幕末 近代

渋沢栄一の妻 伊藤兼子 江戸一の大商人から没落、28歳で離婚した兼子が辿った道とは

「日本資本主義の父」渋沢栄一には千代と兼子という2人の妻がいました。

今回は、渋沢栄一の正妻、千代が亡くなった後、栄一の妻となった伊藤兼子について紹介します。

兼子は実家が没落し、芸妓をしていた頃に栄一と出会い、妾となった後に栄一と正式に結婚しました。

栄一との間には幼くして亡くなった子供も含め6人の子供ができ、栄一が亡くなるまでそばに付き添い、栄一を支えました。

今回はなぜ兼子の実家は没落してしまったのか、栄一と結婚した後の兼子はどうなったのか、兼子と栄一の子どもたちのその後について紹介します。

江戸一の大商人 兼子の父、伊藤八兵衛

兼子の父、伊藤八兵衛は江戸一番の大富豪としてその名を馳せた大商人でした。

兼子の父、伊藤八兵衛(写真左)

しかも、八兵衛は世襲ではなく、自分の才覚で上り詰めた苦労人でもあったのです。

八兵衛は現在の埼玉県川越の豪農の分家の家に生まれました。

しかし八兵衛は農業ではなく商業の道を選び、江戸の伊勢屋長兵衛の店で奉公します。

伊勢屋長兵衛は江戸でも有数の質屋で、そこで頭角を現した八兵衛は、伊勢屋の一族で京橋十人衆と呼ばれた幕府の御用商人の1つ、伊藤家の婿養子となりました。

八兵衛は商売をさらに成長させ、水戸藩と協力し、金銀や穀物の流通を扱うなど手を広げ、江戸一の大富豪と呼ばれるまでになります。

特に水戸藩と手を結び成長してきた八兵衛は、1864年に水戸藩の尊王攘夷派、天狗党が反乱を起こした際には、求めに応じて3億円ものお金を即座に提供したといいます。

天狗党の乱

また、明治維新の際に新政府から資金の提供を求められた際には、三井が3億円ほどのお金を提供したのに対し、八兵衛は5億円と三井を上回る資金を提供していました。

江戸一の大商人であった八兵衛は外国商人ともつながりが深く、明治維新後、北海道の支配をすることとなった水戸藩主の徳川昭武のために、アメリカ商人からの借入を支援しています。

徳川昭武

この水戸藩の北海道経営のための借金は、北海道が水戸藩から政府の管轄になったため返済できなくなり、渋沢栄一とアメリカ商人の交渉により借金の減額がなされています。

このように、幕末に大商人として頭角を現した八兵衛の勢いは明治時代に入っても衰えることはなかったものの、八兵衛はこの後思わぬ落とし穴にかかることとなります。

為替取引で大失敗 突然の没落

明治に入っても大商人として君臨していた八兵衛は、日本に進出してきた欧米商人と提携し、さらに業績を伸ばそうと画策します。

その1つが、ドル為替取引でした。

アメリカのウォルシュ・ホール商会と共同事業として為替取引を始めようとし、多額の保証金も出していました。

しかし、アメリカ側の担当者であったロバート・ウォーカー・アーウィンが為替取引で大失敗してしまい、八兵衛側にも多額の損失を出してしまいます。

アーウィンと八兵衛は昵懇の仲であったことから、当初はアーウィンの失敗がばれないように帳簿に記載しないなど損失隠しに協力していましたが、やがて損失が多額になり八兵衛の身も危うくなったことから、八兵衛は保証金の返還を求めて裁判を起こします。

当時は不平等条約が結ばれており、裁判は日本人によるものではなく、外国領事の裁判所で行われました。

八兵衛は裁判でアーウィンの不正を証明しようと試みますが、当時の契約の多くは口約束で行われていたことから、不明確な部分が多かったにも関わらず、八兵衛は全面的に敗訴してしまいました。

八兵衛は判決を不服とし、カリフォルニアの高等裁判所に訴えようとしますが、事業の失敗により負債を抱えていたため裁判費用が捻出できず、そのうちに病に倒れ、1878年に亡くなってしまいました。

八兵衛が開業した乗合馬車 千里軒

八兵衛は日本で初めての2階建て馬車を走らせた乗合馬車会社の千里軒を開業したりするなど、事業の失敗を取り返そうと活動していましたが、八兵衛の死により、伊藤家は完全に没落することとなってしまったのです。

渋沢栄一を献身的に支えた八兵衛の娘 伊藤兼子

栄一の後妻 伊藤兼子

兼子は1852年に伊藤八兵衛の娘として生まれました。

兼子ら伊藤八兵衛の娘たちはみな美人と評判で、美人4姉妹として巷で噂になっていたといいます。

兼子は18歳の時に近江国出身の青年を婿に取り結婚しました。

しかし伊藤家の没落とともに離婚します。このとき兼子は28歳でした。

離婚した兼子は、芸妓として何とか身を立てていこうと働き口を探していたところ、渋沢栄一を紹介されました。

日本資本主義の父 渋沢栄一

当時の兼子は、没落したとはいえ大商人の娘で育ちもよく、その美貌も話題になっていたことから、妾としての誘いはたびたび受けていたといいます。

しかし兼子には妾にだけはなりたくないという思いがあり、妾の誘いは全て断っていました。

栄一も当初は妾として兼子を誘っていましたが、最終的には正式な妻として迎えることとなっています。

兼子を気に入っていた栄一は、正妻の千代が亡くなり、子供も幼かったことから、家庭内に女手を必要としていたという事情もあり、兼子を正妻に迎えたといわれています。

栄一の最初の妻 千代

こうして渋沢家に入った兼子は、日々慌ただしく働く栄一を支え、栄一との間に子ももうけました。

兼子は自分の子と、先妻千代との間に生まれた子たちも分け隔てなく育て、良妻賢母として知られるようになります。

渋沢栄一の妻として政財界の大物の妻たちとも積極的に交流し、鹿鳴館などで行われていたパーティーにも参加していました。

当時はまだ珍しかったドレスを着こなす兼子の姿が写真に残っています。

兼子はその育ちの良さから、芸術にも通じており、明治時代初期の歌人、鶴久子の弟子であったというエピソードも残っています。

1902年には、栄一とともに渡米し、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトと会談、1909年には栄一の民間外交の1つである渡米実業団にも随行しました。

栄一はウィリアム・タフト大統領と会見したほか、3ヶ月かけてアメリカ各地を訪問し、貿易摩擦の解消、相互理解の進展に努めました。

兼子はこの長期にわたる訪問にも帯同し、団長の栄一の妻としてアメリカ人とも積極的に交流しています。

兼子は栄一が力を注いだ東京養育院など社会慈善事業にも尽力しました。

鹿鳴館で開かれた病院援助のための慈善バザー開催にも取り組み、まだ日本では浸透していなかった慈善事業の発展に貢献しています。

こうして日本を代表する実業家の妻として栄一を支え続けた兼子は、91歳で栄一が亡くなるまで側におり、栄一が亡くなった3年後の1934年に亡くなりました。

兼子は栄一とは生涯仲睦まじく暮らしましたが、栄一の女好きには多少呆れていたようです。

栄一は68歳のときにも妾との間に子を作るほど女遊びが激しい人物でした。

これに対し兼子は、「論語とは上手いものを見つけなさったよ、あれが聖書だったら、天で守れっこないものね」とあきれた言葉をよく口にしていたといいます。

キリスト教は姦淫を禁じていますが、論語には性に関する戒めがほとんど書かれていないことから、栄一の著書である論語と算盤にかけて栄一を皮肉ったものです。

この様に呆れながらも生涯にわたって栄一を支え続けたからこそ、渋沢栄一も生涯現役で日本経済の発展に力を尽くせたのかもしれません。

兼子と栄一の子どもたちのその後

兼子は栄一との間に9人の子供をもうけました。

しかしその内5人は死産、夭逝してしまい、無事に成長したのは武之助、正雄、愛子、秀雄の4人だけでした。

1886年に生まれた武之助は、東京帝国大学の法科大学に進学し法律の道を目指しますが、病気になったため中途退学し、実業界に入って活躍しました。

その後の武之助は、日本の軍用飛行機メーカーで、弟の正雄が社長を務めていた石川島飛行機製作所の2代目社長を務めたほか、様々な企業の取締役、監査役を務めています。

しかし戦争中の空襲で家を焼かれ、自宅の自動車小屋を改造したバラックの中で病に倒れ、1946年に亡くなりました。

1888年に生まれた正雄は、東京帝国大学経済学部を卒業後、栄一が頭取を務める第一銀行に入ります。

しかし2年足らずで退職した後、実業界に身を投じ、現在のいすゞ自動車にあたる石川島自動車製作所の社長など様々な企業の社長、取締役を務めました。

やがて正雄は製鉄業に専念するようになり、1934年には国内製鉄業者が統合された日本製鐵の常務取締役に就任、八幡製鐵所の所長も務めました。

1890年に生まれた愛子は、第一銀行頭取などを務めたの妻になりました。

明石照男

明石照男はその優秀さを栄一に認められ、栄一の第一銀行で順調に出世し頭取、会長まで上り詰め、他にも渋沢家の家業である澁澤倉庫の会長や、現在の渋沢栄一記念財団にあたる竜門社の理事長を務めるなど、渋沢家に欠かせない人物となっています。

1893年に生まれた秀雄は、欧米留学で西洋の住宅事情を学んだ後、現在の東急東横線田園調布駅周辺の開発を行った田園都市株式会社に入り、東急沿線の開発に取り組みました。

一方、大学時代に、兼子の妹の子であるたけ子と結婚し、2男2女をもうけるも、後に離婚し、戦後に花街の女性と再婚、1984年に亡くなりました。

実家が没落しても自分を強く持ち、日本経済の父と呼ばれた渋沢栄一の妻として夫を支え続けた兼子。

一度没落を味わったからこそ、栄一の妻となって何一つ不自由ない暮らしをできるようになってもおごることなく栄一を支え続けられたのでしょう。

幼い頃から栄一の側にいた先妻の千代とはまた別の形で栄一の支えになった兼子。

彼女たちの献身的な支えが渋沢栄一、ひいては日本経済の発展に大きく寄与したことは間違いありません。

 

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