こんにちは!レキショックです!
今回は、源頼朝の愛妾として寵愛を一身に受けた亀の前について紹介します。
大河ドラマでは江口のりこさんが演じる亀の前。
亀の前はひょんなことから頼朝に出会い、頼朝も妻の政子がいる身でありながら亀の前を溺愛します。
そこに待っていたのは嫉妬から怒り狂う北条政子でした。
亀の前は史実には残っている人物ですが、記録が少なく、謎が多い人物です。
そんな謎に包まれた女性、亀の前の生涯について紹介します。
北条政子の妊娠中に頼朝と密通を重ねる
亀の前の出自ははっきりしていません。
鎌倉幕府公式の歴史書、吾妻鏡によると、亀の前は頼朝が流人として伊豆で暮らしていた頃から頼朝に仕えていたといいます。
大河ドラマでは、安房国に逃げ延びた頼朝が、たまたま屋敷にいた亀の前と出会ったという形になっています。
亀の前は美人で、柔和な性格だったといい、頼朝はすぐに彼女に惚れ込んでしまいます。
やがて、石橋山の戦いで敗れていた頼朝は、上総広常らを味方に引き入れることに成功し、房総半島から武蔵国に進出、源氏ゆかりの地、鎌倉に本拠を置きます。
鎌倉を本拠地に関東を掌握していった頼朝は、やがて富士川の戦いで平維盛率いる平家軍を破り、勢力を確立します。
頼朝は、関東での勢力基盤を固めるために、鎌倉の都市整備を進めていきます。
この頃から頼朝は亀の前を鎌倉に呼び寄せました。
亀の前は普段は頼朝のもとへ女中として仕え、人目を憚って逢瀬を続けていたといいます。
当然、頼朝の側には気性の激しい北条政子がいます。
嫉妬深い政子にバレるのだけは絶対に避けたい頼朝は、亀の前との密通も控えめにしていたのでしょう。
そんな中、政子が頼朝の子、頼家を身ごもります。
やがて、お産が近づいた政子は、比企能員の館へ移動、頼朝の腹心の梶原景時を中心に、御家人総出で政子の出産準備が行われました。
36歳にして未だ跡継ぎの男の子がいなかった頼朝も、政子の安産を願って鶴岡八幡宮の若宮大路の整備を行い、自らが工事の監督をしたといいます。
このように、御家人が一丸となって政子の出産のために働いている中、頼朝は政子の目が届かなくなったことをいいことに、以前にもまして亀の前のもとに通うようになりました。
人目を憚った頼朝は、亀の前を鎌倉から少し離れた逗子の中原光家の屋敷に呼び寄せ、そこで逢瀬を重ねました。
中原光家は、安達盛長と同じく、流人時代から頼朝に仕えていた人物で、頼朝も秘密を守ってくれる人物として信頼していたのでしょう。
その後、頼朝はさらに亀の前を光家の屋敷から、頼朝の右筆を務めていた伏見広綱の屋敷に移しています。
広綱も、頼朝の右筆として恋文などを書いていたこともあり、中原光家同様に、頼朝にとっても秘密を共有できる相手でした。
頼朝が亀の前にうつつを抜かしている中、政子は無事にのちの2代将軍源頼家を出産します。
やがて政子は頼家を連れて鎌倉の屋敷に戻ってきます。
政子のいない間に、亀の前にぞっこんになってしまった頼朝は、窮地に立たされることとなります。
政子の嫉妬が炸裂 鎌倉中を巻き込んだ大騒動に
鎌倉の屋敷に戻ってきた政子の耳に入ってきたのは、政子の妊娠中に頼朝が浮気相手と逢瀬を重ねていたという情報です。
この情報を政子に伝えたのは、北条時政の後妻の牧の方だったといいます。
これに激怒した政子は、牧の方の兄、牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の屋敷を襲わせます。
牧宗親の手勢によって屋敷を襲われた伏見広綱は、亀の前を連れて、命からがら三浦一族の大多和義久の屋敷に逃げ延びました。
大多和義久は、三浦義澄の弟で、三浦義村の叔父にあたります。
牧宗親は広綱の屋敷を徹底的に破壊したといい、政子の怒りが伝わってきます。
自分の愛する亀の前がひどい仕打ちを受けたことに頼朝は怒り、政子の目もはばからずに大多和邸の亀の前のもとへ向かいます。
そして大多和邸に亀の前を襲った牧宗親を呼び寄せ尋問。牧宗親は頼朝に陳謝しました。
しかし頼朝は、政子の指示に従うことは当然だが、頼朝に何も相談せずに行動を起こしたことは許せないとして、牧宗親の髷を切るという恥辱を与え、宗親は逃亡しました。
事件はこれだけにとどまらず、自身の義兄にあたる宗親への辱めに対する抗議として、北条時政が頼朝のもとを去り、伊豆国に帰ってしまうというできごとも起きています。
頼朝もこれにはさすがに焦ったでしょう。
当時の頼朝はまだ関東に勢力を確立したばかりで、親族であり自分の勢力基盤となっていた北条氏に自分のもとを去られるわけにはいかなかったからです。
一族を率いて伊豆に帰ってしまった時政でしたが、息子の北条義時だけは鎌倉に残り、頼朝に称賛されたといいます。
こうして一段落したかに見えた騒動でしたが、頼朝は性懲りもなく、亀の前のもとへ再び通い始めます。
政子のとてつもない怒りを目の当たりにした亀の前は、政子を恐れ頼朝に会うのをはばかりますが、頼朝の寵愛は増すばかりで、再び頼朝と逢瀬を重ねるようになります。
これに対し、再び政子の怒りが爆発します。
この事件は、最終的には亀の前を屋敷に置いていた伏見広綱が遠江国へ配流されることで決着しました。
吾妻鏡にはこの配流の理由が、政子の怒りによるものと記されており、政子の怒りを鎮めるために頼朝は自分の家臣を処罰することを強いられたのです。
その後の亀の前については、吾妻鏡の該当箇所が欠落しており、詳細は分かっていません。
しかし、政子の並々ならぬ怒りをもろに受けた亀の前、そして頼朝は政子に恐れおののいたでしょう。
なぜ政子はここまで嫉妬深かったのか
一連のできごとは政子の嫉妬深さがもろに出たエピソードですが、当時の貴族の常識としては、正妻以外の女性のもとに通うのは普通のことでした。
頼朝の父、源義朝も多くの妾を持っており、祖父の源為義にいたっては妾との間に20人以上の子がいたといいます。
当然、頼朝にとっても妾を複数作ることは当たり前で、世間からも常識的なこととして見られていました。
むしろ、ここまで嫉妬深かった政子のほうが異例なのです。
しかし、政子にも嫉妬深くならなければならない理由があったのです。
政子がここまで嫉妬深くなった理由、それは頼朝と政子の身分の違いにありました。
一般的な正妻であれば、家どうしの結びつきによって結婚し、たとえ夫が多数の女性と関係を持っても自分の正妻としての正当性を主張することができました。
しかし政子は伊豆の一介の武士、北条家の出身で、源氏の嫡流たる頼朝とはあまりにも身分が違いすぎました。
頼朝が流人の身であったからこそ正妻として結婚できましたが、本来であれば身分違いもいいところ。
元来の気性の激しさもあったでしょうが、正当性を主張できない出自もあったことが、頼朝が他の女性と関係を持つことを過度に拒絶する態度につながったのです。
政子の嫉妬深さは昔から有名だったようです。
源氏の一族で、のちに南北朝の戦いで活躍する新田義貞の祖先、新田義重の娘、祥寿姫に頼朝が恋し、妻に迎えようとした際、義重は政子の怒りを買うのを恐れて娘を他の男に嫁がせてしまったという話があります。
この話は、政子が亀の前との間に事件を起こす前の話で、それだけ政子の嫉妬深さは御家人たちの間で有名だったのでしょう。
ちなみに、祥寿姫は頼朝の兄、源義平の妻で、頼朝は亡き兄の未亡人に手を出そうとしていたこととなります。
亀の前は、そんな政子を爆発させてしまった人物として後世まで名を残すこととなるのです。
[…] この頼家の出産の時に、頼朝は亀の前と密通しており、これに激怒した政子が亀の前の屋敷を破壊する亀の前事件が起きました。 […]