こんにちは!レキショックです!
今回は、源義高の従者である海野幸氏の生涯について紹介します。
信濃国で反平家の兵を挙げた木曽義仲に従っていた海野一族の家に生まれた幸氏。
父や兄たちは、義仲に従って各地を転戦する一方、幸氏は鎌倉に人質として送られた義仲の子、源義高に従者として仕えていました。
しかし、木曽義仲が戦死し、その子の源義高も追討の対象となると、幸氏の運命は大きく動くこととなります。
子孫には戦国時代の英雄、真田昌幸、真田幸村もいるといわれる海野幸氏。
その数奇な生涯を紹介します。
木曽義仲に仕え各地を転戦 海野氏の始まり
海野氏は、信濃国を中心に勢力を誇った家で、根津氏、望月氏と並んで、滋野三家と呼ばれる一大勢力の中心の家でした。
一説には、清和天皇の後胤が信濃国に移住し、海野氏の祖となったとするという説もありますが、在地の開発領主が力を持って武士団を組織したとする見方が一般的です。
海野幸氏の父、海野幸親は、古くから源氏に仕える武将でした。
海野氏ら滋野三家は、信濃国でも有名な馬産地である望月牧を抑えており、1500頭もの馬を飼育していたことから、軍事力として期待される存在となっていました。
保元の乱では源頼朝の父、源義朝に従って、300騎を率いて戦い、活躍したといいます。
幸親の出自には諸説あり、一説には、木曽義仲の乳母子の今井兼平らの父、中原兼遠の兄弟であったとする説や、義仲四天王の一人、根井行親と同一人物だとする説もあります。
いずれにせよ、同じ信濃国の勢力として、木曽義仲を庇護する中原兼遠とは深い関係にあったとされています。
その縁もあって、幸親の子である海野幸氏も、早くから木曽義仲のもとで、その子の源義高に仕えることとなったのでしょう。
1180年に以仁王が打倒平家の兵を挙げ、諸国の源氏に令旨を発すると、木曽義仲も信濃国の武士たちを率いて挙兵しました。
幸氏の父、海野幸親もこの挙兵に参加し、義仲軍の主力として各地を転戦することになります。
越後国の平家方勢力が義仲討伐のために攻めてきた横田河原の戦いにも参陣し、大軍で攻めてきた城長茂の軍を計略をもって撃退しています。
義仲は、源頼朝や、甲斐源氏の勢力とぶつからないように、彼らの勢力が及んでいない北陸方面へ兵を進めますが、頼朝と対立していた叔父の志田義広や源行家を庇護したことで、頼朝と対立関係になってしまいました。
あくまでも源氏同士の戦いを避けたい義仲は、息子の義高を頼朝の元へ人質に出すことで、頼朝と和議を結びます。
この時、幸氏は、鎌倉に送られることとなった源義高の従者として、同族の望月重隆らとともに鎌倉へ出向きます。
義高は、源頼朝の娘の大姫の婿とされ、しばらくの間、鎌倉で平穏な日々を過ごすことになります。
一方、頼朝と和議を結んだ木曽義仲は、倶利伽羅峠の戦いで平維盛率いる平家軍を破り、入京を果たしました。
しかし、後白河法皇と不和になり、京都の治安維持にも失敗した義仲は、挽回のために西国の平家追討を目指しますが、水島の戦いで平家軍に敗れてしまいます。
この戦いで、幸氏の兄、海野幸広は先陣として敵に突入し、討死しています。
そして、後白河法皇の要請を受けた源頼朝が、ついに木曽義仲討伐の兵を京都へ送ることとなりました。
これに対し、義仲は法住寺合戦で後白河法皇を幽閉し、頼朝軍の迎撃体制を整えます。
幸氏の父、海野幸親もこの法住寺合戦に参加し、その後、宇治川の戦いで頼朝軍を迎え撃つこととなりました。
しかし数に劣る義仲軍は、源義経、源範頼率いる頼朝軍に敗れ、義仲は北陸に落ち延びる途中に、粟津の戦いで討死してしまいました。
海野幸親も最期まで義仲に従って敵と戦い、義仲とともに粟津の戦いで討ち取られ、その首は義仲らの首とともに獄門にかけられたといいます。
こうして、父たちを戦いで失った源義高、海野幸氏ら主従のもとに、頼朝の魔の手がのびることとなるのです。
身代わりとなって義高を逃がす その後の幸氏
木曽義仲が敗死した後も、約半年の間は義高の身の回りにも異変は起こりませんでした。
しかし、頼朝は将来の禍根を断つためと義高殺害を決断します。
頼朝が義高を殺害しようとしていることを知った大姫は義高を密かに逃がそうとしたといいます。
しかし、まだ幼い大姫が何かできたとは考えづらく、大姫の母の北条政子らも一体となって義高を逃がそうとしていたと考えられます。
義高は、女房姿になって、大姫の侍女たちに囲まれ屋敷を抜け出し、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出しました。
そして、幸氏が義高の身代わりとなって屋敷に残り、義高がいつもどおり屋敷にいるように見せかけます。
しかし、その日の夜には義高の逃亡は露見し、幸氏は捕らえられ、義高は武蔵国の入間河原で討ち取られてしまいました。
この一件に大姫は深く悲しみ、病に臥せりがちとなり、大姫の母、北条政子は娘が病に苦しむのは義高を殺したせいだとして、義高を殺した郎党の処分を頼朝に迫るほどでした。
幸氏に対しても、当初頼朝は、義高を逃した罪人として捕らえていましたが、幸氏まで殺しては大姫を余計に悲しませるだけだと思ったのか、幸氏を赦免します。
そして幸氏は、自分の身を挺して主人を逃した忠義の者として、頼朝の御家人に加えられることとなったのです。
御家人となった幸氏は、得意の弓の腕前で活躍します。
まだ若かったことから、源平合戦や奥州合戦での活躍はなかったものの、頼朝の従者として、鶴岡八幡宮での弓始めの儀式や、善光寺の落慶に参加していた記録が残っています。
また、曽我兄弟の仇討が起こった富士の巻狩りでは、頼朝の警護役を務めています。
この富士の巻狩りでは、頼朝も命を狙われますが、幸氏は頼朝を守って戦い、負傷したことが記録に残っています。
その後も弓の名手として活躍し、武田信光、小笠原長清、望月重隆と並んで、弓馬四天王に数えられ、鎌倉幕府を代表する弓の使い手としてその名を上げることになりました。
こうした活躍もあり、幸氏は御家人として信濃国に領地を与えられ、信濃の有力者としての地位を高めていきます。
頼朝の死後は北条氏に接近し、和田合戦でも北条方として活躍、承久の乱でも幕府軍の一員として活躍し、有力御家人としての地位を確立しました。
源平合戦を戦った御家人たちが次々と亡くなっていく中、彼らの子の世代であった幸氏は、3代執権北条泰時、そしてその孫の北条時頼の代まで活動していた記録が残っています。
幕府を代表する弓の使い手であった幸氏は、65歳の高齢ながら、5代執権の北条時頼に流鏑馬を指南していた記録が残っており、周囲からも弓馬の宗家と讃えられたといいます。
また、甲斐源氏の武田氏と領地を接していた幸氏は、たびたび武田氏と国境争いをしていたといい、この海野氏と武田氏の争いは、戦国時代まで続くこととなります。
幸氏が78歳の時の1250年まで、幸氏の活動の記録は残っており、源義高の死から70年近く幸氏は生き延びていたこととなります。
幸氏死後の海野氏 真田氏までつながった系譜
幸氏の死後も、海野氏は北条氏との関係を深めながら、鎌倉時代を生き抜きます。
そして、鎌倉幕府滅亡後、海野氏は北条氏の残党勢力である北条時行が起こした中先代の乱で、北条方の中心勢力として再び歴史の表舞台に舞い戻ることとなります。
信濃国に逃れていた北条時行は、諏訪頼重ら信濃国の武士たちとともに鎌倉に攻め上り、同じく信濃国の有力者で北条氏とも関係の深かった当時の当主、海野幸康も時行に従って、北条軍の主力として戦いました。
その後の南北朝の戦いでも、幸康は南朝方として北朝方と戦い、後醍醐天皇の皇子の宗良親王に従って、足利尊氏と武蔵野合戦で戦い、討死したといいます。
南北朝の戦い後も信濃国の国人領主として一定の地位を有していた海野氏は、足利義満の時代に、信濃守護とされた小笠原長秀に対する信濃国人の反乱である大塔合戦でも、主力として小笠原勢と戦っています。
しかし、応仁の乱が起こるなど世の中が乱れていく中、海野氏は北信濃の有力者である村上氏と戦いを繰り広げ、徐々に衰退していきます。
海野氏は隣国の関東管領上杉氏に従うことで、その命脈を保とうとしましたが、上杉氏も衰退する一方で、勢力回復には至りませんでした。
そしてついに、村上氏と結んだ甲斐国の武田信虎らの軍に敗れ、当主の海野棟綱は上野国に逃れ、海野氏の勢力は滅亡することとなってしまいました。
海野氏の名跡は、のちに武田信玄の次男の海野信親が継承し、信親も織田信長の甲州征伐で命を落とし、海野氏は滅亡しました。
一方、真田氏の祖である真田幸隆は、海野氏滅亡の際の当主、海野棟綱の子であると伝わります。
海野棟綱の娘婿である真田頼昌の子とする説もあり、在地の勢力が信濃の有力者である海野氏の名跡を利用しただけとする説もあるなどはっきりとはしていませんが、海野氏と何らかの関係はあったようです。
幸隆は海野氏の滅亡によって同じく領地を失い、上野国の長野業政のもとへ逃れますが、のちに武田信玄に仕え、武田氏の信濃侵攻にあわせて旧領回復を果たすこととなりました。
その後も、幸隆の子の真田信綱、真田昌輝が武田二十四将に数えられるなど、武田氏の有力家臣として真田氏は活躍し、武田氏滅亡後は、真田昌幸が独立大名として有力者のもとを渡り歩き、その名を轟かせることとなります。
昌幸は上田城の戦いで二度も徳川軍を破り、その子の真田幸村は大坂の陣で徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めるなど、海野氏の系譜を引く真田氏は、戦国時代を代表する活躍を見せることとなりました。
また、昌幸の長男の真田信之の家系は、信濃松代藩主として江戸時代を生き抜き、海野幸氏以来の海野氏の系譜は、真田氏を経て、現代にまで伝わることとなったのです。