今回は、日露戦争でロシア国内の反政府勢力を扇動し、日本史上最大の謀略戦ともいわれる諜報活動を行った明石元二郎について紹介します。
明石元二郎は、日露戦争でロシア国内の反政府勢力に資金供給などを行い、ロシアを内部から揺さぶり、戦争継続を困難にする活動を行っていました。
明石の諜報活動は日本軍20万人に匹敵する戦果を上げていると評価されるほどで、明石の活躍がなければ日露戦争はなかなか講和に持ち込めず、日本は劣勢になっていたかもしれません。
また、明石は日露戦争後、陸軍内で冷遇されてしまいますが、明石が出世できなかったことが、のちのち日本軍が情報を軽視する風潮につながってしまったともいわれています。
今回は、日露戦争勝利の影の立役者、明石元二郎の生涯についてご紹介します。
英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語を操り機密情報を入手!情報将校としての活躍
明石元二郎は1864年に福岡藩で生まれました。
藩校の修猷館を経て、陸軍幼年学校に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校と進み、陸軍のエリートコースをひた走ることとなります。
やがて明石はドイツ留学、フランス領インドシナ出張など海外に多く派遣されるようになります。
明石は外国語に堪能で、ドイツとロシアの士官が話している時に、わざとドイツ語を分からないふりをして、ドイツ語で話された機密情報を持ち帰るという逸話が残っています。
また、アメリカとスペインがフィリピンを巡って戦った米西戦争にも観戦武官として参加し、アメリカ軍が直接戦わずに現地の独立運動家を援助しスペイン軍と戦わせる姿を見て、のちの日露戦争の工作のヒントにするなど、明石の諜報力は若い時の海外経験によって磨かれていくこととなったのです。
やがて明石はフランス、ロシアの公使館附武官となり、海外勤務が続くこととなりました。
明石がロシア公使館附陸軍武官となったのは1902年のことで、この頃は、日本とイギリスがロシアに対抗するために日英同盟を結ぶなど、ロシアとの対立は決定的なものとなっていました。
明石の前には、後に総理大臣となる田中義一がロシアで諜報活動を行っています。
田中はロシア留学時代には、毎週日曜日は欠かさずロシア人の友人と教会へ礼拝に行くほどロシア研究に熱心で、ついには地元のロシア軍連隊に入隊して、内部からロシア軍を調査するほどでした。
明石は、そんなロシア通の田中から業務を引き継ぎ、日露戦争開戦の2年前からロシア国内の情報収集を開始することとなります。
ロシアの反政府勢力との接触活動もこの頃にはすでに開始しており、開戦後、これらの活動は花開くこととなります。
また、日露戦争開戦前の明石の活動成果として有名なものが、旅順要塞の図面を入手したことです。
明石は、イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと日英同盟に基づいた情報協力により知り合い、ライリーに依頼して、ロシアの軍事拠点であった旅順の情報収集に取り組みます。
ライリーは建築用木材の貿易商に変装し、旅順に移住して材木会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を獲得して、ロシア軍内部の情報や旅順要塞の図面を日本にもたらすことに成功しました。
こうして明石が来たる戦争に向け諜報活動に取り組む中、ついに日本はロシアとの戦争に突入することとなるのです。
400億円もの資金を投じて工作活動 ロシアを内部から揺さぶる
明石は日露戦争開戦後は中立国であったスウェーデンの首都ストックホルムに移り、ここを拠点に活動することとなります。
陸軍も明石を中心とした工作活動を組織的に進めており、明石を参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時の職につけ、合計で400億円以上もの大金を工作費用として捻出します。
明石は、当時ロシアの支配下にあったフィンランドやポーランドの反政府運動家や、ロシア国内の社会主義指導者、独立運動家などに接触します。
特に、フィンランドの革命党と連携を取ることで、様々な抵抗運動組織と連絡を取ることが可能になり、それらの組織に活動資金や銃火器を提供し、ロシア各地で反政府運動を実行させました。
具体的には、デモ活動、ストライキ、鉄道破壊工作などで、一部はうまく行かなかったものの、ロシア軍は各地で頻発する活動を鎮圧するために兵力を一定数割かなければならず、日本との戦争に兵力を割きづらい状況に置かれました。
一方の日本軍は、緒戦の鴨緑江会戦などでは勝利したものの、旅順要塞攻略に手間取るなど苦戦を強いられます。
そんな中、日本軍は明石の活躍によって、ロシア国内で相次ぎ反乱が起きていることをロシア軍にあえて知らせ戦意喪失を図ったり、ロシア軍の後方撹乱活動を行うなど、明石と緊密に連携し、組織的にロシア側に揺さぶりをかけていました。
同時期に、ポーランドの民族主義者のドモフスキが陸軍のキーマン、児玉源太郎と会談しており、日本軍はロシアの反政府勢力と連携しロシアへの工作を進めていきました。
やがて、明石の活動の甲斐もあってか、ロシアの内務大臣プレーヴェが開戦から約半年後の1904年7月に革命勢力により爆弾で暗殺されるなど、ロシア国内は日増しに混乱していきます。
戦争が長期間に渡っていたこともあり、当初は戦争を支持していた国民も、戦争は失敗であるとして反感を強めていました。
そしてついに戦争開始から11ヶ月後の1905年1月、血の日曜日事件が起こり、これを発端にロシア第一革命が始まりました。
ロシアはこの革命を何とか封じ込めようとしますが、その内にバルチック艦隊が日本海海戦で敗北、明石の工作が革命運動に拍車をかけていたこともあり、ついにアメリカの仲介で講和条約のポーツマス条約が結ばれることとなりました。
明石の工作がロシアの革命運動にどれだけ影響を与えたかは定かではありませんが、内乱で戦争どころではなくなったことが講和を早めるきっかけになったことは確かです。
講和条約が締結された後も、ロシアでは革命勢力の動きは収まらず、日露戦争から10年後の第一次世界大戦をきっかけについにロシア帝国は滅び、史上初の共産党政権、ソビエト連邦樹立に至ることとなります。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が日本軍20万人に匹敵する戦果だと評した日本陸軍最大の謀略戦はこうして幕を閉じることとなったのです。
大活躍も出世街道から外れる 情報軽視の遠因に?
日露戦争後の明石は、韓国併合前後の朝鮮で憲兵司令官と警務総長を務め、寺内正毅朝鮮統監のもと、武断政治を推し進めました。
そして1914年には参謀次長へと出世しますが、すぐに熊本の第6師団長に左遷されてしまいます。
この左遷の背景には、陸軍内のスパイ蔑視の風潮がありました。
児玉源太郎や山県有朋などは、情報の重要性を認識しており、明石ら情報将校を積極的に引き立てていました。
一方、スパイを忌み嫌う風潮も陸軍内には存在しており、結果として明石は左遷されてしまうこととなったのです。
また、明石自身も単独行動が多く周りに忖度しない性格で、組織内でうまくやるということをしなかったのも、スパイを嫌う風潮を払拭できなかった原因となりました。
日本にとって不幸なことに、日本史上最大の謀略戦をやってのけた明石が左遷されたことで、情報将校が出世しづらい風潮ができてしまい、後の時代の情報軽視につながってしまったともいわれています。
1918年には明石は台湾総督に就任し、同時に陸軍大将に進級しました。
明石は台湾で水力発電事業を推進、新たな鉄道の敷設、台湾人の教育機会の拡充など、現在の台湾の発展にもつながるような施策を次々と行います。
こうした明石の統治は内外で評判となり、台湾総督の次は総理大臣にという声が上がるまでになりました。
しかし、明石は総督就任から1年4ヶ月後の1919年、55歳で急死してしまいました。
死因は当時流行していたスペイン風邪ではないかといわれています。
明石は故郷の福岡で亡くなりましたが、自分の遺骸は台湾に埋葬するようにと遺言し、現在でも台湾に明石の墓は存在しています。
まとめ
日本史上類を見ない大規模な謀略戦をやってのけた明石元二郎。
明石の活躍がなければ日本の勝利はありませんでしたが、明石が出世できなかったことで日本軍に情報軽視の風潮を作ることにもつながってしまいました。
誰よりも情報工作の有効性を知っていた明石が総理大臣になっていれば、日本軍内でも情報戦略の有効性を見直し活用する動きが出ていたことでしょう。
また、日露戦争で明石の工作に苦しめられたロシア側では、ソ連が情報戦略を重視し、第二次世界大戦では多数の工作員を日本にも送り込み、ゾルゲ事件で処刑されたリヒャルト・ゾルゲをはじめ、日本を苦しめることとなります。
昭和の日本の進む道、ひいては現代日本の舵取りにも影響を与えているかもしれない明石元二郎と日露戦争後の情報軽視の風潮。
日露戦争における明石の活躍を再確認することは、現代を生きる我々にも勉強になるかもしれません。