平家を滅ぼし、武家の棟梁となって鎌倉幕府を開いた源頼朝。
しかし源氏直系の将軍は3代将軍源実朝の暗殺によって断絶してしまいます。
源氏将軍の断絶後は北条氏による鎌倉幕府となったと思われがちですが、実朝の死後も頼朝の子孫たちは存在していたのです。
本記事では、源氏将軍の断絶後も頼朝の血脈を伝えた竹御所、貞暁の2人を中心に頼朝の子孫のその後を追っていきます。
若くして亡くなる頼朝の息子たち
まずは2代将軍頼家、3代将軍実朝について見ていきます。
源頼家は1202年(建仁2年)に源頼朝の跡を受け2代将軍となりました。
頼家が将軍になったのは父頼朝の死後3年が経った後でした。
3年もの空白期間が空いたのは、若い頼家では武家の棟梁の役割が務まらないと判断され、北条時政を中心とした『13人の合議制』が敷かれていたためでした。
将軍職についた頼家はやがて外祖父である北条時政らと対立し、1203年(建仁3年)に将軍職を追われ伊豆の修善寺に幽閉されます。
外戚にあたる比企能員を時政に討たれた頼家に抵抗する力はなく、翌年に北条氏によって殺害されてしまいます。
頼朝の次男である源実朝は、政治の実権が北条義時ら御家人に握られていたこともあり、官位昇進、文化の世界にのみ没頭します。
実朝は京都の文化に傾倒し、妻を京都の公家から迎えたり、和歌や蹴鞠に熱中する日々を送りました。
和歌の腕前は相当なもので、当時の第一人者藤原定家に師事し、自ら歌集『金槐和歌集』を作るほどでした。
実朝は従三位に列し公家の地位を得ると、1218年(建保6年)には内大臣から右大臣へと異例の出世を遂げます。
この右大臣拝賀の儀式のために鶴岡八幡宮に出向いたところを頼家の息子の公暁に殺害されてしまうのです。
頼朝、頼家、実朝の子供たちは?
頼朝には頼家、実朝の他に後述する貞暁、そして大姫、乙姫の2人の娘がいました。
頼朝の長女であった大姫は、6歳にして源義仲の息子であった源義高と結婚します。
しかし源義仲が頼朝と対立し敗死すると、義高も頼朝によって殺されてしまいました。
当時7歳だった大姫の心は深く傷つき、病に伏せりがちになってしまいます。
後鳥羽天皇への入内も計画されますが、体調を崩していた大姫は21歳の若さで死去してしまいます。
次女の乙姫も大姫死後に入内が計画されますが、14歳の若さで死去してしまいました。
頼家には4男1女がいましたが、男児はみな非業の死を遂げています。
長男の一幡は比企能員の乱で北条氏に殺され、次男の公暁は実朝暗殺後に殺害、三男の栄実は 泉親衡の乱に擁立され自害、四男の禅暁は公暁に加担したとして北条氏の刺客に殺されてしまいました。
後述するように、娘の竹御所のみが生き残っています。
源実朝は子供を残さずに死去、頼家の息子たちも子供を残さないまま死去してしまったため、頼朝直系の子孫は竹御所、貞暁の2人のみとなってしまいました。
北条政子の跡を継ぎ御家人の尊敬を集めた頼家の娘 竹御所
頼家の子供の中で唯一生き残ったのが、頼家の娘の竹御所です。
比企能員の乱によって将軍の座から追われ、暗殺された頼家の子供のうち、女子であった竹御所は祖母である北条政子に保護され、その元で養育されます。
頼家の息子たちが次々と暗殺されていく中、数少ない源氏直系を血を引く者となった竹御所 は、政子の死後、実質的にその後継者となり、幕府の権威の象徴として御家人をまとめる役目を果たすことになりました。2代目女将軍というわけです。
源氏のトップであった竹御所は、1230年(寛喜2年)29歳にして4代将軍の藤原頼経に嫁ぎます。この時藤原頼経は13歳でした。
夫婦仲は良好で、4年後には子供を身ごもります。
源氏直系の後継者の誕生を周囲に抱かせますが、当時としては高齢での出産であったため、難産の末に男児を死産し、本人も33歳の若さで死去しました。
竹御所の死により頼朝と政子の直系子孫は完全に断絶することになります。頼朝の死から35年後のことでした。
仏門に入り政争とは距離をとった頼朝の三男 貞暁
頼朝の直系男児は政争に巻き込まれ次々と命を落としてしまいましたが、唯一仏門に入り生き延びた男児が頼朝の三男の貞暁です。
貞暁は頼朝の側室である藤原朝宗の娘である大進局の子です。藤原朝宗は伊達政宗などで知られる伊達氏の祖であるとされています。
正室である北条政子の嫉妬を恐れた頼朝により、あまり表に出ないように育てられ、7歳のときに仁和寺にて出家します。
貞暁は仁和寺にて修行を積み、やがて高野山に登り、源氏の一族が政争で次々と命を落とす中、僧侶として俗世間から離れた暮らしを送りました。
頼家の息子で実朝を暗殺した公暁も、貞暁の弟子であったと言われたいます。
北条政子も晩年には貞暁に帰依し、北条政子の援助のもと、高野山に寂静院を建立し、本尊の胎内に頼朝の遺髪を納め供養しました。
また、異母弟である実朝に対しても五輪塔を設営し、追善を行っています。
鎌倉幕府も貞暁の寂静院を保護し、貞暁は源氏三代の鎮魂の司祭者として崇敬を集めました。
こうして父や兄弟の供養を続けた貞暁は1231年(寛喜3年)に46歳でこの世を去りました。
貞暁の死によって頼朝の血を引く男児は完全に断絶することとなりました。
参考文献
佐藤進一『日本の中世国家』(日本歴史叢書 1983年)
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歴史の謎研究会『日本史の舞台裏 その後の結末』(青春出版社 2015年)
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