今回は、忠臣蔵でおなじみの赤穂藩浅野家はその後どうなったのかについて紹介します。
豊臣政権で五奉行を務めた浅野長政の三男、浅野長重に始まり、息子の浅野長直の代に赤穂に転封され、赤穂藩浅野家は成立しました。
長直のひ孫にあたる浅野内匠頭長矩は、5代将軍徳川綱吉の代に藩主として赤穂の地を治めていました。
浅野内匠頭は、江戸城内で吉良上野介義央を切りつけ、即日切腹、赤穂藩浅野家は取り潰しとなってしまいます。
この際に吉良上野介への処分がなかったことが、のちの赤穂浪士の討ち入りに繋がります。
やがて、家老、大石内蔵助を中心に、浅野内匠頭の弟の浅野大学による御家再興運動が展開されることとなります。
今回は、赤穂浪士たちによる御家再興運動のその後、そして赤穂藩浅野家がたどったその後の道について紹介します。
御家再興のために尽力した赤穂浪士たち。
大石内蔵助ら赤穂浪士たちは、当初から吉良上野介への仇討ちをするつもりはありませんでした。
堀部安兵衛などは当初から仇討ちを主張していましたが、大石内蔵助は、浅野家の再興、吉良家への処分がどちらもなされない場合のみに討ち入りすることとしていました。
浅野内匠頭の切腹後、赤穂藩は改易となり、赤穂城もすでに引き渡しを終えていましたが、内匠頭の弟の浅野大学長広は処分が決定していなかったのです。
この時点では、弟の浅野大学に減封の上新しい領地を与えるといった処分もまだ可能性として残されており、大石内蔵助たちはこの御家再興の可能性に賭けていました。
浅野大学は、内匠頭の弟、そして養子として、赤穂藩の新田3000石を与えられており、将軍徳川綱吉にもお目見えを済ませるなど、後継者として申し分ない身分でした。
しかし、浅野大学は、広島藩浅野本家への預かりという処分を下されてしまいます。
これにより御家再興の望みを絶たれたとした大石内蔵助ら赤穂浪士たちは、いよいよ吉良上野介への仇討ちをすべしと一致し、討ち入りを実行に移します。
仇討ちを達成した浪士たちは、江戸の市民たちから英雄として称えられ、最終的には切腹となったものの、武士の鑑としてもてはやされました。
もっとも、大学自身は広島の浅野本家預かりという処分を受けたままでした。
しかし大学は、預かりの処分中ではありましたが、浅野本家から1000俵を支給されており、罪人という身分ではなかったようです。
そして1709年に5代将軍徳川綱吉が亡くなったことによる大赦で許され、6代将軍徳川家宣から、改めて500石の領地を与えられました。
赤穂浪士の討ち入りから6年、大名という形ではなく規模も小規模ですが、赤穂藩浅野家はお家再興を果たすこととなりました。
また、広島の浅野本家からも別に300石を支給され続けることとなります。
浅野家は旗本として、この500石の領地を幕末まで守り続けていくこととなります。
江戸時代以降の浅野家
浅野大学は赤穂浪士の討ち入りから31年後の1734年に65歳で亡くなり、兄の浅野内匠頭や浪士たちと同じ泉岳寺に葬られました。
これ以降、浅野家当主は代々泉岳寺に葬られることとなります。
泉岳寺境内には赤穂義士記念館があり、浪士ゆかりの品を所蔵するなど、泉岳寺は江戸時代を通じて赤穂浪士、浅野家と関係を持つこととなりました。
大学の跡は息子の浅野長純が継ぎました。
浅野長純の代の将軍は8代将軍徳川吉宗となっており、長純は吉宗に御目見後、将軍の親衛隊的立場で、江戸城内で勤務する小姓組番士を務めました。
長純の跡は息子の浅野長延、そして弟の浅野長貞が継ぎます。
長貞の時代に、安房国にあった領地を上総国に移されています。
長貞の跡は、息子の浅野長邦が継ぎ、長邦は将軍の馬廻衆である書院番士を務めました。
長邦の時代は、11代将軍徳川家斉の時代にあたります。
長邦の跡は息子の浅野長年、孫の浅野長栄が継ぎ、長栄の代に浅野家は幕末維新を迎えることとなります。
幕臣から朝臣への転身。明治時代以降の浅野家。
浅野家は、浅野長栄の代に明治維新を迎えます。
浅野長栄は、1864年に書院番士になり、江戸幕府の役人として仕えます。
そして明治時代になると長栄は江戸幕府旗本から朝廷の臣、朝臣に転じます。
幕府の旗本の多くが徳川家の静岡藩に移住したのに対し、浅野家が朝臣に転じたのには明治天皇が赤穂浪士を顕彰したことが理由の一つであるといわれています。
明治時代になると、幕府に対する反逆者でもある赤穂浪士に対して公式に顕彰する動きが出てきました。
京都から東京に移った明治天皇は、浅野内匠頭や赤穂浪士たちが眠る泉岳寺に勅使を派遣し、赤穂浪士を称賛する文書を贈ります。
浅野家は明治天皇より改めて禄高300俵を与えられました。
長栄は1889年に51歳で亡くなり、泉岳寺に葬られます。
浅野家は長栄の娘の静子が家督を継ぎました。
しかし、静子の次の当主の浅野長楽は、妻を迎えず、子もいなかったことから、長楽が1986年に亡くなったことで赤穂藩浅野家の嫡流は途絶えることとなりました。
一方、忠臣蔵は明治時代に入っても、歌舞伎の人気演目として上演され続けました。
大正時代に入ると、歌舞伎が海外でも上演されるようになり、忠臣蔵も海外進出を果たしました。
しかし、第二次世界大戦後には、GHQによって忠臣蔵は上演禁止とされます。
GHQは歌舞伎を愛国につながる忠義の理念の宣伝媒体であると考え、その中でも忠臣蔵は特に危険な演目であるとして目をつけられたのです。
1947年には禁止令も解かれ、戦後も歌舞伎の人気演目の一つとして上演され続けています。
御家再興のために尽くし、その望みが叶えられないと悟り、主君の無念を晴らすために仇討ちを決行した赤穂浪士たち。
赤穂浪士たちが御家再興の希望とした浅野内匠頭長矩の弟の浅野大学は、大名としての再興は果たせなかったものの、旗本としてその血脈を現代にまで伝えました。
また、家老の大石内蔵助の息子、大石大三郎は、英雄となった大石内蔵助の子として広島藩浅野家が家臣として欲しがり、1500石で召し抱えられています。
赤穂藩浅野家の血筋は途絶えてしまいましたが、忠臣蔵の人気は衰えず、現代でも泉岳寺には浅野家や赤穂浪士の墓を訪れる人が絶えません。
これからも、浪士たちの討ち入りは語り継がれ、赤穂藩浅野家の事績も後世に残されていくでしょう。
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