幕末 近代

明治時代以降の徳川慶喜 渋沢栄一とは生涯にわたって親交が続いていた?

明治時代に撮影された徳川慶喜

今回は、明治時代以降、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜はどのように過ごしていたのか紹介します。

最後の将軍として衰退する幕府を支え続け、大政奉還を行い江戸幕府の歴史に幕を引いた徳川慶喜。

しかし王政復古の大号令鳥羽・伏見の戦いを経て、慶喜は朝敵とされ追討の対象となってしまいます。

追討軍に対し慶喜は全く抵抗せず謹慎、恭順を貫き、やがて江戸城は開城され、江戸幕府は名実ともに滅び去り、明治政府による世の中に時代は移りました。

慶喜は徳川宗家が70万石の藩主となった静岡にて謹慎生活を続けましたが、その後は長生きし、大正時代の初め頃まで生きていました。

明治時代の始まりから終わりまでを生き抜いた最後の将軍、徳川慶喜の後半生を詳しく紹介します。

明治政府の警戒心を解くことに腐心 明治時代初期の慶喜

江戸城開城後、慶喜は一旦水戸で謹慎生活を送りますが、その後は徳川宗家が移った静岡に移り、1年2ヶ月の謹慎生活を送ります。

この頃、旧幕府軍は会津藩の降伏後、榎本武揚を筆頭に箱館に渡り、箱館政権を樹立し新政府と戦闘を続けていました。

大久保利通や勝海舟は、慶喜の謹慎を解除し、榎本武揚征伐にあたらせることを提案しますが、三条実美の反対により中止となり、そのうちに榎本武揚は降伏、戊辰戦争は終結します。

戊辰戦争終結から4ヶ月後、勝海舟大久保一翁らが新政府に働きかけ、徳川慶喜の謹慎は解除されました。

謹慎解除後も慶喜は静岡で暮らし、廃藩置県に伴い宗家の徳川家達が東京に移った際も慶喜は静岡にとどまっています。

これに対して、渋沢栄一は勝海舟によって徳川慶喜は静岡に押し込められていたと語っています。

勝はいまだ安定しない東京に慶喜を移すことを不安に思い、慶喜を静岡に留め置いたとも言われていますが、慶喜も旧幕臣のなかでも出世頭であり徳川家のために政府内で動いてくれている勝の言うことは聞かざるを得ない状況でした。

一方、明治政府内では慶喜の徹底した恭順の姿勢が実り、戊辰戦争以降朝敵とされ無位無官となっていましたが、1872年には従四位に叙せられ官位が回復し、1880年には将軍時代と同じ正二位を与えられています。

そして1888年には特例措置で従一位を与えられ、公爵に叙されていた宗家の徳川家達と並ぶ礼遇を享受できるようになりました。

しかし、静岡時代の慶喜は徳川宗家の管轄下にありました。

慶喜の生活費はすべて宗家から送られ、慶喜の家令も宗家がすべて選任するなど、慶喜と宗家の徳川家達との間には明確な上下関係があったといいます。

そんな2人の関係性をあらわすエピソードに、慶喜と家達が対面する際に、慶喜が上座に座っていたところ、家達が「私の席がない」と怒り、慶喜が慌てて譲ったというものがあります。

徳川慶喜(右)と徳川家達(左)

また、慶喜は娘の養育を宗家に依頼しており、娘たちが東京に行く際には家達に従順であるように厳しく申し付けていました。

慶喜のこの姿勢は宗家だけにとどまらず、11代将軍徳川家斉の子で、徳川家の長老的立場となっていた松平斉民の息子の松平斉が、慶喜の娘の波子へ求婚した際には、嫌がる波子に対し、家達の世話になっている身であることを言い聞かせ辛抱させたという話もあります。

このように、前将軍である慶喜は、まだ世情が安定しないなかではおとなしくすることしかできず、趣味の道にのめり込んでいくこととなるのです。

趣味を満喫 子作りにも励んだ静岡時代

静岡時代の慶喜は、政治的野心は一切持たず、趣味の世界に没頭していました。

慶喜の趣味は、記録に残っているだけでも、狩猟、鷹狩、囲碁、投網、能、洋画、刺繍、釣りなど多岐に渡っています。

慶喜は新しい物好きで、一度興味を持つと一定期間同じものに熱中するという特徴がありました。

静岡ではまだ珍しかった人力車や自転車も早くから乗っており、人力車で清水湊まで行き投網を楽しんだ記録や、サイクリングを楽しんだ記録が残っています。

サイクリング中は家臣たちは走って慶喜を追いかけ、一方の慶喜は美人に見とれて電柱にぶつかったという話もあるとか。

狩猟をする際にも、鳥を追って畑を縦横無尽に走り回り、作物を荒らしたため農家から苦情が入った際には「では全部買い取ったらよかろう」と答えるなど、将軍時代には考えられないようなエピソードも残されています。

そんな慶喜の趣味に大きな影響を与えたのが1889年に静岡で開通した東海道線です。

新しいもの好きの慶喜は、さっそくこれに乗車し、弟の徳川昭武のいる松戸へ向かい、母とともにしばらく松戸で過ごしています。

昭武もこれ以降、東海道線に乗車し、毎年のように静岡を訪れるようになったといいます。

慶喜の弟 徳川昭武

慶喜の趣味である狩猟も、東海道線の開通に伴い、活動範囲が大幅に広がりました。

しかし50歳近くになっていた慶喜は、加齢により身体が動かなくなったのか、狩猟、釣りの回数が減り、代わりにビリヤード、写真が趣味の中心となりました。

ちょうど慶喜が写真撮影を始めた1880年代後半は、撮影方式の変化により機材の持ち運びが簡単になったことから、慶喜は鉄道に乗って色んな所へ撮影にでかけたといいます。

写真撮影は写真家の徳田幸吉に技術を学んでいましたがあまり上達はしなかったようで、芸術性よりも日常の記録として写真撮影を行っていたようです。

カメラマンをしていた曾孫の徳川慶朝によって、慶喜の撮影した写真が発見され、整理、編集され出版されています。

慶喜は食事も新しい物好きで、この頃にはコーヒーを愛飲し、パン、牛乳もよく食べるなど、さながら現代人のような食事もとっていました。

静岡時代の慶喜は、子作りにも励み、側室との間に10男11女をもうけています。

長男から三男までは手元で大事に育てられましたが、早世したため、長女の鏡子からは庶民の家で厳しく育てたほうが元気に育つということから里子に出すようになりました。

これ以降に生まれた子どもたちは、植木屋、米穀商、石工など庶民の家に里子に出しています。

だいたい3〜4年ほどで慶喜のもとに戻されていますが、貴人が庶民の家に里子に出すのは当時としてはかなり異例なことであったといいます。

一方、正室の美賀子夫人は、慶喜の静岡移住とともに静岡に移りともに暮らし始めましたが、慶喜との間には、結婚直後にもうけ早世してしまった女子以外に子はできませんでした。

美賀子夫人と慶喜は次第に疎遠になり、慶喜が伊豆修善寺温泉への旅行に側室を連れて行った一方、美賀子夫人は同行せず、慶喜の帰宅後に別に修善寺温泉に出かけるという冷めた関係となってしまいました。

東京へ移住 皇室ともつながりを深める

1897年に慶喜は東京に移住します。

江戸開城から30年近い月日がたった頃のことでした。

この時期になって急に東京に戻ったのは、勝海舟が一線から退き、勝を気にせず自由に動けるようになったからだといわれています。

また、慶喜も60歳近くなり、医者が揃っている東京に移住したがっていたこと、子どもたちが東京の学習院に進学し、慶喜のまわりが寂しくなったことからついに東京移住となりました。

東京移住後の慶喜は皇室との関係を深めていくこととなります。

1898年には皇居に参内し明治天皇の拝謁を受けています。

この時に慶喜は明治天皇に対し「明治維新のことについてはもう何も思っていない」と伝え、明治天皇も安心したといいます。

当時皇太子であった大正天皇とも親交を深め、大正天皇は慶喜のことを「ケイキさん」と呼び、慶喜も「殿下」と呼ぶなど親しい間柄となりました。

大正天皇

慶喜は年末年始の挨拶、昭和天皇の誕生祝いなどことあるごとに大正天皇を訪ね、1ヶ月に1回ほどの頻度で訪問していました。

これほど頻繁に皇太子を訪問した人は慶喜くらいです。

勝海舟も死去し、皇室ともつながりを持った慶喜は、以前に比べて格段に自由に動けるようになり、東京での生活を満喫します。

巣鴨、小石川に自宅のあった慶喜は、自転車に乗って銀座にショッピングに出かけたり、上野の博物館に行ったりしています。

大正天皇のいる東宮御所や、千駄ヶ谷の徳川宗家の屋敷にも自転車で通っていました。

こうして東京を気ままにサイクリングしながら、気に入った場所があれば写真を撮るという生活を送りました。

東京移住後も狩猟は続けており、大正天皇のお供で出かけたり、弟の昭武を連れて遠出しています。

昭武とは東京移住により距離が近くなったことから以前にもまして交流は深くなっていたようです。

東京移住により、慶喜の新しい物好きも加速していきます。

明治末期の東京には、時代の最先端をいく物が揃っていました。

新しい物好きの慶喜はこれらの品々を真っ先に取り入れていきます。

1899年に東京〜大阪間で長距離電話が開通すると、翌月には自宅に電話を引き、1909年には新たな暖房器具として登場したガスストーブを見るためにガス会社を訪問しています。

アイスクリーム製造機を使って自家製アイスクリームを作ったり、蓄音機でレコード鑑賞を楽しんだり、当時の最先端技術を慶喜は堪能していました。

1899年には、日本で最初に上映されたニュース映画ともいわれる「米西戦争活動大写真」を鑑賞しています。

1912年には当時日本では150人ほどしか所有者のいなかった自動車を入手しています。
これは縁戚の有栖川宮威仁親王が旅行のお土産にダイムラーの自動車を慶喜に贈ったものです。

この頃の慶喜は70歳を越えていましたが、すぐに免許を取ると、息子の慶久を連れて徳川宗家へ自動車で訪問し、その後も色々なところへドライブを楽しんでいました。

老齢にさしかかっても慶喜の好奇心は衰えず、新しい技術、製品にも柔軟に対応していたのです。

公爵に叙任 晩年まで続いた渋沢栄一との関係

徐々に深まっていった皇室とのつながりもあってか、慶喜は1902年に公爵に叙せられます。

本来ならば、分家して華族となる場合は男爵が相当ですが、慶喜の公爵叙任は特例措置で、これにより慶喜は徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興すこととなり、貴族院議員にもなりました。

将軍辞任から約35年、ついに慶喜は公的に復権することとなったのです。

慶喜は、これを祝って授爵した6月3日には毎年祝宴を開いており、慶喜にとってこの授爵がたいそうな喜びであったことが伝わってきます。

公爵として自分の家を創設した慶喜は、経済的にも宗家から独立するようになります。

この頃の慶喜の収入は、宗家からの送金ではなく、株式配当が主となっていました。

慶喜が投資していた会社の大部分を占めていたのが、渋沢栄一が関わっていた会社です。

渋沢栄一

他にも日本鉄道や日本郵船など、一般的な会社の株も保有していましたが、これらの株式は基本的には渋沢栄一の事務所を通して購入されていました。

渋沢栄一は明治維新後も慶喜を旧主として尊敬しており、後年、慶喜の事績を正確に後世に伝えようと、『徳川慶喜公伝』を編纂しています。

栄一はこの伝記の編纂のために慶喜に直接話を聞く「昔夢会」を開催しています。

この座談会をまとめたのが『昔夢会筆記』で、この中には「島津久光はあまり好きではなかった」「長州は最初から敵対していたから許せるが、薩摩は途中で裏切って許せない」など、晩年の慶喜の本音が綴られています。

明治天皇が崩御し、大正時代の到来も見届けた慶喜でしたが、1913年に77歳で亡くなりました。

慶喜の墓は歴代徳川将軍が眠る増上寺や寛永寺ではなく、谷中霊園にあります。

墓の形式も、皇族と同様の円墳となっており、これは慶喜が歴代天皇の陵が質素であることに感動し真似たものといわれています。

自身の葬儀も、公爵の地位を与え復権させてくれた明治天皇へ感謝の気持ちを表すために、徳川家の様式には従わずに神式で行われました。

水戸藩に生まれ、尊王の心の厚かった慶喜らしい最期でした。

まとめ

従来は、鳥羽伏見の戦いで新政府軍と戦わずに逃げ帰り、江戸幕府崩壊の原因を作ったとして評価の低かった徳川慶喜。

しかし、慶喜が一切反抗せずに、江戸城の無血開城まで至ったことで旧幕府と新政府の全面戦争は避けられ、外国の介入を防ぐことができたと再評価されています。

明治時代以降の慶喜も、ただ趣味に明け暮れていたのではなく、政治には一切関わらないことで明治政府に反発する者たちが前将軍である慶喜を担ぎ上げることを防ぐ役割を持っていました。

慶喜も自身の周りに反乱分子が集まらないように、戊辰戦争を旧幕府側で戦った旧幕臣とは面会を避けたり、かなり気を使っていました。

徳川斉昭の息子として生まれ、尊王の心の厚かった徳川慶喜。

彼なくしては明治維新、日本の近代化は達成できなかったでしょう。

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