こんにちは!レキショックです!
今回は、武田信玄の軍師として名高い、山本勘助の子孫のその後について紹介します。
かつては甲陽軍鑑のみに現れる架空の人物ともされていた勘助は、戦後に実在を証明する文書が見つかり、実在の人物として再認識されるようになりました。
大河ドラマ『風林火山』で取り上げられた翌年の2008年には、武田信玄から勘助と子供たちに宛てた書状が見つかり、勘助の子孫のその後も含め、実態の解明が一気に進んでいます。
勘助の子孫は、武田氏滅亡後、徳川氏の旗本となるも無嗣断絶となり、残った一族は30年近くにわたる浪人生活の末に再仕官を果たすという苦難の道を歩むこととなりました。
今回は、川中島の戦いで勘助が討死した後、長篠の戦い、武田氏滅亡と幾多の困難に巻き込まれ、二度の浪人生活を経て、高崎藩士として明治時代を迎えた山本勘助の子孫のその後について紹介します。
創作上の人物から実在の人物へ
山本勘助、子供たちの存在が確認されるまで
武田氏の軍師として名高い山本勘助ですが、作戦参謀のようなイメージがついたのは江戸時代に武田氏の軍略、戦術を記した軍学書甲陽軍鑑が出版されて人気を博し、講談などで軍師のイメージが作られるようになってからです。
現代でいう軍師のイメージは甲陽軍鑑にすら記述されておらず、勘助は築城の名人、合戦の吉兆を占う軍配者、足軽大将を兼ねる多彩な人物として書かれていました。
もっとも、甲陽軍鑑に記されている勘助像は事実とは言い難く、武田四天王の一人春日虎綱が、勝頼側近の長坂釣閑斎、跡部勝資を戒めるために、武勇に優れた者たちばかりを称賛したという性格の書物であり、吏僚派家臣の活躍を山本勘助一人に集約したものとされています。
そのため、勘助は信玄の軍師として人気を博しながらも、長らく甲陽軍鑑内の創作上の人物とされてきました。
しかし1969年に、元武田家臣で武田氏滅亡後は上杉景勝に仕えていた信濃の国衆 市河氏の子孫の家から見つかった書状の中に「山本菅助」の名があり、一転して実在が証明されることとなります。
この文書により、勘助は信玄の信頼厚い上級将校であったことが確認され、さらにこの発見から40年近くが経った2008年に、信玄が勘助、及びその子供たちに宛てた文書が発見され、勘助だけでなく山本家のその後まで判明することとなりました。
なお、甲陽軍鑑とこれらの文書では勘助の漢字が異なっており、(甲陽軍鑑:勘助 古文書:菅助)一般的に広まっている勘助の名は甲陽軍鑑だけのもので、子孫には適用されていません。
勘助は、信玄が父の武田信虎を追放して当主となってから少し経った1543年頃に、他国者の新参家臣として、築城技術を評価されて板垣信方の推薦で召し抱えられたとされています。
戦場でも武功を挙げ、上杉謙信と対峙する北信濃の諸城との連絡役を務めるなど、信玄の信頼を得て活動していました。
勘助には娘がいたものの、長らく跡継ぎとなる男子がおらず、甲斐の饗庭越前守の子十左衛門尉幸俊を娘婿として迎えていました。
しかしその後、十左衛門尉が17歳になった1553年に、勘助の実子となる、後の二代目山本菅助兵蔵幸房が生まれ、勘助は実子に跡を継がせることとします。
勘助は時期は不明ながらも、出家して道鬼と名乗っており、残っている史料にも道鬼の名で記されているものがあります。
しかし、1561年、信玄と謙信の最大の激戦となった第4次川中島の戦いで、勘助は上杉謙信の突撃を受けた武田本軍の一員として戦い、武田典厩信繁や諸角虎定らとともに討死を遂げることとなりました。
勘助の死後、山本家には8歳の実子兵蔵と25歳の婿養子十左衛門尉が残され、この二人が勘助の名跡を後世に伝えていくこととなります。
当主が長篠の戦いで戦死するも、武田氏滅亡後は徳川家臣として生き残る 山本勘助の子供たちのその後
勘助の戦死時、兵蔵はまだ幼かったことからすぐには家督を継がず、姉婿の十左衛門尉が家督を代行することとなりました。
やがて、1568年、兵蔵が15歳になる時までには家督を継ぎ、父と同じ菅助の名を襲名し、二代目山本菅助として武田氏に仕えることとなりました。
もっとも、現存する軍役状には、山本家の財政が厳しかったのか、課せられた6人の軍役の内、不足部分をきちんと補うように書き記されています。
こうして菅助は、自身は馬上の武者として、4人の兵士と二人の小物を率いて、武田家臣として各地の戦場で戦うこととなりました。
しかし、1575年の長篠の戦いで菅助は討死を遂げ、22歳の若さで生涯を閉じることとなります。
菅助には子がいなかったようで、菅助の死後は、かつて名代を務めていた姉婿の十左衛門尉が山本家の当主となり、引続き武田氏に仕えることとなりました。
十左衛門尉の時代には、二代目菅助の妻に所領を分知したのか、軍役が一人減って5人の兵を率いて戦場に出ていたとされますが、詳しい活躍の記録は残っていません。
武田氏滅亡時も、勝頼に従って信濃まで出陣していたのか定かではないものの生き延び、本能寺の変後の徳川、上杉、北条の間で行われた天正壬午の乱では、十左衛門尉は素早い動きを見せます。
徳川家康は、伊賀越を経て三河へ帰還すると、間髪入れずに織田家臣が撤退して空白地帯となった旧武田領の甲斐、信濃に進出を開始し、家臣の大須賀康高と旧武田家臣の岡部正綱、曽根昌世を先発させました。
本能寺の変の翌月の7月には家康自ら出陣していますが、十左衛門尉はこのわずか一月の間に、先遣隊の大須賀康高を通じて徳川氏に臣従しています。
これは旧武田家臣の中でも早い方で、徳川家臣の家臣、陪臣としてしか召し抱えられなかった者も多くいる中、山本家は家康に直接使える直臣の身分を獲得することに成功しました。
十左衛門尉は、臣従当初は甲斐に加え信濃にも領地を持っており、計80貫文(約160石)を領していましたが、信濃の領地が深志城主 小笠原貞慶の領地に組み込まれてしまい、最終的には勘助以来の領地と思われる36貫文(約72石)ほどの領地を安堵されています。
武田旧臣の旗本衆は、徳川家の直属軍隊、大番衆に編成されていたことから、山本家もその一員として扱われていたと考えられます。
十左衛門尉は1597年に61歳で亡くなり、跡を実子で山本勘助の血を引く平一郎幸明が継ぎました。
ただし、山本家はこのまま旗本として江戸時代を平穏に過ごしたわけではなく、様々な困難に見舞われ歴史の闇に消えそうになりながらも、勘助の血筋を後世に伝えていくこととなるのです。
浪人生活を二度も強いられるも、山本勘助の人気により
仕官が叶う 山本勘助の子孫のその後
山本家の家督を継いだ平一郎は、詳しい動向は定かではないものの、関ヶ原の戦い後は伏見城に在番していました。
平一郎は、家康の次男で越前福井藩主となっていた結城秀康と交流があり、平一郎が秀康の元を訪問するも、秀康が病のため早々に帰らざるを得ず、後日秀康がお詫びに羽織を送ったことを示す書状が残っています。
しかし、平一郎は1605年に伏見で急死し、子供もいなかったことから山本家は無嗣改易処分とされてしまいました。
平一郎には3人の弟がいたものの、突然の死のため養子手続きを取っておらず、末期養子禁止の令に引っかかったものと思われ、さらに残った3人の弟のうち、上2人が続けざまに亡くなるという不幸に見舞われます。
唯一残ったのが、まだ若い一番下の弟 三郎右衛門で、三郎右衛門は武田氏ゆかりの甲斐に移り住み、江戸と甲斐を往復しながら、旗本として復帰すべく活動を始めました。
しかし、兄の死から20年以上経っても三郎右衛門は仕官が叶わず、甲斐で旧武田家臣の子孫と交流しながら浪人生活を送ることとなります。
そんな三郎右衛門を召し抱えようとしたのが、水戸藩初代藩主の徳川頼房で、当時流行っていた甲陽軍鑑を読み山本勘助に興味を持ち、子孫がいれば召し抱えたいと言うようになったといいます。
その情報を、三郎右衛門の知り合いの武田旧臣で、水戸藩に既に仕官が叶っていた近藤忠重が聞き、旧武田家臣の誼で三郎右衛門は水戸藩に推挙されることとなりました。
しかし、同時期に水戸藩が召し抱えようとしていた、上杉謙信の軍師 宇佐美定満の子孫を称する者が、上杉氏の調べで偽物であることが発覚したのが影響したのか、水戸藩仕官の話は立ち消えとなってしまいます。
三郎右衛門は浪人生活を続けることとなりましたが、兄の死から28年後の1633年、山本勘助の子孫に興味を持った淀藩主 永井尚政が三郎右衛門を召し抱えようとし、武田旧臣 日向清安を通じて、甲斐で三郎右衛門と対面し、ついに仕官が叶いました。
こうして三郎右衛門は、甲陽軍鑑に書かれた山本勘助の記述、および武田旧臣ネットワークに助けられ、淀藩10万石の家臣として新たな道を歩むことになります。
三郎右衛門は菅助の名を襲名し、主君の永井尚政も、山本勘助の孫を召し抱えたことを知り合いの大名に自慢して回るほどだったといいます。
三郎右衛門の死後は、息子の晴方が菅助の名を襲名し、晴方は山本菅助の子孫として、甲陽軍鑑を成立させ甲州流軍学の祖となっていた武田旧臣 小幡景憲の元で兵法を学びました。
そして、甲陽軍鑑の中で脚色された曽祖父 山本勘助の兵法、築城術を身につけ、景憲から奥義を伝授されるほどになります。
しかし、主君の永井氏は、丹後宮津藩に転封された後、1680年に無嗣断絶となり、山本家は再び浪人となってしまいました。
それでも、山本勘助の名が世に広まっていたこともあり、2年後の1682年に、知恵伊豆の名で知られた老中 松平信綱の五男で土浦2万2千石の藩主となった松平信興に召し抱えられます。
晴方はやがて家老となり、勘助以来の甲州流築城術をもって、土浦城の大改修を行い、甲陽軍鑑の山本勘助のイメージ通りの活躍を見せました。
晴方の跡を継いだ甥の山本十左衛門は、松平家の転封先の下野壬生城の普請を行い、藩主の代わりに壬生城代を任されるほど重用されるようになります。
その後、松平家は上野高崎8万2千石に転封され、明治維新を迎えることとなり、山本家も紆余曲折ありながらも高崎藩士として続いていくこととなりました。
山本家に伝わる文書や、山本勘助着用の鎧は、やがて山本家の手を離れ、群馬県安中市の真下家、そして山本家が明治維新後に移住した静岡県沼津市に残されることとなり、長い時を経て山本勘助の実像を現代に伝えることとなったのです。