織田秀則は織田信忠の次男であり、織田秀信の異母弟にあたる武将です。 兄である秀信に仕え、秀信死後は豊臣家に仕え、1625年に死去しました。
そんな織田秀則の生涯を見ていきましょう。
以下は織田秀則の年表です。
西暦(年齢) | できごと |
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1581年(0歳) | 織田信忠の次男として誕生 |
1596年(15歳) | キリスト教に入信 |
1600年(19歳) | 関ヶ原の戦い。秀信とともに改易 |
1615年(34歳) | 大阪夏の陣 |
1625年(45歳) | 京都にて死去 |
出生 〜兄秀信の家臣として
織田秀則は1581年、織田信忠の次男として生まれました。
三法師として有名な兄織田秀信は異母兄にあたり、秀則の母親の出自は分かっていません。
幼少期の秀則の動向は記録には残っていませんが、兄秀信の元にいたようです。
1596年には秀信とともにキリスト教に入信し、パウロという洗礼名をもらっています。
この頃に元服し、正式に秀信の家臣として活動しています。
宣教師ルイス・フロイスの日記にこの頃の秀則の記述が残っており、「素性を知らずに彼と少し話した場合、その品格によりドイツの貴族と判断してしまう」と評していることから、織田信長の血をひき、堂々とした武将であったようです。
秀信は豊臣政権の有力大名として秀吉の元に多くいたため、秀則は秀信の名代として政務にあたっています。1598年には秀則の名前で京都の妙心寺に見性院を創建しており、現在でも桂春院と名前を変え残っています。
こうして兄のもとで活躍を続けた秀則でしたが、関ヶ原の戦いで彼の運命もまた大きく変わりました。
関ヶ原の戦い 兄と袂を分かつ
関ヶ原の戦いで秀信は西軍につき、当然秀則も秀信に従い東軍側と戦うことになります。
秀則は前線の武将として大いに奮戦し、その活躍は江源武鑑に記述が残るほどでした。織田信長の武勇は秀則にもしっかりと伝わっていたようです。
織田秀信は信長を彷彿とさせる派手な出で立ちで奮戦したと伝わっていますので、秀則も信長のような南蛮風の派手な鎧兜を着用して戦ったのでしょう。
しかし織田兄弟の奮戦虚しく織田軍は米野の戦いに敗北し、岐阜城も陥落してしまいます。
降伏した織田秀信は改易され高野山に送られることになりました。秀則は当初は秀信とともに 高野山に向かう予定でした。
しかし、結局同行はせず、豊臣秀頼の家臣となる道を選びました。高野山は織田家に敵対心を 抱いており、苦難の道になることを予想した秀信の配慮であったと言われています。
また豊臣家には淀殿をはじめ、織田家の縁戚が多くおり、身を寄せやすかった環境でもありました。
こうして兄と袂を分かった秀則は豊臣家に仕官することになります。
豊臣家滅亡 大阪夏の陣
関ヶ原の戦い後の豊臣家には、秀則の他に、信長の次男織田信雄、信長の弟織田有楽斎、織田信包ら多くの織田家関係者がいました。
彼らは淀殿の親戚として彼女、そして豊臣秀頼を補佐する役割を果たします。秀則も同じく淀殿の側近として仕えました。
1605年には高野山に追放されていた秀信が死去したため、信忠系の織田家は秀則が当主となります。
こうして豊臣家臣として日々を過ごしていた秀則ですが、 徳川家康の大阪攻めによりその平穏な日々も失われます。
秀則の動向は詳しく残っていませんが、織田信雄や織田有楽斎らと同じく合戦前後に大阪城を脱出しています。
大阪城落城後は誰にも仕えず、10年後の1625年、京都にて45歳の生涯を閉じました。
結城秀康の家臣として福井に?
以上が秀則の生涯になりますが、一説には秀則は津田信益と改名し、徳川家康の次男結城秀康 に仕えたという異説もあります。
しかし福井藩の津田信益は娘が結城秀康の側室となるなど、関ヶ原の戦い当時19歳だった秀則 とは年齢に差があることから、同名の別人ではないかと言われています。
しかし結城秀康は家康の息子でありながら、秀吉の養子でもあり新豊臣派であったことから、 西軍に属した秀則を匿っていてもおかしくありませんね。
最後に
兄、親戚を支えながらも、2度も滅亡の憂き目に遭ってしまった織田秀則。
武勇は確かであったことから、成長した姿をぜひとも見てみたい武将でした。