こんにちは!レキショックです!
今回は、渋沢栄一の息子、渋沢篤二についてご紹介します。
渋沢篤二は栄一の次男として生まれ、長男の市太郎が幼くして亡くなっていたことから、後継者として大事に育てられました。
しかし幼くして母を亡くし、日本経済の父と呼ばれた栄一の後継者という重圧もあったことから篤二は次第に遊興の道へと逃げ、ついには後継者の地位を失ってしまいます。
しかし篤二の廃嫡の背景には、渋沢一族内での主導権争いがありました。
本記事では、篤二の生い立ち、なぜ篤二は廃嫡されてしまったのか、悠々自適に暮らしたその後の篤二について解説します。
幼くして母を亡くす 少年時代の篤二
渋沢篤二は1872年に渋沢栄一と千代の次男として生まれました。
長男の市太郎が亡くなっていたため、篤二は後継者として、可愛がられて育ちました。
しかし、篤二が9歳のときの1882年、母の千代がコレラで亡くなってしまいます。
まだ9歳で母に甘えたい年頃であった篤二にとって母の突然の死は大きな衝撃でした。
その後、栄一は後妻として伊藤兼子を迎えます。
兼子は篤二にも我が子のように接しましたが、篤二は複雑な心境でした。
そんな篤二を見て、栄一は篤二の9歳上の姉、歌子に養育を任せます。
歌子は法学者の穂積陳重と結婚しており、篤二は穂積家で育てられることとなります。
篤二は学問にも励み、渋沢邸に寄宿していた同世代の青年たちと勉強していました。
そして、13歳の頃、勉強の成果を発表する場として龍門社を結成し、篤二は社長に就任します。
龍門社は、現在の渋沢栄一記念財団にあたり、のちに栄一を慕う経済人が集まり、講演会や談話会を開催する組織に発展していきます。
龍門社の名付け親は尾高惇忠で、鯉が滝を登り成長して龍になるという故事にちなんだものでした。
篤二らは会誌として龍門雑誌を刊行するなど、精力的に活動していました。
しかし、篤二にとって穂積家での生活は、まじめな姉夫婦の厳しい指導のもと、息苦しいものだったようです。
さらに、経済界で日増しに有名になっていく父、栄一の跡取りとしてのプレッシャーも篤二に重くのしかかっていきます。
そんな中、学習院に入学した篤二は、やがて当時の名門高等教育機関であった熊本の第五高等学校に進学します。
しかしこの頃の篤二は趣味や遊びの世界に夢中になっていました。
母と死別し、父とも離れ離れ、まじめな姉夫婦から解放され熊本に1人来てしまったら無理もありません。
篤二の遊びはエスカレートしていき、ついに学校に行かずに遊郭に通い、女性との遊びに入り浸ってしまっていたといいます。
さすがに無視できなくなった栄一は、表向きは病気として篤二を退学させます。
そして篤二に対して、故郷の血洗島で蟄居謹慎という処分を下しました。
公家の娘と結婚、子供も生まれ仕事に邁進する
熊本から戻された篤二は、血洗島での蟄居謹慎後、再び姉の嫁ぎ先である穂積家に入ります。
この頃穂積陳重は神奈川県の大磯に引っ越しており、篤二も大磯を中心に活動しています。
近くにあった井上馨や岩崎弥之助の別荘にも招待されたびたび訪問しており、井上邸でのパーティーの写真が残されています。
穂積家で家庭教師をつけられた篤二は、英語、漢文、そして法律、経済と今後の実業界で活躍するために必要な勉強をみっちりと仕込まれました。
一方、この頃から篤二は写真にも凝りだします。
篤二は人物だけでなく、街の何気ない風景などを好んで撮影しており、記録写真の先駆者であったともいえます。
そして1895年、23歳の時に、公家であった橋本伯爵家の敦子と結婚しました。
翌年には長男の渋沢敬三が生まれています。
1897年には栄一が邸宅内の土蔵を用いて澁澤倉庫部を創業すると、倉庫部長となり実業の世界に入りました。
澁澤倉庫で真面目に働く篤二は、さらに見聞を深めるために、義兄の穂積陳重に随行して欧米諸国へ留学しています。
篤二はイギリスやフランス、イタリアなどを訪問し、その様子を写真に収めており、今も当時の写真が残っています。
帰国後の篤二は、第一銀行検査役、東京毛織物株式会社取締役など、実業界での活動の幅を広げていき、渋沢家の家業の澁澤倉庫部が株式会社に改組されると取締役会長となりました。
こうして栄一の後継者として、仕事内容はともかく、着実に実績を積み重ねていっていた篤二でしたが、裏では芸者に入り浸っており、ついに大事件を起こしてしまいます。
スキャンダル発覚! 栄一の後継者の地位を失う
1911年5月、篤二は突如として妻を家から追い出し、ぞっこんになっていた芸者、玉蝶と結婚すると宣言してしまいます。
実業界を代表する渋沢栄一の息子の突然の発表は新聞にも掲載され、スキャンダルとして大々的に取り上げられました。
これにはさすがの栄一も頭を悩ませ、ついに篤二を廃嫡するという苦渋の決断をします。
1913年に渋沢家は東京地裁に篤二を身体が弱いという理由で廃嫡することを届け出ました。
当時、跡継ぎに決まっていた人物を廃嫡することは大変なことで、このニュースは新聞に取り上げられ話題となりました。
一連の事件は篤二の女性問題だけが原因に聞こえますが、実際のところ、渋沢家自体も問題を抱えていました。
この頃の渋沢家には、栄一の娘の歌子、琴子をそれぞれ妻にした穂積陳重、阪谷芳郎や、栄一とは深いつながりのある尾高惇忠の尾高家など、多くの有力な親戚たちがいました。
栄一は財閥を志向していなかったため、三菱や三井のような大財閥の長にはなりませんでしたが、それでも数多くの会社設立に携わっており、財産も莫大なものになっていました。
篤二の息子で、のちに栄一の後継者となった渋沢敬三は、この頃の渋沢家を、篤二の争奪戦が行われていた、と語っています。
栄一の正妻、千代の子である歌子、琴子が嫁いだ穂積家、阪谷家と、栄一の妾の子が嫁いだ尾高家、大川家という嫡子、非嫡子の争いがあり、非嫡子系の尾高家、大川家などは篤二とも親しくし、穂積家などはそれに反発していました。
篤二はこうした勢力争いに嫌気がさし、現実から目を背け芸者に逃避した結果、スキャンダルを起こしてしまうこととなったのです。
篤二のスキャンダルに対しても、非嫡子系は賛成、歌子ら嫡子系は絶対反対と対立していました。
栄一は、篤二のスキャンダル、そして親戚たちの勢力争いを前に篤二を廃嫡し、篤二の長男で、当時まだ10代だった敬三を跡継ぎに指名します。
これは、栄一が優秀な敬三に期待していたこと、そして若い敬三を後継者に指名することでこれ以上跡目争いが過激化することを防ぐ目的がありました。
栄一は、動物学者を志していた敬三に対して羽織袴の正装で頭を床にこすりつけてまで第一銀行を継ぐように懇願したというエピソードが残っています。
こうして栄一の後継者の地位を失った篤二は、趣味の道を満喫する余生を送ることとなります。
気楽な余生を過ごす 晩年の篤二
こうして後継者の地位を失った篤二は、芸者の玉蝶と白金の家で暮らしました。
玉蝶は新橋で美女として評判の芸者で、篤二の他にも実業家と関わりがある人物でした。
篤二と玉蝶の関係は篤二の死まで続き、約20年もの間連れ添ったことになります。
渋沢家の事業や、篤二をめぐる親戚たちの争いから解放された篤二は、渋沢家からは屋敷と月々の仕送りをもらい、何不自由ない暮らしを送っています。
海外から仕入れた犬を数匹飼い、気の合う友人を夕食に招いたり、まるで生活を楽しむことだけが商売だと言われるほどでした。
篤二は浄瑠璃の一種である義太夫をはじめ、写真、乗馬、狩猟、犬の飼育など趣味にどっぷりと浸かり、特に義太夫は一流の腕前であったと評されています。
一方、篤二を廃嫡した渋沢家は、一族の集まりである渋沢同族会を株式会社化し、跡継ぎの敬三を社長にし、後継者問題を落ち着かせます。
そして栄一は、篤二が廃嫡された4年後、76歳にして第一銀行頭取を引退し、徐々に後継に道を譲るようになりました。
こうして気楽な生活を謳歌していた篤二でしたが、廃嫡から10年後、澁澤倉庫に専務取締役として復帰します。
跡継ぎのプレッシャーや親戚たちとのしがらみから解放された篤二は、今度は事業にまじめに取り組み、監査役を経て、復帰から5年後、取締役会長に再度就任しました。
以降も、趣味を楽しみつつ、渋沢栄一の息子として渋沢家で重要な役割を担い、渋沢栄一の死の翌年、1932年の夏に59歳でこの世を去りました。
篤二に代わって後継者となった息子の敬三は、栄一に負けず劣らず、日本経済のために尽くしました。
敬三は、大学卒業後は、栄一の第一銀行には入らず、横浜正金銀行に勤め経験を積んだ後に、第一銀行に入っています。
副頭取を務めていた1942年、その手腕を買われた敬三は日本銀行副総裁に、そして2年後には総裁も務めました。
敗戦後は、混乱の中、幣原喜重郎内閣で大蔵大臣を務め、戦後の混乱の収束に尽力しました。
偉大な父親の背中を見て育ち、そのプレッシャーから逃げ出してしまった渋沢篤二。
しかし、母を早くに亡くし、家の中でも外でも窮屈な思いをしていた境遇には同情できる部分も多々あります。
最終的には息子の敬三が栄一の跡を立派に継ぎ、篤二も胸をなでおろしたのではないでしょうか。
放蕩息子か、悲劇の後継者か、意見は分かれるところですが、これからさらに注目されることが期待されます。
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