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徳川慶喜の21人の子どもたちのその後 華族から名家の養子、妻、逮捕者まで! 

明治時代に撮影された徳川慶喜

今回は、21人もいた徳川慶喜の子供たち、そして子孫はどうなったのかについて紹介します。

徳川慶喜は正室である美賀子夫人との間に女子をもうけていましたが、幼くして亡くしていました。

その後は、将軍後見職や15代将軍として京都で活躍していたため、美賀子夫人とは離れて暮らし子供もできませんでした。

しかし大政奉還によって江戸幕府はなくなり、鳥羽・伏見の戦い、江戸城開城を経て江戸幕府は滅亡。徳川家、徳川慶喜は静岡に移ります。

将軍辞任後の慶喜は、写真撮影や狩猟など、趣味に明け暮れた生活を送りましたが、一方で子作りにも励み、十男十一女をもうけました。

合計21人の子どもたちは、美賀子夫人ではなく、新村信(しんむらのぶ)中根幸(なかねさち)という2人の側室から生まれています。

今回は、徳川慶喜公爵家を継いだ徳川慶久の家系、慶喜の事実上の長男である徳川厚の家系、勝海舟の家の養子となった勝精の家系、そして慶喜の2人の側室が産んだ他の子供たちのその後について詳しく紹介します。

令和の時代に墓承継問題を抱える 徳川慶喜公爵家のその後

徳川慶喜は明治時代に入り復権し、公爵に叙されました。

この徳川慶喜公爵家を継いだのが、慶喜と新村信の間に生まれた七男の徳川慶久です。

慶喜家を継いだ慶喜の7男 徳川慶久

兄たちが別家を立てたり、他家に養子に入っていたことから、慶久は家督を継ぐことになりました。

慶久は頭脳明晰で性格も良く、何をしても抜きん出ていたといわれています。

父親の影響でビリヤードや鉄砲などの趣味にものめり込みますが、優れた才能を発揮し、柔道、碁、ゴルフなどでも抜群の成績を残しました。

東大卒業後は貴族院議員となり、ゆくゆくは総理大臣にという声が上がるほどの逸材でした。

さらに、イケメンであったことから華族の子女からも憧れの目で見られ、慶久の孫の徳川慶朝は映画俳優にしてもおかしくないくらいと語っています。

そんな慶久は有栖川宮威仁親王の次女の實枝子と結婚します。

有栖川宮家出身の実枝子女王

實枝子も美人として評判の女性で、慶久の友人で外交官であった杉村陽太郎は「慶久のやつ、うまくやったな」と言ったというほどで、美男美女の夫婦となりました。

慶久には5人の子ができ、次女の喜久子は、有栖川宮家の祭祀を継承した大正天皇の三男の高松宮宣仁親王に嫁ぎました。

大正天皇の第三皇子 高松宮宣仁親王

将来を期待されていた慶久でしたが、1922年に37歳の若さで急死してしまいます。

睡眠薬として使用していたカルモチンの量を間違えた死であったといわれていますが、その早すぎる死から一部には自殺説もささやかれました。

慶久の後は息子の徳川慶光が跡を継ぎました。

徳川慶喜の孫 徳川義光

慶光は若い頃は中華文化に傾倒し、東大では中国哲学を専攻、卒業後は宮内省に勤めました。

初任給をすべて本の購入に使ってしまったという逸話もあります。

公爵を襲爵していましたが、1940年には召集され二等兵として入隊、肺炎にかかったため入隊、除隊を何度か繰り返した後、1944年に中国大陸に派遣され各地を転戦しました。

しかし行く先々で入退院を繰り返し、さらに赤痢やマラリアにかかって生死の境をさまようほどでした。

入院中、高松宮宣仁親王の義弟にあたることが発覚すると、一般兵の立場であるにも関わらず、司令官の岡部直三郎陸軍大将や旧水戸藩士子孫の櫛淵鍹一陸軍中将が見舞いに来るなど、病院内が慌ただしくなったといいます。

こうしている内に終戦を迎えた慶光は復員しますが、華族制度の廃止により公爵の地位と貴族院議員の職を失った上、財産税の支払いのために自宅を物納し困窮します。

義兄にあたる高松宮宣仁親王の支援で西園寺公望の元別荘である坐漁荘に一時住みますが、その後様々な事業を起こすも失敗、最終的には東京都町田の建売住宅に落ち着きました。

晩年は料理や野菜作りをして過ごした一方、愛人との不倫同棲事件が報道され和製ウィンザー公と話題になることもありました。

慶光の後はカメラマンをしていた息子の徳川慶朝が継いでいます。

慶朝によって徳川慶喜が撮影した写真などが発見され、保存、整理され現在に伝わっています。

慶朝は妻との間に二男一女をもうけましたが、離婚し子供は妻が引き取ったため、子孫は現在でも続いているものの、慶朝の死によって徳川慶喜家は断絶することになりました。

家として断絶した徳川慶喜家では、墓の行く末が問題になっています。

夫側の姓を名乗る夫婦が9割を占める現代日本では、女系で墓を相続すると多くの姓が入り組むことになるため一般的には男系で相続することが多いためです。

慶喜家の財産には他にも慶喜直筆の書など歴史的資料が数多くあり、これからの維持管理が問題となっています。

飲酒運転でひき逃げ!?息子は詐欺強盗罪で逮捕?徳川厚の家系

徳川慶喜の4男 徳川厚

徳川厚は慶喜の4男として生まれ、兄たちが早世していたことから事実上の長男として育てられました。

9歳の時には慶喜の後継者として徳川宗家から分家し、やがて男爵に叙されています。

元越前藩主松平春嶽の次女の里子と結婚し、6人の子供をもうけました。

厚は貴族院議員を務めた一方、父親に似て趣味も多彩で、競馬、ビリヤード、狩猟、絵画などで玄人の域に達すると評されています。

そんな厚にはひき逃げ事件を起こしてしまったといった汚点があります。

1917年という比較的早い時期に運転免許を取得した厚は、帝国ホテルでの食事の帰りに車を運転して帰りました。

厚はかなりの量の酒を飲んでおり、酩酊状態であったため、自宅とは別の方向に車を走らせており、屋台を引いている男性に車をぶつけてしまいました。

男性は全治3週間の重傷を負いますが、あろうことか、厚はそのまま車を発進させ現場を離れてしまいます。

事件を見ていた通行人が警察に通報し、ほどなくして厚は取り押さえられますが、厚は酩酊していてまともに返答できなかったといいます。

結局、飲酒運転で免許返納、右側通行していたことが規則違反とされ罰金処分となりました。

厚は逮捕とはなりませんでしたが、厚の三男の徳川喜好(とくがわのぶよし)は詐欺事件で逮捕されています。

喜好は名古屋で詐欺組織を結成し、土地取引に関する私文書偽造詐欺をはたらきました。

この詐欺で約2億円ほどを搾取した喜好は、懲役2年の判決を言い渡されました。

この事件には、母親の里子、兄の徳川喜翰(とくがわのぶもと)も関わっていたといわれています。

徳川慶喜の孫 徳川喜翰

厚の家系からは現代の徳川家をめぐるトラブルまで出してしまっています。

厚の次女の徳川喜和子は戸田豊太郎と結婚しますがやがて離婚してしまいます。

喜和子の次男である徳川豊治はアルコール中毒で、意識不明であった時に、アメリカで親しくなった日本人とロシア人のハーフの諸星ニコラスに勝手に養子縁組されてしまいます。

徳川光康と名乗ったニコラスは2002年にNPO法人徳川葵栄会を立ち上げ、江戸開府400周年記念の懐中時計の販売に協力するなど、慶喜末裔をかたり活動しました。

ニコラスは徳川家の菩提寺である大樹寺から借金し、返済もされていないなど、現在も問題を抱えています。

自動ドアを発明?国産オートバイを制作?勝海舟家の養子となった勝精

勝海舟の養子となった慶喜の子 勝精

徳川慶喜の10男、精は1888年に慶喜と新村信のもとに生まれました。

幼くして石工のもとに里子に出され、4歳の時に勝海舟家の養子となることが決定します。

勝海舟は息子の勝小鹿を早くに亡くしており、慶喜の子を養子に望み、小鹿の娘であった伊代子の婿として勝家に入りました。

精は慶應義塾大学を卒業後、浅野セメント、オリエンタル写真工業などの重役を歴任しました。

精は父親に似て多趣味で、写真やビリヤード、狩猟や投網を好んだといい、趣味を通じた交友も幅広い人物でした。

精の趣味はこれらにとどまらず、自動ドアの発明、国産オートバイの制作も行うなど、華族の中では非常に型破りな性格であったといわれています。

特にオートバイに関しては、発売されたばかりのハーレーダビッドソンのオートバイに興味を持ち、屋敷内に鉄工所を設け制作に取り掛かるといった熱の入れようでした。

ここで人員を集め制作に取り組み、1923年にはついに国産オートバイジャイアント号の制作に成功してしまいます。

排気量は1,000CCと当時としても優秀なオートバイでした。

のちに精の鉄工所のメンバーが中心となって目黒製作所が設立され、目黒製作所はやがて川崎重工業に吸収されます。

そのため、精はカワサキ車の起源を作った1人であるといわれています。

一方、私生活では妻の伊代子との間に1男5女をもうけましたが、35歳の頃に妻の伊代子を亡くした後は、妾を作りおおっぴらに遊んだといいます。

そして1932年に突如として43歳の若さで亡くなってしまいました。

当初、死因は脳溢血と報道されましたが、その後妾とカルモチンで心中自殺を図ったと報道されています。

勝伯爵家は息子の勝芳孝が継ぎました。

新村信と中根幸。2人の側室から生まれた慶喜の子どもたち

慶喜家を継いだ徳川慶久、徳川宗家から分家した徳川厚、勝海舟の家を継いだ勝精のほかに、慶喜と新村信の間には8人の子が、中根幸との間には10人の子がいました。

新村信

18人の子どもたちを新村信の子から順に紹介します。

1871年に生まれた長男の敬事は早世しました。

1887年に生まれた長女の徳川鏡子は、徳川宗家の当主徳川家達の弟であり、田安徳川家を継いだ徳川達孝の妻となりました。

鏡子(右)と慶喜の母、吉子女王(左)

鏡子は4人の女子を産みましたが21歳で亡くなりました。

鏡子の子ではありませんが、徳川達成、孫の徳川宗英と現在も田安徳川家は続いています。

三女の鉄子は一橋徳川家当主の徳川達道に嫁ぎました。

2人の間には子は生まれず、一橋徳川家は水戸徳川家から徳川宗敬が入り続いています。

五男の博は因幡鳥取藩藩主家の池田輝知の養子となり池田仲博として池田家を継ぎました。

池田仲博

2人の子の池田徳真が跡を継ぎ、現在は娘の池田百合子氏が当主となっており、養子はいるものの鳥取藩主家としての池田家は自分で終焉とすることを表明しています。

六男の斉と、六女の良子は早世しています。

九女の経子は海軍のトップであった伏見宮博恭王に嫁ぎました。

慶喜の9女 博恭王妃経子

子の博義王、孫の博明王と続き、戦後に臣籍降下して現在に至ります。

十一女の英子は水戸徳川家を継いだ徳川圀順に嫁ぎました。

子の徳川圀斉、孫の徳川斉正と続き、水戸徳川家は現在に至っています。

もう1人の側室である中根幸との間には、次男の善事と三男の琢磨、次女の金子が生まれますがいずれも早世しています。

中根幸

四女の筆子は阿波徳島藩主家の蜂須賀正韶に嫁ぎました。

子に蜂須賀正氏がおり、孫の蜂須賀正子氏に続き現在に至りますが、子はおらず、正子氏は蜂須賀家最後の当主となります。

五女の脩子は早世しました。

七女の浪子は11代将軍徳川家斉の子で美作津山藩主であった松平斉民の子の松平斉に嫁ぎました。
夫の斉は結婚7ヶ月後に突如失踪してしまいますが、斉との子である松平斉光を育て上げています。

八女の国子は上野高崎藩主家の大河内輝耕に嫁ぎました。

大河内輝耕夫妻

十女の糸子は古くからの貴族の家である四条家の四条隆愛に嫁ぎました。

八男の寧は早世しています。

九男の徳川誠は分家して男爵になりました。

徳川誠

横浜正金銀行に勤め、その後浅野セメント監査役に就任、貴族院議員も務めました。

誠だけが何の爵位にもついていなかったため慶喜も心配していましたが、男爵になったことで安心したといいます。

誠の長男の徳川熙(ひろむ)は戦争で戦死し、日本銀行に勤めていた次男の徳川脩(おさむ)が跡を継ぎ、孫の徳川康久氏は2018年まで靖国神社の宮司を務めていました。

まとめ

京都時代の徳川慶喜

明治時代以降は静岡にて隠居暮らしをしていた徳川慶喜。

将軍後見職時代、将軍時代は多忙であったこともあり妻とも別居していたため子にも恵まれませんでしたが、明治時代以降はたくさんの子供に恵まれました。

初めの頃に生まれた子供たちはみな早世しており、庶民の家で育てた方が元気に育つということから長女の鏡子以降はみな庶民の家に里子に出されました。

当時の貴人としては異例なことで、このような特殊な環境で育ったこともあってか、慶喜の子どもたちは多彩な趣味を持つなど、一般的な華族の子女のイメージとは少し離れた成長を遂げました。

慶喜自身が復権したこともあり子どもたちも自身で家を立てたり、名門に入ったりなど活躍しています。

最後の将軍、徳川慶喜の血脈は幅広くつながっており、日本各地にその子孫を残すこととなりました。

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