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今川氏の子孫の現在は?|幕末には若年寄を務めるも明治維新後に断絶?

今川氏真(Wikipediaより引用)

この記事では、江戸時代も高家として存続し、明治維新直前には若年寄として活躍した今川氏の子孫について解説します。

今川氏といえば桶狭間の戦いで討ち取られた『海道一の弓取り』今川義元、蹴鞠に興じて家を滅ぼした今川氏真が有名です。

2017年の大河ドラマ おんな城主直虎でも何かと出てきた今川氏真。尾上松也さんが演じて話題になりましたね。

大名としての今川氏は1568年に武田氏と徳川氏に攻められ、掛川城落城を以て滅亡してしまいました。

しかし、最後の当主今川氏真は北条氏、そして徳川氏の元で庇護され、1615年に77歳で亡くなっています。大阪夏の陣が終わったあたりまで生きていたことになります。

甲相駿三国同盟で北条氏から嫁いできた北条氏康の娘 早川殿とも、1613年に早川殿が亡くなるまで連れ添うなど、歴史の表舞台から姿を消した後も細々と生き残っていたようです。

そんな氏真の後、今川氏はどのように生き延び、どのように明治維新を迎えたのか、見ていきましょう。

中興の祖、今川直房

氏真には長男今川範以(いまがわ のりひと)、次男品川高久(しながわ たかひさ)という二人の息子がいました。

長男範以は1608年に38歳の若さで没し、その子の今川直房(いまがわ なおふさ)が今川家嫡流として続いていきます。

氏真は、1612年に家康から近江に500石の領地を与えられており、直房はこの領地を継承し、高家として徳川幕府に仕えていくことになりました。

直房は高家として朝廷、公家との交渉役を担っていました。 具体的には京都御所への使節、伊勢神宮、日光東照宮への代参などがあります。

直房の有名な功績では、1645年に3代将軍徳川家光が朝廷に宮号宣下を求める使者となっています。

徳川家康を祀る日光東照宮

家康は死後東照大権現という神号を朝廷より宣下されていましたが、この新たな宣下により、 東照宮という宮号が与えられました。

つまり日光東照宮という名前は今川直房の活躍により正式に与えられたことになります。 家光もこの功績には大変喜び、直房は500石を加増され、計1000石を領することになりました。 家光亡き後も家綱に仕え、1653年には左近衛少将に任ぜられています。

この左近衛少将という役職は従三位にあたり、中納言と同列の職種に当たります。 左近衛少将は室町時代から数えても 歴代今川家の中で最高の職位にあたり、高家としての直房がいかに優秀だったかを表しています。

また、直房には妹が二人おり、それぞれ吉良吉弥(忠臣蔵でおなじみの吉良上野介の祖父)、 大友義親(大友宗麟の曾孫)に嫁いでおり、自身の妻は立花宗茂の養女と戦国、江戸時代の有 名人とも深くつながっていました。

直房は今川家中興の祖として崇められ、子孫は命日には直房を偲んで集まったと言われています。

品川氏としての今川家

品川家は、今川の名字は嫡流に限るという天下一名字を重んじた徳川秀忠によって、氏真の次男、品川高久が屋敷地があった品川を名字としたのが始まりです。

Hidetada2.jpg2代将軍 徳川秀忠

品川高久は1598年から徳川秀忠に仕え、兄とは別に上野国内で1000石を与えられました。

高久の息子、品川高如(しながわたかかず)から高家として登用され、従四位まで上ります。

本家今川家では直房の死後、短命の当主が続いたことから、高家として登用されなくなり、代わりに品川家が高家として重用されていくことになりました。

高如の死後は上総佐貫藩主、松平重治(まつだいら しげはる 高如の次男)の息子の品川伊氏 (しながわ これうじ)が養子として跡を継ぎました。

伊氏も高家として登用され、伊氏の代には本家を凌ぐ1500石まで加増されました。

その頃、品川家では、短命の当主が続いた宗家のために、伊氏の長男範高、次男範主を養子として送り出しており、三男の範増しか跡継ぎが残っていませんでした。

そんな折に伊氏は44歳で没し、1歳だった範増が品川家を継ぐことになりました。

しかし範増も2歳で夭折してしまい、当然跡継ぎもいなかったことから、品川家は1713年に断絶してしまいました。

品川家の名籍は松平重治の4男で伊氏の弟にあたる品川信方(しながわ のぶかた)が名跡を継ぎますが、石高は300石にまで減らされてしまいます。

その後、竹中氏から末期養子を迎えつつ名籍を保っていきますが、1850年の品川氏恒(しながわ うじつね)以降が確認できておらず、その後の消息は分かっていません。

品川氏は伊氏を最後に高家として登用されることはありませんでした。

江戸時代後期の今川家

一方の本家今川家では、直房の息子が早世し、吉良家の一族である岡山家から養子今川氏堯(いまがわ うじたか)を迎えていました。

氏堯の生母は品川高久の娘、さらに吉良家は今川家の古くからの縁戚と血筋としては申し分ない養子縁組でした。

しかし氏堯も子に恵まれず、これ以降しばらく分家の品川氏から養子が本家当主となっていきます。

1712年に家督を継いだ伊氏の次男範主にやっと男子が生まれ、その今川範彦(いまがわ のりひこ)以降、直系男子で相続していくことになりました。

範彦の弟今川義泰(いまがわ よしやす)の代に再び高家に登用され、代々高家を務め、朝廷、公家との交渉に従事していきました。

しかし各藩の財政事情が苦しくなった江戸末期、今川家も例外ではなく、高家の職務に伴う多額の出費のため、今川義用(いまがわ よしもち)の代に領地で村方騒動が発生したりしています。

幕末の今川家 高家なのに若年寄に就任

江戸時代を通して高家職として朝廷との交渉にあたっていた今川家は、明治維新時に再び表舞台に舞い戻ります。

1841年に家督を相続した今川範叙(いまがわ のりのぶ)は、1868年に高家職はそのまま、若年寄に登用されます。

この登用は異例中の異例で、高家から若年寄になったのは江戸時代を通じて範叙だけです。 登用理由として、鳥羽伏見の敗戦後、江戸に迫りくる東征軍に対して、長年朝廷との交渉にあたっていた今川家の力を幕府が必要としたからだと言われています。

14代将軍家茂の妻である和宮(静寛院宮)、13代将軍家定の妻篤姫(天璋院)をはじめと し、徳川家の嘆願運動を行う中、範叙も有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんの う)に宛てて嘆願書を提出するなど活動しました。

Taruhito Arisugawanomiya 2.jpg有栖川宮熾仁親王

こうした活動のかいもあり、徳川慶喜が助命され、謹慎処分となった後、範叙は若年寄を解任されます。

明治時代の今川家

明治時代に撮影された江戸城(皇居)

その後、江戸城は開城され、時代は明治へと移り変わります。

範叙は明治政府に出仕し、触頭(ふれがしら 所属する旧・幕臣(触下)に新政府の通達を伝達 し、また触下からの書類を政府に取り次ぐ役)に就任します

しかし範叙は家庭的に恵まれず、1869年には妻、1872年には嫡子今川淑人(いまがわ よし と)を失っています。

しかも1871年に病気を理由に触頭を辞職した後は動行も確認できません。

1880年に長女が結婚した際に、浅草にある士族の家に同居していたのが確認できる程度でし た。

範叙は1887年に死去し、範叙の死をもって今川氏は正式に断絶となりました。

最後に

氏真以降も高家として脈々と家を保ってきた今川家。 しかし、明治維新後に武士が消えていく中で、ひっそりと断絶してしまいました。

しかし室町時代において足利、吉良に継ぐ家格とされた今川家は、江戸時代を通して他の高家 に娘を嫁がせ、今も女流血統は全国各地で続いています。

大名としては滅亡しても、その後のストーリーがある家はおもしろいですね!

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