今回は、関東大震災のとき、栄一は何をしていたのか、震災からの復興にどのように携わったのかについてご紹介します。
1923年、渋沢栄一83歳のとき、関東大震災が発生しました。
マグニチュード7.9と推定される地震によって首都東京は壊滅的な被害を受けます。
地震が起きた時間がちょうど昼時で、各家庭ではかまどや七輪で火を使用していたことから、各地で火災が発生し、被害はさらに拡大します。
結果として死者、行方不明者は10万人以上に上るなど、未曾有の大災害となりました。
渋沢栄一はこの時のできごとを日記に残しており、さらに83歳という老齢にも関わらず震災復興に尽力しています。
今回はそんな栄一の活躍についてご紹介します。
地震発生当時、栄一は何をしていた?
渋沢栄一は大正時代に入り、徐々に実業界の第一線からは引退するようになっていました。
第一銀行頭取の座も佐々木勇之助に任せ、自らは民間外交や教育、福祉を中心に活動するようになります。
栄一は特にアメリカとの外交に注力します。
1909年には渡米実業団を組織し、全国の商業会議所のメンバーを引き連れ渡米、日米貿易摩擦の解消に務めました。
その後も何度か訪米し、1915年にはウィルソン大統領と会見、日米関係委員会、日米協会などを設立し、自らも会長に就任するなど、民間人という立場ながらアメリカとの親善のために精力的に活動しています。
この時にアメリカの実業家、政治家とも多くのつながりを築いていたことが、のちに日本を救うこととなります。
地震当日の栄一は、日本橋兜町にある事務所にいました。
昼時で書類をパラパラとめくっているところを大きな揺れが襲います。
栄一は事務所内の人に助けられながら何とか玄関までたどり着きますが、玄関の石材が崩れ落下するなど危険な状態で、やっとの思いで裏庭へ逃れました。
やがて、栄一の事務所の隣にあった第一銀行の方が安全だということで銀行に逃れ、頭取の佐々木勇之助としばらく雑談していたといいます。
そして栄一の事務所が崩れ、自身の伝記や徳川慶喜の伝記の資料が危ないから、翌日になったら銀行に移そうと話し、銀行を後にしました。
しかしやがて東京中を襲っていた火災は栄一の事務所や第一銀行をも飲み込み、栄一の重要な資料は焼失してしまいました。
栄一にとって不幸なことに、ちょうど栄一は自分の伝記を編纂中で、自身の古い手紙などを王子の自宅から事務所へ持ってきており、資料がことごとく焼けてしまっています。
このことについて栄一は「80の老人が火災に思慮が及ばず警戒の気持ちが起こらなかったのは、老人一生の失策だ」と語っています。
栄一はその日のうちに王子まで逃げ延びます。
家の人たちは、故郷の深谷まで避難したほうがいいのではと勧めますが、「私のような老人は、こういう時に働いてこそ生きている申し訳が立つものだ」と東京にとどまりました。
ここで終わらないのが渋沢栄一。復興に向けて全力で活動します。
震災復興に尽力 80歳を過ぎた栄一の大活躍
栄一は震災直後から、自ら被災者のために食糧をかき集め、配給を行いました。
さらに、栄一は自身が組織した協調会を通じて、被災者の収容、炊き出し、災害情報板の設置、臨時病院の確保を進めています。
協調会とは栄一が労働争議の活発化に備えて労使協調を推進するために設立した官民組織で、会長には徳川宗家の徳川家達が、栄一は副会長を務めていました。
栄一はこれらの救済事業をすすめるために義援金集めにも奔走、大震災善後会を結成し、全国から支援を募ります。
さらに、栄一とつながりのあったアメリカの実業家からも多くの義援金が寄せられます。
栄一とのつながりもあってか、アメリカの支援は諸外国の中でも圧倒的で、「数分が生死を分ける」をスローガンに全米規模で募金活動が行われるほどでした。
こうして救済事業を進めている中、栄一は、内務大臣後藤新平から帝都復興審議会への参加を要請されます。
栄一はこれに応え、政府側でも被災者支援と経済の復興に尽力しました。
栄一は、かつて武家の都であった東京を、商業都市に変えていこうと主張し、東京港の築港や、京浜運河の建設を提案します。
後藤新平も東京を大きく変える大規模な計画を提案します。
しかし、あまりにお金のかかる計画には反対意見も多くありました。
結局、後藤新平らが計画した復興計画は、あまりにも現実的でなかったため頓挫しますが、栄一らの活躍により東京の復興は進み、震災直後には遷都すべきとまでいわれていた東京は徐々に復興していくこととなります。
栄一が唱えた天譴論 栄一は震災に何を思った?
栄一は明治以降最悪の災害となった関東大震災に対して天譴論を唱えていました。
これは、世の風潮が利己的で傲慢になったために、天が罰として警鐘を鳴らしたと受け止めるべきであるという考え方です。
当時の日本は、日清戦争、日露戦争を経て一等国の仲間入りを果たし、第一次世界大戦にも出兵、中国に対華二十一カ条要求を叩きつけ、シベリア出兵も行うなど、帝国主義の道をひた走っていました。
栄一は、今の日本はとんでもない流行病にかかってしまったとも思っていたのでしょう。
当時の日本は、福沢諭吉らが唱えた大日本主義のもとに、武力によって国を広げていき、国を維持しようという考えが中心となっていました。
これに対し、渋沢栄一は、国際日本という考えを持っていました。
公正な競争と協調によって国際社会、理想的な社会を作っていこうとする考えで、この考えを実現する手段が商業だったのです。
栄一は地震から8日後に新聞のインタビューで、関東大震災は天からのおしかりであると述べています。
明治時代以降、日本は帝国主義をひた走ってきたが、その源泉地であった東京横浜は地震で壊滅した。
果たしてこの文化は道理、天道にかなった文化だったのだろうか。最近の政治、経済は私利私欲を目的とするものではなかっただろうか。という内容です。
このインタビューからは、かねてより栄一が疑問に抱いていた帝国主義をこの地震を機に見直そうという考えが見て取れます。
栄一たち幕末維新の人々は、自分の命を捨てる覚悟で日本のために尽くしてきました。
しかしそうした努力により一度制度が出来上がってしまうと、その中で人々は自分の利益しか見ないようになり、国のため、公益のために命を捨てるという考えをなくしてしまいます。
栄一はこうした利益追求の考え方に対する反省を促す意味も込めて、天譴論を唱えたのでしょう。
栄一の唱えた天譴論はやがて腐敗した上流階級や近代文明への批判の材料として使われるようになり、悪い意味で一種の流行語となってしまいます。
栄一もこうした風潮には「天譴だという人は本当にこれを天譴だとは思っていないのかもしれない」と苦言を呈しています。
80歳を越えた栄一に突如として襲いかかった未曾有の災害、関東大震災。
老いてなお衰えない行動力で迅速に復興活動を行い、乱れた世を見直すきっかけにするべきだと唱えた栄一には、我々も学ぶべきところが多々あります。