今回は、渋沢栄一が幼い頃より兄貴分として慕い、明治時代以降は近代日本の殖産興業に尽くした尾高惇忠について紹介します。
尾高惇忠は大河ドラマ『青天を衝け』の主人公渋沢栄一のいとこに当たる人物です。
栄一より10歳年上で、幼い頃の栄一は尾高惇忠が主催する私塾で論語などを学んだといいます。
そんな渋沢栄一の師匠にもあたる尾高惇忠は明治時代以降、日本の産業の発展に重要な役割を果たすこととなります。
『日本資本主義の父』渋沢栄一を形作った人物ともいえる尾高惇忠の生涯を見ていきます。
私塾の師匠として渋沢栄一らを指導 尊王攘夷運動も計画
尾高惇忠は1830年に武蔵国下手計村で名主の尾高勝五郎保孝の子として生まれました。
惇忠の母のやへが渋沢栄一の父の渋沢市郎右衛門の姉にあたり、惇忠と栄一はいとこ同士となります。
惇忠は若い頃から優秀で、自宅で私塾の尾高塾を開き、近隣の村から子どもたちを集めて、論語などの学問を教えていました。
渋沢栄一の家から惇忠の家までは約1kmほどで、若い頃の栄一はこの道を毎日歩き惇忠のもとへ学びに行っていたといいます。
惇忠の教え方は、当時のスタンダードであった、一文一文わかるまで読み込み、わかったら次へ進むという勉強法でなく、わからないところは飛ばしてとにかく読みすすめるという勉強法でした。
わからないなりに読みすすめると大まかな意味が理解でき、分からないところも分かるようになるというわけです。
渋沢栄一はのちにこの勉強法のおかげで、西洋の技術、考え方を素早く受け入れることができたと語っています。
渋沢栄一が新しい考え方で次々に事業を興していくことができたのは、わからないなりに進めてみるという惇忠の教えが役に立ったのかもしれません。
この頃、惇忠の妹の千代が栄一に嫁いでいます。栄一と惇忠は義理の兄弟となったわけです。
千代が栄一と結婚した頃の日本は、開国によって国内経済が混乱し、外国人を排斥しようとする尊皇攘夷運動が盛んになっていました。
尊皇攘夷運動の先駆けとなった水戸藩の水戸学に、惇忠も大きな影響を受けており、渋沢栄一ら塾の門下生らとともに高崎城を襲撃し、横浜を焼討にするという攘夷の計画を立てます。
この計画は、惇忠の弟の尾高長七郎の懸命な説得で取りやめとなりますが、渋沢栄一と渋沢喜作は身を隠すために京都へ行き、惇忠も村の塾の師匠という立場に戻ります。
突然の投獄 旧幕府軍として新政府軍と戦う
惇忠のもとを離れ京都に向かった渋沢栄一はやがて一橋家の家臣になるという尊皇攘夷志士とは180度真逆の道を進むこととなります。
一方の惇忠は故郷で塾の師匠を続け、尊皇攘夷運動からは身を引いていました。
しかし惇忠は水戸学の名士として近隣で有名となっており、惇忠の塾には各地から尊皇攘夷志士が訪れていたといいます。
そのうち1864年に水戸藩の藤田小四郎、武田耕雲斎らによる天狗党の乱が勃発します。
惇忠は天狗党の乱に関わっていないものの、尊皇攘夷志士と交わりがあったことから、天狗党への加担を疑われ一時期投獄されていました。
その頃栄一は一橋家家臣として順調に出世し、やがてパリ万国博覧会に訪問する徳川昭武の随員としてフランスに旅立ちます。
惇忠もこの頃に栄一たちとの縁で徳川慶喜から出仕の誘いを受けていますが、実現しないままに大政奉還が行われ、戊辰戦争が始まってしまいます。
栄一と別れ国内に残った渋沢喜作は、鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍の撤退を指揮し、江戸に戻った後は彰義隊の頭取に就任します。
惇忠は江戸に戻った喜作と合流し、弟で渋沢栄一の見立て養子となっていた渋沢平九郎らとこの彰義隊に参加しています。
しかし彰義隊は天野八郎ら過激派が主流となり、喜作ら一橋派は彰義隊を離れ、新たに飯能にて振武軍を結成します。
惇忠もこれに参加しますが、飯能戦争で新政府軍に敗れ、弟の平九郎を失いながら敗退し、やがて箱館へ向かった喜作とも別れ故郷に帰還しました。
富岡製糸場初代場長として日本の製糸産業の発展に尽くす
明治維新後は以前と同じく村の塾で子どもたちに講義を行いながら、豊富な知恵を活かし近隣の養蚕農家の指導も行っていました。
この頃フランスから帰国していた渋沢栄一は、静岡藩を経て大蔵省へ入り、改正掛などを務め、近代的な制度の確立に尽力していました。
その中の事業の1つとして、当時日本の主要輸出品であった生糸の品質、生産力向上を目指し、官営模範工場の建設が計画されます。
お雇い外国人としてフランスのブリューナを雇い進められた富岡製糸場の初代工場長に選ばれたのが、当時民部省に出仕していた尾高惇忠でした。
惇忠は工場設立の責任者として資材調達から取り組み、当時まだ一般的な建材ではなかったレンガの製造を近隣の村の協力を得て成功させています。
惇忠は同時に工女の募集にも取り組みました。
当時西洋人がワインを飲む姿を見て、工女に応募すると生き血を吸われるとの噂が立っており、募集には全く人が集まりませんでした。
惇忠はこの噂を払拭するために、娘の勇を最初の工女として入場させ、1年後には400人以上の工女を集めることに成功しています。
惇忠は日曜日を休日とする、年末年始と夏季休暇を付与する、食費と寮費、医療費は工場持ちにするなど先進的な経営を行い、工女の環境を第一とする経営を行いました。
しかしお雇い外国人に払う給料がかさみ赤字になるなど経営は苦しく、惇忠は外国人を解雇するなど抜本的な改革に取り組み、外国産生糸の凶作に合わせた買い占めなども相まって黒字化を達成します。
しかし、蚕の蚕卵紙を貯蔵し、秋以降も生糸を生産する秋蚕の計画が政府の反対にあい、1876年に惇忠は富岡製糸場の所長を退任することとなりました。
日本の産業の発展に尽くした生涯 子孫は意外なところで活躍?
富岡製糸場の所長を退任した惇忠は、渋沢栄一が総監を務めていた第一国立銀行の盛岡支店の支店長となります。
当時の盛岡は、南部藩が旧幕府軍に属したため賊軍と見られ、経済が停滞していました。
惇忠は銀行としての支援を通じて盛岡経済の発展に務め、北上川の船運を担う北上回漕会社の設立などを援助しています。
その後は第一国立銀行の仙台支店長を務め、退任後は深川にあった渋沢栄一の別邸にて余生を過ごしました。
養蚕や製藍法の改良にも生涯をかけて取り組み、後年『蚕桑長策』『藍作指要』などの書物もしたためています。
惇忠の家系は現代にまで続いており、次男の尾高次郎は、渋沢栄一の娘の文子を妻としました。
次郎は第一国立銀行に入行し、やがて故郷埼玉で現在の埼玉りそな銀行に当たる武州銀行を創設しました。
次郎の6男の尾高尚忠は、作曲家、指揮者として活躍し、その次男の尾高忠明氏は指揮者として大河ドラマ『青天を衝け』のテーマソングの指揮を務めています。
まとめ
幼少期の渋沢栄一に多大な影響を与え、明治維新後も持ち前の知恵を活かし日本の産業の発展に貢献した尾高惇忠。
今や世界遺産にもなっている富岡製糸場は、惇忠の活躍によって軌道に乗ったと言っても過言ではありません。
日本の主要輸出品であった生糸の大量生産を確立した惇忠の活躍はまさに縁の下の力持ちといってもいいでしょう。
惇忠なくして日本資本主義の父、渋沢栄一の活躍はなく、自身も近代日本の産業の発展に多大な影響を与えた尾高惇忠。
子孫がテーマソングの指揮を務める大河ドラマ『青天を衝け』をきっかけにその功績を知ってくれる方が増えることが期待されます。
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