今回は、徳川慶喜の弟である徳川昭武は、明治時代以降どのように過ごしていたのかについて紹介していきます。
幕末の水戸藩主徳川斉昭の18男として生まれた昭武は、徳川慶喜の異母弟にあたり、年齢も16歳離れていました。
昭武は幼い頃から京都で幕府側の一員として活動しており、10歳の頃から、禁門の変、天狗党の乱で一軍の将として出陣しています。
やがて徳川慶喜が15代将軍となると、御三卿の1つである清水徳川家を相続し、さらに慶喜の名代としてパリ万国博覧会に出席しました。
渋沢栄一らを引き連れ向かったフランスではナポレオン三世に謁見し、万国博覧会終了後はスイス、オランダ、ベルギーなどヨーロッパ各国を周り、その後はパリにて留学生活を送っています。
しかしその頃の日本は、慶喜が大政奉還を行い江戸幕府は消滅、鳥羽伏見の戦いを経て江戸城は新政府軍に明け渡されてしまいます。
昭武にも新政府から帰国命令が届き、新政府の命令に逆らうことで徳川家の印象が悪くなることを恐れた昭武はついに帰国を決定しました。
今回は、帰国後の昭武はどのような道を歩んだのか、昭武の子孫はどうなったのかについてご紹介します。
帰国後は水戸藩主に 再び欧州にも留学
帰国を決めた昭武は、フランス滞在の思い出とするために、ノルマンディー地方などフランス北西部を10日間にわたって旅行しています。
旅行を終えてパリに帰ってきた昭武のもとに届いていたのが、兄である水戸藩主徳川慶篤が死去したとの手紙でした。
昭武は慶篤が死去した後、天狗党と諸生党が争って政情不安定な水戸藩をまとめるために水戸藩の次期藩主となることが決定していたのです。
留学生活の後始末などを済ませた昭武は、約1ヶ月かけて神奈川へと海路で帰国しました。
この間に、日本人が初めてココアを飲んだ記録として、昭武がフランスの海軍工廠を尋ねる前に、朝ココアを飲んだという日記が残されています。
昭武が帰国した頃の日本は、彰義隊が上野戦争で敗れ、会津藩も降伏し、旧幕府軍は東北から蝦夷地へ移動しようとしている頃でした。
水戸藩でも、諸生党が水戸城下に押し寄せ、弘道館戦争が勃発していました。
そんな情勢下、帰国の翌年に昭武は水戸藩を相続し、水戸藩主となります。
この頃の水戸藩は佐幕派の諸生党を尊攘派の天狗党が抑え、内乱は終結していましたが、天狗党、諸生党双方による弾圧により藩の勢いは全く衰えていました。
幕末の水戸藩家臣団名簿には3400人もの名が記されていた一方、明治初期には890人ほどにまで減っていることからも、いかに水戸藩が内乱でダメージを受けていたかがわかります。
度重なる内乱で有能な人材を失った水戸藩は、新政府にも人材を送り込めませんでした。
それでも昭武は、北海道の支配を出願し、現在の宗谷、留萌あたりの一帯の支配を任されました。
そのうちに廃藩置県が行われ、昭武は知藩事を免じられ東京に移住し、旧水戸藩下屋敷にて暮らします。
1875年、昭武22歳の時には、陸軍少尉に任じられ、陸軍戸山学校にて教官として軍事教養を教えていました。
当時はまだ外国へ留学している人材が少なく、将軍の名代としてフランスの最高峰の教育を受けた昭武の経験は大変貴重なものだったのです。
その翌年、昭武はアメリカで行われたフィラデルフィア万国博覧会の御用掛として訪米しました。
この時の責任者は西郷隆盛の弟、西郷従道で、昭武はパリ万国博覧会の時の経験を活かし西郷を支えます。
そのかいもあってか、日本は生糸や有田焼で世界中の注目を集め、後進国とみなされていた日本への関心と評価を高める結果となりました。
万博終了後は、兄弟で、元土浦藩主土屋挙直、元会津藩主松平喜徳らとともにフランスに渡り、再び留学生活を送ることになります。
前回の留学ではフランス皇帝のナポレオン3世に謁見した昭武でしたが、昭武が日本に戻っている間に、フランスは普仏戦争を経て第三共和制に移行していました。
昭武の留学は約4年におよび、最後の1年は留学先のエコール・モンジュを退学し、甥の徳川篤敬とともに、ドイツ、オーストリアなど欧州各国を旅行、ロンドンにも半年ほど滞在した後に帰国しました。
30歳にして隠居 慶喜とは生涯続いた親交
帰国後の昭武は、ともに欧州を旅行した甥の徳川篤敬(とくがわあつよし)に家督を譲り隠居しました。
篤敬は先代の水戸藩主であった徳川慶篤の子で、昭武自身は松戸に戸定邸(とじょうてい)を作り、そこで余生を過ごしました。
戸定邸は昭武の留学知識を活かし、本格的な造園が行われ、完成までに6年の歳月をかけています。
建物は9棟から成っており、うち8棟が現在も重要文化財とされているなど、豪華な作りとなっていました。
戸定邸には兄である徳川慶喜や、慶喜の母にあたる吉子女王が訪れており、有栖川宮威仁親王や、大正天皇も訪れるなど、皇室関係者もたびたび訪れ長期滞在するなど、由緒ある屋敷となっていきます。
明治時代以降の昭武は、自転車や狩猟、写真、園芸など様々な分野で趣味に打ち込んでいました。
隠居後は徳川慶喜とも盛んに交流し、静岡に毎年のように出かけ、慶喜と一緒に狩猟や写真撮影に興じたといいます。
昭武は写真撮影に特にのめり込んだようで、自ら現像まで手掛け、今もなお昭武の撮影した写真は多く残っています。
昭武は造園にも注力しており、西洋式庭園を築いて植物の栽培を手掛けました。
現在は千葉大学園芸学部の用地となっており、歌人である与謝野晶子によって「松戸の丘」と和歌に詠まれるほどの庭園となっていました。
1898年には水戸徳川家を継いでいた徳川篤敬が亡くなり、その子の徳川圀順(とくがわくにゆき)が水戸徳川家当主となると、昭武はその後見となっています。
昭武自身は、22歳の時に公家の中院通富の娘である盛子と結婚し、8年後に長女の昭子をもうけますが、産後の肥立ちが悪く、妻、盛子が亡くなってしまいました。
その後は後妻を迎える話もありましたが、昭武自身が隠居の身であったことから立ち消えとなり、妾であった斉藤八重との間に三男三女をもうけました。
長男、三男は早世し、次男の徳川武定に子爵が授爵されたことから、昭武の家系は松戸徳川家として新たに家を興すこととなったのです。
昭武は1910年、旧水戸藩邸であった小梅邸にて58歳で亡くなりました。
昭武の子孫のその後は?息子の武定は海軍技術者として日本の潜水艦の第一人者に!
昭武の跡を継いだのが実子である徳川武定(とくがわたけさだ)です。
武定は東大の造船科を卒業後、海軍の造船技師となりました。
武定は技師として日本の造船技術の発展に尽くし、大正時代に海軍が計画した八八艦隊計画では、巨大戦艦の設計に携わっています。
造船技術を高めるために約3年間私費を投じてイギリス留学も行い、海軍技術研究所に20年間にわたって勤務し日本の海軍の発展に技術面から貢献しました。
武定は築地市場に通って魚を観察し新造艦のアイデアを求めたという逸話が残されているほど研究熱心で、最終的には海軍技術研究所所長、海軍技術中将にまで上り詰めています。
特に潜水艦研究に多大な貢献をしており、のちに昭和初期に帝国海軍が優秀な潜水艦を多数保有できたのは徳川武定の研究成果によるところが大きいと讃えられています。
武定は海軍勤務を続ける傍ら東京大学工学部の教授も務めており、講義の声が大きく、廊下に声が響き渡っていたとの話が残っています。
戦後は公職追放となってしまいますが、全く畑違いの大手書店丸善の顧問となり、作家の永井荷風の研究論文で注目を集めるという一風変わったところも見せています。
追放解除後は、防衛庁の技術研究所や川崎重工業の顧問を務めて、日本の造船業の再建に尽力しています。
一方、徳川昭武が築いた戸定邸は、戦後の相続税法改正もあり維持が難しくなったため、1951年に松戸市に物納されています。
その結果、戸定邸は松戸市によって管理されることとなり、公民館や歴史館などを経て、重要文化財となり、現代にまで明治前期の上流階級の建築を伝えることとなったのです。
武定は徳川慶喜の孫にもあたる田安徳川家当主徳川達孝の娘、繍子と結婚し、娘の宗子に徳川博武(とくがわひろたけ)を婿に迎えて松戸徳川家を継がせました。
徳川博武は、徳川昭武の兄弟にあたる土屋挙直の孫にあたり、現在は、博武の子にあたる徳川文武氏(とくがわふみたけ)が松戸徳川家を当主として現在も続いています。
まとめ
徳川慶喜の弟として幼い頃から時代に翻弄された徳川昭武。
しかし、派遣されたパリ万国博覧会では10代前半にも関わらず堂々とした立ち振舞で「プリンス・トクガワ」と呼ばれるなど、徳川家の面目を保ちました。
慶喜からは次期将軍候補とされていた昭武は、幕府滅亡により水戸藩を継ぎ、本来思い描かれていた国の中枢への道は閉ざされてしまいますが、それでも留学経験を活かし明治初期の日本の発展に貢献しています。
そんな昭武が心血を注いで建設した松戸の戸定邸は明治時代の建築を現代に伝える役割を担っています。
渋沢栄一が躍進するきっかけとなったパリ万国博覧会で活躍した徳川昭武。大河ドラマ『青天を衝け』をきっかけにさらに注目されることでしょう。