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八田知家の生涯 子孫は戦国最弱大名 小田氏につながる

八田知家

こんにちは!レキショックです!

今回は、北関東に大勢力を誇り、13人の合議制の一人にも名を連ねた御家人、八田知家について紹介します。

頼朝の信頼も厚く、各地の勢力への使者や儀式の奉行などを多く任され、何でもできる便利屋として頼りにされていました。

子孫は常陸国の有力者として続き、戦国時代には上杉謙信、佐竹義重らに何度も城を落とされるも、そのたびに城主として返り咲いた小田氏治が出るなど、勢力を失いながらもしぶとく生き残りました。

そんな八田知家の生涯、子孫のその後について紹介します。

実は源氏のご落胤? 八田知家の生い立ち

源義朝

八田知家は、現在の茨城県、栃木県に勢力を持っていた宇都宮宗綱の4男として生まれました。

源頼朝より5歳年上で、北条時政などと同世代にあたります。

兄の宇都宮朝綱は、宇都宮氏を継ぎ、のちに下野国の戦国大名として繁栄し、豊臣秀吉の時代まで生き残っていくことになります。

また、知家の姉の寒河尼は、比企尼と同じく、源頼朝の乳母を務めた人物で、のちに下野国の有力御家人小山政光の妻となります。

小山政光と寒川尼の間には、のちに梶原景時追放のきっかけとなる結城朝光が生まれており、子孫は結城氏として、下総国で戦国大名として続いていきました。

結城朝光

後に戦国大名となる有力者の一族として生まれた知家ですが、一説には、源頼朝の父、源義朝のご落胤であるといわれています。

知家の兄、宇都宮朝綱の母は八田局とされていますが、この八田局と義朝が結ばれてできた子が知家だとするものです。

知家の姉である寒河尼が、頼朝の乳母になっていることから、一族を挙げて源氏に近づいたとするならば筋も通りますが、年齢的にも矛盾が生じるため、俗説とされています。

そんな知家は、後白河天皇と崇徳上皇の争いである保元の乱では、源義朝に従って戦い、功績を挙げています。

保元の乱

しかし、平治の乱に参加した記録は残っておらず、その後約20年にわたって、平家全盛の世の中で勢力を維持し続けることになります。

そして、以仁王の令旨に従って、源頼朝が打倒平家の兵を挙げると、知家はいち早く頼朝側として参戦しています。

伊豆、相模とは地理的に離れている知家が、これほど早く頼朝側についたのには、義朝のご落胤であるからというわけではなく、姉の寒河尼の存在が関係しています。

寒川尼は、頼朝が挙兵すると、当時、夫の小山政光が京都にいて不在であったにも関わらず、息子の結城朝光を連れて頼朝の元へ参陣していたほどで、知家も、この姉の影響で頼朝側へいち早く参陣したのでしょう。

こうして、頼朝の御家人となった知家は、姉の縁もあり、頼朝にも重用され、歴史の表舞台へ出ていくことになります。

独自の道を貫き、常陸国を手に入れる 源平合戦以降の八田知家

阿野全成

八田知家の名が一躍有名になったのは、頼朝が富士川の戦いで平家軍と対峙していた頃に北関東で起きた野木宮合戦です。

頼朝の叔父にあたる志田義広が、頼朝の主力が不在の鎌倉を攻めるために兵を挙げたことによって起きた合戦でした。

これに対し、下野国の頼朝方であった小山朝政は、少数の兵ながら、義広に奇襲をかけこれを撃退し、知家も小山朝政に従って戦い、武功を挙げました。

小山朝政

その後、知家は、小山朝政ら下野国の勢力とともに、源範頼に従って上洛し、木曽義仲、平家との戦いに従軍します。

しかし、その途中、源義経が木曽義仲を京都から追い払ったことで、後白河法皇から無断で任官を受けた際に、知家ら下野国の勢力もともに任官を受けており、頼朝からの叱責を受けています。

知家は、「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、怠け馬が道草を食うようなものだ」と頼朝に罵倒されるほどでしたが、その後は頼朝に忠実に仕え、徐々に信頼を取り戻していきました。

そして、源義経が討たれた後に起こった奥州合戦では、大将の1人に任じられ、頼朝軍の勝利に大きく貢献しています。

知家は、頼朝の信頼が厚く、この頃には、戦以外でも、各地の勢力への使者を務めたり、儀式の奉行を務めたりするなど、分野を問わずに活躍しており、そのせいもあって、吾妻鏡にも知家の記述が多くあります。

武芸だけに秀でている武士は、戦が無くなった世では用済みであり、多才な知家を頼朝も特に信頼していたのでしょう。

一方、知家は、勢力拡大の野心もあらわにしており、曾我兄弟の仇討ちでは、混乱に乗じて、常陸国の領主であった多気義幹を罠にはめ、これを滅ぼし、領地を奪っています。

これにより、知家は常陸国に本拠地を移し、常陸守護にも任じられるなど、以降、常陸国を代表する勢力として、代々続いていくこととなります。

こうして、幕府を代表する御家人となった知家は、頼朝が亡くなり、2代将軍に源頼家が就任すると、13人の合議制の1人にも名を連ねます。

源頼家

この13人の合議制は、頼家の専制に対して、宿老たちが結束して対応するために結成されたものでしたが、知家は、これに名を連ねながらも、派閥に属するといったことはなく、むしろ頼家にも近い存在でありました。

やがて、頼朝の弟の阿野全成が、北条氏と結んで反頼家の動きを見せると、知家は頼家側として動き、謀反人として捕らえられた全成は、知家の領地であった常陸国へ流罪とされました。

そして、知家は、頼家の命を受け、常陸国で全成を殺害します。

このように、阿野全成の一件では、頼家に味方したものの、その後の比企能員の変など、御家人たちも交えた争いには参加せず、独自の立場を保ち続けました

そして、3代将軍源実朝の死の前年の1218年に亡くなり、子孫は常陸国の大勢力として続いていくことになります。

八田知家の子孫のその後 戦国の不死鳥 小田氏につながる

小田氏治

八田知家の跡は、息子の八田知重が継ぎ、小田城を本拠地としたことから、小田知重と名乗ります。

知重は、父の存命中から、老齢だった父に代わって幕府の職務を務めるなど活躍し、知重以降も代々常陸守護の地位を守っていきます。

小田氏は、代々北条得宗家から偏諱を賜るなど、鎌倉時代を通じて北条氏との結びつきを強め、他の御家人たちが次々と没落していく中、その勢力を保ち続けました。

そして、八田知家から6代後の小田治久の代に鎌倉幕府滅亡を迎えます。

小田治久は、当初は幕府側に従っていたものの、幕府が滅亡すると、建武政権の追討を恐れ、後醍醐天皇の側近で、常陸国に流罪となっていた万里小路藤房を救い出し、上洛し、後醍醐天皇に仕えることになります。

その後、南北朝の戦いが始まると、小田氏は南朝側につき、小田城に南朝方の大物、北畠親房を迎え入れるなど、関東地方の南朝方の主力として活躍します。

小田城跡

しかし、やがて足利尊氏の大軍に攻められるとこれに降伏し、以降はもとの常陸国の有力国人の地位に戻りました。

治久の子の小田孝朝の代には、隣国の小山氏の反乱に際して、首謀者である小山若犬丸を匿ったことから、鎌倉公方の足利氏満に、当主の孝朝が捕らえられ、小田城も鎌倉公方によって攻め落とされ、一時は滅亡してしまいます。

しかし、鎌倉公方は、小田氏を許し、所領の一部没収にとどめたことから、小田氏はその命脈を保ちます。

小田氏の不幸はこれにとどまらず、一連の敗戦により関東における小田氏の地位が低下していたことに不満を持っていた小田孝朝の孫の小田持家は、上杉禅秀の乱で上杉側に味方し、鎌倉公方と戦ったことで、さらに所領を没収されてしまいました。

以降の小田氏は、関東地方が戦乱の世となり、各地の勢力が争う中、古河公方や関東管領の勢力を転々としながら、その勢力をなんとか保ち続けます。

1514年に家督を継いだ小田政治は、一説には、堀越公方の足利政知の子で、小田氏に養子にきた人物であるといわれており、周辺勢力と戦いを繰り広げ領土を拡大し、小田氏を戦国大名として成長させることに成功しました。

小田政治

しかしこの頃、関東南部では、北条氏が勢力を拡大しており、河越夜戦では、小田氏も属していた古河公方の軍勢を破るなど、周辺勢力を圧倒する勢力を築き始めます。

政治の跡を継いだ小田氏治は、結城氏、北条氏、佐竹氏などと戦いを繰り広げ、たびたび居城の小田城を奪われながらも、巧みな外交戦略もあり、そのたびに奪い返し、領土を維持します。

そのうちに、越後の上杉謙信が大軍を率いて北条氏の小田原城攻めに取り掛かると、小田氏ら関東の諸勢力も、否応なしに上杉方に加わります。

その後、北条氏の誘いに乗り、上杉から北条へ鞍替えし、上杉側の佐竹氏などの城を奪い、勢力を拡大しました。

しかし、これに怒った上杉謙信によって、またもや小田城を奪われ、上杉勢の撤退後に一時は城を取り返すも、再び謙信に城を奪われるといったことを繰り返し、最終的には謙信に降伏することで、城を取り戻すといった状況でした。

上杉氏だけではなく、佐竹氏とも争っていた小田氏は、室町幕府が滅亡した1573年ころから、佐竹義重の猛攻に遭い、幾度となく小田城を奪われ、滅亡の危機に立たされながらも、北条氏を頼ることでその命脈を保ちます。

そして北条氏の支援もあり、小田城奪回の戦いを続けますが、そのうちに、時代は豊臣秀吉の天下統一を迎え、小田氏は、北条氏ともども秀吉によって滅ぼされてしまいました。

豊臣秀吉

小田氏の居城奪回の戦いは、豊臣政権の大名である佐竹氏への反抗とみなされ、小田氏は改易となり、氏治や子の守治は、徳川家康の子の結城秀康に仕え、子孫は越前藩士、幕臣として生き残ることになります。

また、氏治の庶子の小田友治は、早くから北条氏に人質に出されており、北条氏滅亡後は、豊臣秀吉、徳川家康に仕えます。

しかし、関ヶ原の戦いにおいて、当時仕えていた結城秀康に、抜け駆けを進めたことから家康の怒りを買い、秀康の家臣の座を追われてしまいました。

友治の子の小田義治は、大坂の陣において、旧領の回復を条件に豊臣方につくも敗れ、大阪城落城後は、広島の福島正則に仕えるも、ほどなくして病死したため、小田氏が大名として復帰することはありませんでした。

小田氏以外にも、八田知家には10人の男子がおり、子孫は常陸国でそれぞれ独自の勢力を保ちました。

このうち、3男の茂木知基の子孫は、のちに佐竹氏に仕え、佐竹氏が秋田に移封になるとこれに従い、秋田藩の重臣として明治時代まで生き残っています。

また、4男の宍戸家政の子孫は、佐竹氏に仕えたほか、一部は安芸国に移住し、のちに毛利氏に仕えています。

宍戸隆家

戦国時代の当主、宍戸隆家は、毛利元就の娘を妻に迎えるなど、毛利氏と強く結びつき、毛利氏の一門衆として、江戸時代を通じて長州藩の家老を務めるなど活躍することになりました。

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