関東大震災ってどのくらいの被害が出たの?
関東大震災の火災の被害は?津波の被害は?
関東大震災から日本はどうやって復興したの?
明治時代以降の日本の地震被害では、最大のものとなっている関東大震災。
本記事では、関東大震災の概要、被害状況、震災の影響による社会混乱、震災からの復興についてわかりやすく整理しました。
関東大震災とは?
関東大震災とは1923年(大正12年)、関東大地震によって引き起こされた一連の地震災害の総称です。
関東一円を襲った地震は、熱海・伊豆諸島に津波を引き起こし、首都東京市を破壊しました。
地震の被害をより深刻なものにしたのは、揺れの直後に発生した大火災でした。
1923年(大正12)9月1日、日本の首都、東京を含む南関東全域は未曽有の大激震に襲われました。
大正デモクラシーの風が吹く中、帝都を突然焦土と化した災害、関東大震災です。
関東地震、関東大地震、相模トラフ巨大地震とも呼ばれます。
午前11時58分に地震発生、震源地は東京から約80キロの相模湾北西部、マグニチュード7.9と推定される超巨大地震でした。
現代の研究では、関東大震災は11時58分32秒にマグニチュード7.9の本震、3分後にマグニチュード7.2、5分後にマグニチュード7.3と3度に渡って大地を揺るがした、「三つ子地震」であったことがわかっています。
気象庁の観測では東京で震度6となっていますが、地震計の針が飛んでしまったために正確に計測できなかったものと推計され、小田原・相模湾岸・房総半島・東京の湾岸地域で震度7との推定値が出されています。
その他の地域では、熊谷・横須賀・甲府で震度6、宇都宮・銚子・沼津・長野で震度5、福島・水戸・前橋・松本・福井・大阪で震度4、石巻・新潟・金沢・和歌山で震度3が記録されています。
関西や東北でも揺れが観測されていることからも、巨大な地震であったことがうかがえます。
地震発生時刻が昼時であったため、各家庭は昼食の準備中で、かまどや七輪で火を使用していました。
10分ほど続いた激震の後、各地で火災が発生します。
倒壊した家屋を火の手が襲い、市民が所持して逃げた家財、大八車に積んだ布団などに燃え移って東京は火炎地獄となりました。
地震の倒壊被害も甚大なものですが、それ以上に火災による被害の方が圧倒的に大きかったのです。
火災は東京市の下町を焼き尽くし、2日後の9月3日朝になるまで燃え続けました。
火災被害が甚大であったために、関東大震災は発生当初「大正大震火災」とも呼ばれました。
関東大震災の被害状況
関東大震災は震度こそ東日本大震災よりも低い数値ですが、人的被害においては東日本大震災の被害を5.5倍も上回るものとなっています。
これは明治以降の日本の地震災害として、最悪、最大規模の被害です。
住宅被害
住居家屋の被害は全半壊、焼失したものが372,659棟でした。
このうち焼失は212,353棟であり、住居被害の3分の2が火災によるものです。
東京市における住宅被害は全半壊・焼失家屋168,902棟、横浜市は35,036棟であり、両市の被害が国内全体の55%以上を占めています。
明治時代に建てられた浅草凌雲閣(12階建の眺望タワー)は日本初の電動式エレベーターを設置した眺望塔として、話題を集めていましたが、関東大震災により8階部分より上が崩壊、即時に出火します。
13名ほどいた見物客は奇跡的に助かった1名を除き、全員が即死でした。
神奈川や静岡では津波により家屋が流出する、山崩れで住居が埋没するという被害が出ました。被災家屋は1,301棟に及んでいます。
鎌倉など沿岸部では、地震と火災に加え、津波に襲われました。
逗子、藤沢で5メートルから7メートル、由比が浜で9メートルに及ぶ津波が到達し、鶴岡八幡宮は倒壊、鎌倉の大仏は基壇が損壊、1メートルほど沈下しました。
人的被害
当時「震災府県」と認定されたのは東京府、神奈川県、千葉県、埼玉県、山梨県、茨城県の1府6県で、その死者・行方不明者は全体で105,385人でした。
このうち東京市の死者・行方不明者は68,660人、横浜市の死者・行方不明者は26,623人です。
死者・行方不明者は東京市と横浜市で、全体の90%に達します。(当時の東京市の人口は約250万人、横浜市の人口は約42万人)
東京市の死者・行方不明者のうち焼死者は65,902人で、90%以上が火災によって命を落としたことがわかります。
折しも前日の台風の影響を受けて風は強まり、火災は瞬く間に広まりました。
家屋の倒壊から逃れた避難民は延焼によって退路を断たれてしまいます。
本所区(現墨田区)の空き地に約4万人が避難していましたが、1日の夕方に火災旋風(火炎の竜巻)が巻き起こり、ほぼ全員が命を落としました。
被災地域
延焼による焼失面積は34,664,251平方メートルで、当時の東京市のほぼ44%に及びます。
火災は浅草、日本橋、京橋、神田などの下町から発生しました。
これらの地域は地盤が弱く、人口が密集していたため、倒壊被害も焼失被害も他に類を見ないほど凄惨なものでした。
本所区、深川区は85%から100%の建物が倒壊の上、焼失しています。
四谷区、赤坂区、麻布区といった、いわゆる山の手は家屋の倒壊はあるものの、火災の被害は少なかったようです。
当時の山の手は田畑や丘陵地が多く、都心ほど住宅が密集してはいませんでした。
以後、山の手に向けて避難民の流出が始まり、新しい都市建設の中心となりました。
震災の混乱の中起きた事件
生活の全てを破壊され、ひんぱんに余震が続く中、恐怖にかられた人々の間にデマ、流言が発生します。
根も葉もない噂によって迫害を受けた朝鮮人は軍隊や警察、一般市民の手で虐殺されました。
デマと虐殺
当時の被災した人々によると、地震直後、避難準備をしていると「今ここへ朝鮮人が襲ってくるから、すぐ逃げろ」との声が聞こえてきた、といいます。
他にも「富士山が大爆発した」とか「大津波がくる」といったデマが飛び交いました。
中でも「朝鮮人の襲撃だ」、「朝鮮人が震災を利用して暴動を企てている」、「朝鮮人が井戸へ毒を入れる、放火・強盗・強姦する」といった朝鮮民族に対する虚構の犯罪が声高に叫ばれました。
デマはすぐさま朝鮮人への迫害、虐殺に発展します。
警察もこのデマを事実として現場の対応に当たりました。
政府は戒厳令を出し、軍隊を動員して事態の収拾を図ろうとしますが、この措置がかえってデマの信憑性を高めてしまいます。
動員された軍隊は治安維持の名目の下に、焦土を逃げまどう朝鮮人を追い立てました。
何一つ罪を犯していない朝鮮人が加害者とされ、市中で公然と暴行、殺害されたのです。
現在の調査では犠牲者は6,661名以上と推定されています。
当時政府は頻発する朝鮮人虐殺事件の調査をしませんでした。
犠牲者の中には朝鮮人の疑いをかけられた中国人、日本人も含まれていました。
一般の市民は自警団を組織して「朝鮮人襲来」に備えました。
自警団は青年団や消防団を母体とし、木刀や竹槍、日本刀で武装して市中の警備にあたりました。
警備とは名ばかりで誰彼構わず、顔つきや言葉遣いで朝鮮人との疑いをかけます。
日本人か朝鮮人かを識別するために街中では「山と川の合言葉を言え」とか「日本国歌を歌え」といった理不尽な尋問が繰り返されました。
朝鮮人と認識されるや否や暴行を加え、虐殺が横行しました。
9月3日になり、朝鮮人の暴動がデマであると気付いた警視庁は「みだりに迫害するな」と市中に命令を出しましたが、暴徒と化した人々の耳には入らず、迫害は止まりませんでした。
迫害の背景
1910年から1945年まで日本は朝鮮半島を植民地支配していました。
日本は京城(ソウル)に朝鮮総督府を置き、広大な土地を朝鮮人より没収して利益を得ていました。
土地と自活の手段を奪われた朝鮮人は仕事を求めて来日しますが、低賃金で過酷な重労働を強いられます。
震災当時の日本人は朝鮮人から恨みを買っているという意識を持っており、根本的な差別意識も強かったようです。
「朝鮮人暴動」のデマは震災の混乱により異常な心理に囚われた日本人が、これまで虐げてきた朝鮮人に復讐されるという、強迫観念が噴出した結果でした。
追われる社会主義者たち
朝鮮人の他にも社会主義者たちが迫害の対象とされました。
「朝鮮人と社会主義者が放火した」、「朝鮮人が社会主義者と結託して日本を侵略する」といった流言が拡がります。
一部の軍隊は朝鮮人暴動に便乗し、社会主義者を排除するという、非道な事件を引き起こしました。
亀戸事件
亀戸事件とは関東大震災の混乱中に発生した、軍隊による民間人殺害事件です。
9月3日夜、被災者の救済にあたっていた川合義虎を始めとする社会主義者10名が、亀戸署に連行されました。
川合らと亀戸署は、以前から労働争議で争っていた経緯があります。
逮捕された社会主義者たちは9月5日朝、習志野騎兵第13連隊によって殺されました。
素裸にして銃剣で首を切り落とすというむごい殺害方法でした。
亀戸署は川合らが「革命歌を歌い、人心を惑わす行動をしていた」と発表しましたが、これは事実ではありません。
犠牲者の遺族は事件の真相を明らかにするよう求めましたが、「戒厳令下の適正な軍の行動」と判断され、詳しい真相究明も無く、罪には問われませんでした。
この事件の他にも亀戸署では多数の朝鮮人、日本人の殺害記録が残っています。
甘粕事件
甘粕事件とは憲兵隊司令部の甘粕正彦らが、社会主義者であった大杉栄と伊藤野枝、橘宗一を拉致し、殺害した事件です。
震災から2週間後の9月15日、憲兵隊分隊長であった甘粕正彦大尉は新宿に住む大杉栄を拉致し、分隊に連行しました。
大杉栄は「国家は不要で有害である」と考えるアナキストで社会主義運動の指導者と見られていました。
大杉のそばには、内縁の妻である作家の伊藤野枝と甥の橘宗一(6歳)がおり、甘粕は二人を家族と誤認して、同時に拉致しました。
橘宗一は大杉の妹の子供で、たまたま大杉と同行していただけでした。
大杉は子供だけでも帰してくれ、と懇願しますが聞き入れられません。
分隊に連行された3人は取り調べを装って憲兵の手で次々に殺害され、遺体は分隊の敷地内にあった古井戸に投げ込まれました。
消息を絶った大杉の行方を友人たちは懸命に捜索します。事件性を強く意識した大杉の身内は警察に捜索願を出しました。
事件は19日に発覚、軍法会議で甘粕は大杉と伊藤を自分の手で絞殺したと自供しました。
森慶次郎憲兵曹長が、暴れる大杉、伊藤の両足を抑えたといい、鴨志田安五郎と本多重雄ら2名の憲兵が橘宗一の殺害を認めました。
拉致・殺害は憲兵隊を利用した甘粕の個人的犯行とされました。
甘粕は殺害の動機を「大杉ら社会主義者が朝鮮人を扇動し、暴動を起こそうとしているのを阻止するため」としています。
軍法会議で甘粕は禁固10年、森は懲役3年の判決を受けます。
しかし甘粕は僅か3年で出獄し、軍費でフランスに留学後、日本の傀儡政府、満州国を建国に関わりました。
当時の新聞はこの事件を「震災の混乱に便乗した民間人の虐殺」であると批判し、国内の世論を大きく揺るがしました。
特に無関係な小さな子供を殺害したことが、批判の対象となりました。
しかし世間では社会主義者や朝鮮人の暴動を恐れる余り、甘粕の行動を肯定する動きがあったことも確認されています。
甘粕は上官の命令に忠実に従う、模範的な軍人であったといいます。
加えて甘粕同様に懲役刑に処された森は、甘粕の直属の部下ではありませんでした。
これらの事実を踏まえ、甘粕事件は甘粕正彦大尉の個人的犯行ではなく、憲兵隊および陸軍の組織的犯行であったとする説もあります。
震災後の復興
震災の直後、日本政府は人命救助、食料確保、被災者支援、都市復興の4つを同時に実行しなければなりませんでした。
震災のあった一週間前に首相であった加藤友三郎が亡くなり、総理大臣代理を外務大臣の内田康哉が臨時に務めていた時期です。
9月2日、新しく発足した山本権兵衛内閣は屋内が危険であったために、赤坂離宮の園庭で初めての閣議を行いました。
新閣議では食料や物資を一般から徴発する「非常徴発令」、治安維持のための「戒厳令」、「支払猶予令」、「暴利取締令」の公布が決定されました。
同時に震災救護事務局が閣議決定により設置されました。
震災救護事務局は被災者の集まる各地のバラックに医療を提供し、米や水の配給を行いました。
19日には帝都復興審議会、27日には帝都復興院が設置されています。
この帝都復興院の初代総裁に就任したのが、内務大臣後藤新平です。
後藤の考える震災後の都市計画は「復旧ではなく復興」。
破壊された物を元に戻すのではなく、新しく興し、近代的な都市建設を目指す、というものでした。
後藤は新しい都市計画と経済復興を実現するため、83歳を過ぎた渋沢栄一を召喚します。
以下、復興に尽くした二人の足跡を追います。
後藤新平の活躍
東京市長を経験した後藤新平は、区画整理、公園、幹線道路の整備など、東京を大改造するビジョンを以前から持っていました。
首都を遷都する案もありましたが、後藤はこれをはねのけ13億円の巨費を投じる復興計画を立案します。
後藤の復興計画は焼失した地域を全て国が買い上げて区画整理を行う、路面電車を敷かず地下鉄などで交通網を確保するという大胆なものでした。
そんな後藤の都市計画は余りにも現実的でなかったため「大風呂敷」と呼ばれます。
政府に全焼失地域を買い上げるほどの財源はありませんでした。
結果として後藤の原案を半分に縮小する形で1,924年(大正13)復興事業がスタートしました。予算は6億円に削減され、後藤は憤りを隠しませんでした。
1930年(昭和5)までに震災で焼失した地域の90%が区画整理され、後藤が夢見た近代都市が大幅に規模を縮小して完成しました。
渋沢栄一の活躍
資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一は震災時には既に実業界を引退していましたが、私的な外交・医療活動、福祉事業を中心に活動していました。
震災直後から自邸を提供し、臨時病院、炊き出し、被災者収容などをしています。
財界人のネットワークを駆使して、国内外へ向けて食料、物資、義援金を募りました。
そんな中、渋沢は後藤新平から帝都復興審議会への参加を促され、官民両方面から被災者支援と経済の復興に尽力しました。
渋沢栄一は復興会議の場で「東京を武士の町から商業都市へ変えていきたい」と語っています。
関東大震災をきっかけに郊外移住の象徴として発展した田園調布の開発にも渋沢は深く関わっています。
震災前から、渋沢は他の財界人とともに田園都市株式会社を設立し、新しい住宅地の開発として田園調布周辺の開発に取り組んでいました。
当時の田園調布はごくありきたりの農村でしたが、イギリスのロンドン郊外を真似て、近代的で機能的な街に生まれかわります。
1923年(大正12)田園都市株式会社は目黒蒲田電鉄(目蒲線)を開通させました。
関東大震災で木造建築が多く人口の密集していた東京、横浜が甚大な被害を受けたのに対し、新しい住宅地である田園調布周辺の住宅には1件の被害もなかったといいます。
関東大震災を機に多くの被災者が目蒲線の沿線に移住を希望し、次々に復興住宅が建てられました。
渋沢が開発した住宅地には「文化住宅」「文化アパート」と呼ばれる和洋折衷でガス・水道・電気を完備した新しい時代の住居が立ち並びました。
地震の影響
関東大震災は首都を襲った大災害として、国内だけでなく世界各国にも多大な影響を与えました。
諸外国の支援
未曾有の災害に対し、国際連盟では日本に対する同情と支援が決定されました。
これに伴い、各国代表や個人・団体から食料や物資、支援金が多く集まります。
第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に起きた災害であったため、国際関係は安定しており、支援は集まりやすかったようです。
その中でも、アメリカは最も多くの支援金を集めました。「Minutes make lives(数分が生死を分ける)」のスローガンのもと、全米各地で募金活動が行われ、金額は1,060万ドルという巨額に上りました。
中国では、中華民国内で大清皇帝となっていた愛新覚羅溥儀が、換金して義捐金として使用するようにと、紫禁城内の宝石を日本に送っています。
ほかにも、イギリス、フランス、南米諸国からも日本は多くの支援を受け取りました。
都市の変化
大震火災の影響により、東京では木造や煉瓦塀の建物が少なくなり、鉄筋コンクリートの大型建築物が増えていきました。
後藤新平の都市計画に基づき、公園、広幅の道路といった延焼を防ぐための不燃地帯が作られます。
新しく建てられた施設は耐震・耐火に特化したものとなり、都市の姿は一変しました。
まとめ
・関東大震災は1,923年首都東京と関東一円を襲った大地震だった。
・被害のほとんどが直後に発生した火災によるものだった。
・震災直後、デマ、流言が飛び交い、各地で朝鮮人が迫害、虐殺された。
・一部の軍隊が朝鮮人暴動のデマに便乗し、社会主義者を殺害する事件を起こした。
・復興は帝都復興院後藤新平、民間では渋沢栄一らによって進められた。
・震災後の復興により、近代的な都市が実現し、住宅など人々の生活様式も変化した。
参考文献
『関東大震災の社会史』北原糸子 朝日新聞社出版
『関東大震災』姜徳相 中公新書
『帝国主義と民本主義』武田晴人 集英社
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