦隊が浦賀に来航〜日米和親条約を締結するまで
ペリー来航(黒船来航)とは、1853年(嘉永6年)アメリカ合衆国から派遣された軍人マシュー・ペリーが蒸気船2隻を含む艦船4隻を率いて日本(神奈川県浦賀沖)に来航し、開港を要求した事件のことを言います。
軍艦が黒く塗装されていたことや、当時日本には無かった蒸気船から黒い煙が上がっていたことから黒船来航とも呼ばれています。
当時鎖国状態を貫いていた日本は初めペリー一行の上陸を拒否しますが、ペリーはそれに屈しませんでした。
蒸気船や高性能大砲などのペリー艦隊の軍事装備に圧倒された日本は、渋々ペリー一行を浦賀に受け入れアメリカからの国書を受け取ります。
そして翌年1854年、ペリー艦隊が再び訪れた際に日米和親条約が締結されました。
ペリーが日本を訪れた理由・背景
ペリーが日本に来航した理由
ペリー来航の目的は、当時のアメリカ大統領フィルモアからの国書を江戸幕府将軍に渡すことでした。
国書の内容は中国貿易や捕業の際に日本で食料や燃料を補給するため開港してほしい、捕鯨船が難破した際に助けてほしいといった内容でした。
アメリカは日本と国交を結びたかったのです。
アメリカの背景
アジアへの進出を目指したアメリカ〜なんで日本に目をつけたの?〜
1760~1830年代にかけての産業革命により、欧米諸国は大量生産された品々の輸出先や原材料を求めて植民地獲得競争に乗り出します。
インドや東南アジアにおいて植民地を持っていたイギリスやフランスなどに比べ、後発であるアメリカはこの競争に苦戦していました。
中国(清)との貿易でも出遅れていましたが、1842年に望厦条約を結び、ようやく清国市場へ進出を果たします。
当時の巨大市場である清とアメリカの間の中間貿易拠点として目をつけたのが長年鎖国をしていた島国、日本でした。
アメリカの目的
目的は鯨漁業?
当時、鯨油は灯油や潤滑油として必要不可欠な燃料でした。
日本周辺の海には鯨がよく獲れる漁場が数多くあり、アメリカからも多くの捕鯨船がやってきていました。
その際の捕鯨船の燃料補給地点として日本が地理上最適だったことが一番大きな目的とみられます。
ペリー来航時の日本事情
日米和親条約を締結したのが1854年であるのに対し、1639年から鎖国対策を行なっていた日本。
200年以上もの長い間国交を断っていたことが分かります。
といっても、鎖国中も長崎、出島などでオランダや中国などとは貿易をしており、ペリー艦隊のことも最初は長崎港へ追い払おうとしていました。
この頃の日本は長い間大飢饉に見舞われ、水野忠邦を中心に「天保の改革」を打ち出すも失敗に終わり、国力が非常に弱っている状態にありました。
また、西国の雄藩である薩摩藩、長州藩らが力をつける中、幕府が圧倒的な力で諸藩を押さえつける長年続いてきた幕藩体制にもほころびが見えてきていました。
江戸幕府は危機的状況にあったのです。
そんな苦しい国内情勢の中、東洋の大国である清がアヘン戦争でイギリスに敗北したという情報を聞き、幕府は欧米各国のアジア進出に対して危機感を抱き始めます。
そのため、1825年に発令された、外国船を容赦なく追い払うという「異国船打払令」の時の強気な姿勢から、外国船に対して水や燃料の補給を認める「薪水給与令」の発令へと変化するなど柔軟な対応を見せていた時期でした。
数少ない貿易相手のオランダを通じて諸外国の状況を知っていた日本に対して、アメリカ以前にもロシアやイギリスが国交を持とうと日本に接触していました。
日本を植民地として狙っていたのはアメリカだけではなかったのです。もしペリーが来航しなくても、どのみち日本は鎖国をしたままではいられない状態だったといえそうです。
ペリー来航事件の詳細
突如として江戸湾に現れた黒船に江戸の様子は?!
突然現れた誰も見たことのない黒塗りの蒸気船2隻を含む、計73門の大砲を搭載した軍艦4隻。
現在の神奈川県横須賀市浦賀に停泊している見慣れない軍艦を一目見るために、江戸からも多くの民衆が集まったようです。
中には小舟で蒸気船の近くまで近づく者や、こっそり乗船する強者もおり、幕府はこれらの対処に追われました。
また、ペリー艦隊は幕府に事前に通告した上で、アメリカ独立記念日の祝砲や号令の合図として何度か空砲が放ちました。この轟音により、江戸の市民たちは大混乱に陥ったといわれています。
しかし、特に攻撃されることは無いと分かると、空砲音を花火の音代わりに楽しむなど市民たちは黒船に対してわりと好奇心と親しみを持っていた様子が伺えます。
「泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜船(じょうきせん)たった四杯で夜も寝られず」
有名なこちらの狂歌は黒船が現れたことによって右往左往する当時の江戸の様子がうたわれています。
「上喜船」というのは蒸気船と当時の高級緑茶「上喜撰」をかけていて、滅多に飲めない高級茶を飲んで興奮して眠れない様子と、大混乱に陥る幕府や世間の様子をかけて茶化しています。
何か得体の知れないものがやってきて幕府が慌てふためいている様子を感じながらも、見たことのないものに対する興味を江戸市民たちは抑えきれていなかったようです。
黒船に対する幕府の初期対応
突然現れた軍艦に対して、幕府は初めどのような対応をしたのでしょうか。
1853年の7月8日、サスケハナ、ミシシッピ、サラトガ、プリマスの計4隻が東京湾に近づいてきます。
同日の昼頃、東京湾入り口で停船したペリー艦隊は、この時点で大砲に実弾を装填していました。
そして午後5時頃浦賀沖に停泊したことが、早船によって浦賀奉行所の井戸弘道に報告されます。
初め黒船をフランスの船だと勘違いした浦賀奉行所の役人たちは、フランス語で退去を命じる横断幕を掲げますが効果はなく、軍艦の一つ、サスケハナに近づいて直接交渉しようとします。
この時、浦賀奉行所は与力を奉行だと詐称し、国書を受け取ろうとします。奉行所としてもいきなりトップを外国の軍艦に派遣するわけには行かなかったのです。
しかしペリー提督はこれには応じず、「高官でなければ交渉に応じない、相応の高官を派遣しなければ兵を率いて上陸し、将軍に直接国書を渡す」と脅迫されてしまいます。
ペリーは日本の最高権力者に国書を渡すことを条件としており、浦賀奉公所の役人程度の身分では応じてもらえなかったのです。
慌てふためく江戸幕府、苦肉の決断とは?
ペリーの威圧的な姿勢に慌てふためいた幕府は、今までの外国船来航の時のようにのらりくらりと追い返せない相手だということを悟ります。
当時の将軍徳川家慶は病床に伏せていたため、実質国内で最高権力を握る老中、阿部正弘は頭を抱えることとなりました。
国書を受け取ってしまえば、鎖国の国禁を犯すことにもなり、開国せざるを得なくなります。
しかし、一方的に交渉を突っぱねたところで、軍艦が浦賀から江戸に侵入してくれば日本の大砲ではとても太刀打ちできず、あっという間に江戸を侵略されてしまうことは目に見えています。
苦肉の妥協案として、阿部は浦賀に臨時の応接所を設け、そこで国書を受け取る決断をします。
マシュー・ペリーはどんな人物だったの?ペリーの策略とは
実は、ペリー来航以前にも、アメリカは日本との交渉を試みています。
ペリー来航の1853年より7年も前の1846年、すでに日本に目をつけていたアメリカは艦隊司令官ピッドルを派遣し、日本に対して通商を求めています。
しかしその時は軍艦が2隻だったことやビッドルが比較的温厚な人物であったことから、日本はうまく開国交渉を回避してビッドル艦隊を追い返すことに成功しました。
こういった前例からアメリカは、日本に対しては温和に交渉するよりも、圧倒的な軍事力の差を見せつけて圧力をかける方が効果的だという判断を下したのです。
こうして派遣された軍人マシュー・ペリーは、前任者ピッドルと比べ意志の固い人物でした。
「熊おやじ」と呼ばれていたペリーは192~195㎝ほどの大柄な体格で、威圧的な風貌だったようです。
結果的にアメリカとペリーの作戦は効果絶大で、最終的に日本に国書を受け取らせることに成功しました。
また、一度は外国船の応接所として開港している長崎に行くように促した日本。
しかしこれに対してもペリーはきちんとした対策を持っており、すでに日本と国交を結んでいるオランダが長崎に出入りしていることから、オランダに妨害される可能性を考え長崎港には近づかなかったのです。
また、長崎よりも、江戸から目と鼻の先の浦賀に停泊する方が、より日本の首脳陣である江戸幕府に圧力をかけられるという意図ももちろん計算されていました。
当時外国船の侵入が禁止されていた江戸湾の測量データはなく、安全に航海することができ、なおかつ侵入禁止ギリギリのラインで江戸に圧力をかけるのに、浦賀は絶好の場所でした。
こうした作戦からも、ペリーは軍人として十分な威厳がありながらも計算高い策略家な部分もあり、当時の開国交渉に最適な人物だったようです。
ついに国書を受け取る日本、なぜペリー艦隊は一度帰ったの?
こうして老中阿部正弘の判断により国書を受け取ることを決意した日本は、浦賀の隣の久里浜に臨時応接所を作ります。
日本の代表として応接所に派遣されたのは、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道でした。
国書を渡したペリーは開国を要求しますが、これに対して幕府側は将軍の徳川家慶が病床に伏せっていることなどを言い訳に、回答に1年間の猶予を求めます。
これに応じたペリー艦隊は1年後に再訪することを告げ、艦隊を北上させて江戸近郊まで近づくなどの十分な威嚇をした上でアメリカに帰国します。
ペリー来航による日本への影響と変化
幕府の力関係に大きく影響したペリー来航
ペリーが帰国したわずか10日後に家慶は死去しますが、次期将軍徳川家定もこの難局に対応できるほどの実力はなかったため、引き続き老中阿部正弘が中心となって、開国に関する議論が行われました。
阿部正弘は比較的民主的な性格で、自身の独断のみで決定することはなく、幕閣から外様大名まで幅広く意見を求めますがこれが災いします。
日本の緊急時にわざわざ外様大名にまで意見を求めるような幕府は、すでに判断力すら失っていると判断されてしまうのです。
これをきっかけに元々勢力を強めていた薩摩藩や長州藩を中心とした雄藩は発言力を強めて幕政に加わることとなり、江戸幕府の力はさらに衰退していきます。
優秀な人物の発掘に繋がった幕府政治の転換
民主的な政治が裏目に出たことにより幕府の圧倒的権力を弱めてしまった阿部正弘。
しかしこれまで幕府政治に関わらないようにされていた外様大名にも発言権を与えることで、結果的に幕末以降の日本を担う優秀な人物を数多く発掘していくことに繋がります。
薩摩藩の他にも、福井藩の松平春嶽、土佐藩の山内容堂など開明的な藩主によって見いだされた若者たちが国政の中心へ躍り出る機会となりました。
鎖国の終了
1854年、ペリー艦隊は約束よりも半年も早く再び浦賀を訪れます。
将軍の訃報を聞きつけたペリーは、国政が混乱しているこのときが絶好のタイミングだと踏んだのです。
また、ロシアのプチャーチンも日本の北方領土を狙って訪問していることを聞きつけ、アメリカが一番に条約を結ばなければいけないと判断したようです。
ペリー艦隊は前回より軍艦を2隻増やし、計6隻の艦隊でより強力な艦隊となって登場します。
ペリーの作戦は大成功で、不意をつかれた再訪と前回よりもさらに強力になった艦隊に幕府は慌てふためきました。
日本側は、国書に記されていた内容に対し、アメリカ船の燃料補給や漂流民の救助には応じるが、通商は待ってほしいという交渉をします。
林復斎(はやしふくさい)を代表とした日本とペリーとの約1ヶ月の交渉の末、両国は現在の横浜市にて日米和親条約を締結しました。
これにより下田、箱館の二港が開港され、約200年以上も続いた日本の鎖国は終止符を打ったのでした。
ただし、この日米和親条約では通商は始まっていないため、本当の意味での開国は後の1858年に結ばれた日米修好通商条約を締結してからだとする説もあります。
実質不平等条約であった日米和親条約
和親という名前のついた計12条からなる日米和親条約でしたが、実際は日本がアメリカに対して一方的に最恵国として優遇することを約束させられた不平等条約でもありました。
アメリカに対して最恵国待遇を約束した日本は、アメリカ以外の国に対する優遇措置をアメリカにも適用しなくてはなりません。
これに対してアメリカは日本に対しては待遇の約束はありませんでした。
アメリカよりも他の国とより良い条件で条約を結びたいと思った時は、アメリカに対しても同じかそれ以上の待遇で条件を更新する必要があったのです。
ペリー来航事件のまとめ
元々鎖国を諦めて開国しなければいけない雰囲気にあった日本ではありましたが、ペリーの緻密な策略と強硬な姿勢が、日本の開国へと繋がったようです。
また、開国に対応していく中で、既に力を失いつつあった幕府中心の政治から、雄藩が国政に参加するきっかけともなりました。
一方的に最恵国待遇を約束させられるなど理不尽とも言える条約を結ばされることとなってしまう日本ですが、圧倒的な軍事力で威圧するペリー艦隊を目の前にして段階的に譲歩していった当時の幕府はかなり健闘したと言えるのではないでしょうか。
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