幕末 近代

会津藩主 松平容保の子孫のその後 苦難の道を歩むも子孫は徳川宗家の当主に!

会津藩主 松平容保

今回は、幕末の会津藩主、松平容保の子孫はどのような道をたどったのかについて紹介します。

幕末、政情不安定であった京都を京都守護職として取締り、幕府を支え続けた松平容保。

孝明天皇の信頼も厚く、幕府を支える柱となっていた容保でしたが、そのせいもあって戊辰戦争では新政府軍の標的とされてしまいます。

朝敵とされ新政府軍の討伐対象となってしまった会津藩は、奥羽越列藩同盟の支援のもと、会津若松城に籠城し抵抗しますが敗れ、会津藩は改易処分となってしまいました。

戊辰戦争後、会津藩には改めて陸奥斗南藩3万石が与えられますが、不毛の地での生活は困窮を極め、会津藩士たちは苦難の道をたどることとなります。

今回は戊辰戦争で朝敵とされ敗北した会津藩主松平容保、その子孫たちはどのようにして明治時代以降生きていったのかについて紹介します。

日光東照宮の宮司に 明治時代以降の松平容保

松平容保は謹慎処分となり東京に移され、会津松平家は容保の息子であった松平容大に相続が許され、盛岡藩領であった現在の青森県東部に3万石を与えられ、斗南藩として再出発を果たすこととなりました。

しかし藩領の多くは火山灰地質の不毛の地で、3万石の領地の実際の収穫高は7000石ほどであったといいます。

会津よりさらに北の寒さの厳しい地域であったことから、藩士たちは苦しい生活を強いられ、やがて会津から移住した者たちの一部は他地域への出稼ぎなどで藩を出ていってしまいました。

その頃の容保は、和歌山藩に預け替えとなり引き続き蟄居生活を送っていましたが、やがて斗南藩に移住を許されます。

約1ヶ月間斗南藩にて暮らしますが、すぐに東京に戻っています。

そして会津若松城開城から約4年後、ついに蟄居を許されました。

戊辰戦争後の会津若松城

容保の謹慎中、会津領民たちは容保を救うべく、「御赦免御帰城」の請願書を提出していたといいます。

これらの請願書には容保や歴代会津藩主が飢饉の際の援助や高齢者、病人への福祉制度など、領民のための政策を数多く行ってきたことが記されており、容保がいかに領民に慕われていたかがわかります。

一方で、幕末の京都守護職、戊辰戦争など軍事費増加にともない、領民には重税を課しており、領民の恨みを買っていたともいわれています。

農民たちは東京に護送されていく容保を見ることもせず野良仕事を続けていたといい、家臣、名主などの層からの信頼は厚かったものの、下々の民までの信頼は得られていなかったといえます。

こうして赦免された容保でしたが、家は困窮しており、手代木勝任など新政府に出仕した元会津藩士の支援を受けて何とか生活を送るという状況でした。

こうした状況下、兄である元尾張藩主の徳川慶勝から容保に尾張徳川家相続の話が持ちかけられます。

これに対し容保は「自分のせいで会津の家臣、領民は苦難の道を歩んでいるのに、自分だけが会津を離れて他家を継ぐわけにはいかない」と固辞しています。

また後年、磐梯山が噴火し旧領が大きな被害を受けたときは、現地に急行し被災者を見舞うなど、藩主を引退した後も会津のことを第一に考えていました。

明治期の磐梯山噴火を描いた絵

そんな容保は、やがて徳川家康を祀る日光東照宮上野東照宮の宮司となります。

自らが殉じた徳川家のために生きる道を選んだのです。

また、容保は新政府により朝敵として討伐の対象になったものの、生涯尊王の心を忘れませんでした。

容保は京都守護職を務めていた際、孝明天皇より八月十八日の政変の後、宸翰、御製を贈られています。

これは孝明天皇自らが容保に対し、自筆の文章と和歌を贈ったもので、容保はこれを竹筒に入れ肌身離さず持ち歩き、ついに誰にも見せずに亡くなっています。

たとえ朝敵とされても、孝明天皇から信頼を得ていたことが容保の心の拠り所となっていたことがうかがえます。

日光東照宮の宮司などを歴任した容保は、1893年に亡くなります。

容保の病が重いことを聞いた孝明天皇の妃であった皇太后の九条凪子は、容保のために当時滋養に良い高級品とされていた牛乳を贈りました。

孝明天皇の后 九条凪子

皇太后は容保が牛乳の匂いを苦手としていたことを知っており、コーヒー牛乳にして容保の元へ届けさせます。

容保の主治医であり、宮中の医者も務めていた橋本綱常によって容保の元へ牛乳が届けられると、容保は起き上がり、感涙にむせびながら飲んだといいます。

幕府、新政府に翻弄されながらも自分の信じる尊王の道を貫いた松平容保は57歳でその生涯を終えました。

御家再興の期待に苦心 容保の息子 松平容大の家系

松平容保の後、会津松平家を継いだのが容保の長男、松平容大(まつだいらかたはる)です。

松平容保の子 松平容大

会津松平家は当初、徳川慶喜の弟である松平喜徳が容保の養子となっていましたが、会津藩は容大に斗南藩3万石が与えられ再興されることとなりました。

容大は、版籍奉還後、知藩事となり、廃藩置県を経て東京に移住しますが、まだ幼かったことから、家臣たちが藩政にあたっていました。

朝敵とされた会津藩は名誉回復の機会をうかがっており、容大は会津の期待を一身に受けることとなります。

しかし成長するに従い、周囲からのプレッシャーに反抗するようになります。

やがてこれらに反発し、容大は父や旧臣たちも手をつけられないほどの問題児に育ってしまいました。

華族として学習院に通っていた容大でしたが、校則違反により学習院を退学処分となってしまい、華族の品位を汚したとして譴責処分を検討されるまでになってしまいます。

若年であったことから処分は見送られましたが、容大は転校先を探さねばならず、旧藩士であった山川浩、山本覚馬らの斡旋により現在の同志社大学にあたる同志社英学校に入学します。

新島襄が設立した同志社英学校は旧会津藩士であった山本覚馬が学校用地を寄贈しており、新島襄の妻は山本覚馬の妹である山本八重であるなど、会津藩と関係が深い学校となっていました。

同志社入学に際し、補育役として会津出身の兼子重光がともに入学しています。

容大は同志社でも校則違反を起こし退学処分になりかけますが、兼子ら学生の嘆願運動によって何とか退学は免れました。

容大はこの一件から兼子の助言だけは聞き入れるようになり、やがて同志社から現在の早稲田大学にあたる東京専門学校に移り、ここを卒業します。

卒業後は志願兵として日清戦争に従軍し、その後は陸軍で騎兵大尉まで進みました。

家計は苦しく明治天皇から現金給付も受けていますが、貴族院議員にもなり、1910年に亡くなりました。

容大の跡は、弟の松平保男が会津松平家を継ぎました。

保男は海軍兵学校を卒業した後、日露戦争にも従軍し、戦艦伊吹、摂津などの艦長を務め、最終的に海軍少将にまで上りました。

保男の跡は次男の松平保定、その後は息子の松平保久氏が継いで現在に至ります。

保定は農林中央金庫に務め、退職後に靖国神社の宮司の打診を受けましたが、「賊軍とされた会津の戦死者が祀られていないにも関わらず、会津人として受けることはできない」と断っています。

保久氏はNHKのプロデューサーを務めており、会津松平家の当主としての活動も続けています。

2018年に会津若松市で催された戊辰150年式典では「困難に満ちた幕末の会津の歴史だが、強い誇りをもって、未来につなげてほしい」と語るなど、今でも会津松平家は会津若松の市民との繋がりを保っているのです。

維新の志士の養子、福島県知事にも!次男健雄、三男英夫の家系

松平容保の次男、松平健雄は福島県の伊佐須美神社の宮司を務めました。

健雄は静岡県がいちごの名産地になるきっかけを作っています。

健雄が米国領事館の友人からいちごの苗を譲り受け、これを神社の車夫をしていた川島常吉に託し、これが静岡県の日本平で栽培され、現在も石垣いちごとして続いています。

健雄の子が松平勇雄で、勇雄は三菱商事社員を経て、1951年に参議院補欠選挙で当選、以降参議院議員を23年間務めました。

1976年には地元の福島県知事選挙に出馬し当選、12年間にわたって知事を務めました。

福島県知事時代には、県立図書館や美術館、博物館などの文化施設設置に取り組み、「文化の知事」と評判になっています。

三男の英夫は山田伯爵家の養子となりました。

山田伯爵家は、長州出身で、第一次伊藤博文内閣で初代司法大臣を務めた山田顕義につながる家です。

山田顕義

山田顕義の死後、弟の山田繁栄が跡を継ぎ、英夫は繁栄の養子となり、山田顕義の娘を妻に迎え、山田家を相続しました。

英夫は陸軍士官学校を卒業後、日露戦争に従軍、その後は乃木希典陸軍大将附の軍事参議官副官になるなど活躍し、最終的には歩兵中佐となりました。

予備役に編入された後は貴族院議員になり、1939年まで在任しています。

跡を継いだ長男の山田顕貞は、山田顕義が創設した日本法律学校の後身にあたる日本大学法学部の教授を務めました。

徳川宗家につながった 6男、恒雄の家系

松平恒雄 参議院議長などを務めた

松平恒雄は、東大卒業後、外務省に入省し、駐米大使、駐英大使などを歴任しました。

ロンドン海軍軍縮会議にも出席するなど、外務省内で、幣原喜重郎と並んで親英米派の外交官として知られていくようになります。

この頃、娘の勢津子が大正天皇の第二皇子であった秩父宮雍仁親王と婚約します。

恒雄は平民の身分であったため、本家の松平保男の養子となり嫁ぐことになりました。

朝敵である松平容保の孫にあたる勢津子が皇室へ嫁ぐことは、旧会津藩の復権に繋がり、会津人の感激は並々ならぬものであったといいます。

戊辰戦争から60年近く経った頃のできごとでした。

その後の恒雄は、宮内大臣を務め、外交官の経験を活かしてイギリス王室との宮廷外交を模索しますが、戦争への流れを止めることはできませんでした。

戦後は参議院議員を務め、初代参議院議長も務めました。

恒雄の長男の松平一郎は横浜正金銀行に勤め、戦後は後継銀行である東京銀行に引き続き勤め、会長まで上り詰めています。

一郎は妻に徳川宗家の徳川家正の長女の豊子を迎えています。

この縁もあり、長男の家英を早くに失っていた徳川家正は、一郎の次男の徳川恒孝を養子に迎え、徳川宗家を継がせました。

これにより、松平容保の曾孫が徳川宗家を継ぐこととなったのです。

徳川恒孝氏は日本郵船副社長、公益財団法人徳川記念財団初代理事長などを務め、その子の徳川家広氏が次期当主となる予定で現在も続いています。

まとめ

京都守護職として幕府のために尽くし、戊辰戦争では新政府軍を相手に戦い敗れた松平容保。

白虎隊など若者や子女にいたるまで犠牲者を出す結果となってしまいました。

会津藩は朝敵の汚名を着せられ、明治時代以降は苦難の道を歩みますが、藩主、藩士ともに名誉回復のために粉骨砕身しました。

西南戦争では元会津藩士たちは名誉挽回の機会と先頭に立って西郷軍と戦い、柴五郎など軍に入り活躍する者も多くいました。

元白虎隊士で日本初の物理学教授となった山川健次郎など会津人は多方面で活躍し、会津の名誉回復のために努力を重ねています。

最終的には皇室ともつながりを持ち、徳川宗家にまでその血を伝えた松平容保。幕府に殉じた彼のその後にも興味を持っていただけたら幸いです。

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