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北条についた一族の裏切り者が和田の家を残す 和田義盛の子孫 一族のその後

和田義盛

こんにちは!レキショックです!

今回は、和田合戦後の和田義盛の子孫、和田一族のその後について紹介します。

和田合戦では、惣領の和田義盛を筆頭に、和田一族はことごとく討たれ、戦後にさらされた和田一族の首は234にものぼったといいます。

一方、和田勢の中心として活躍した朝比奈義秀が安房国に逃げ延びたという話をはじめ、この戦いを生き残った一族も多くいます。

義盛の孫の和田朝盛は、承久の乱で再び北条氏に戦いを挑み、義盛の8男の義国は、後年、三河国に移り、徳川家に代々仕える三河武士として生き残りました。

また、唯一和田氏を裏切り北条側として参戦した義盛の弟の一族は、鎌倉時代以降も越後国で和田氏の名跡を残し、再び三浦氏と手を組むなど、歴史にその名を刻んでいます。

今回は、和田合戦を生き抜き、織田信長徳川家康の家臣となった義盛の子どもたちの子孫、そして上杉謙信の家臣となった越後和田氏の系譜について紹介します。

実朝と和田一族の板挟みに 実朝のお気に入り 和田朝盛のその後

和田朝盛(右)

和田朝盛は、和田義盛の嫡男、和田常盛の子で、将来の和田氏惣領と目されていた人物です。

朝盛は、源実朝よりも歳上で、最初は2代将軍の源頼家に近習として仕えていました。

頼家のもとでは、安達景盛の妾の連行にも関与していましたが、頼家の失脚には連座せず、そのまま跡を継いだ源実朝の近習となっています。

やがて、実朝が成長し、和歌に興味を持ち始めると、朝盛は和歌の心得がある近習として、実朝に気に入られるようになります。

朝盛は、実朝が主催する和歌の会にも頻繁に出席しており、和歌でつながった実朝のお気に入りの中では、歳が一番実朝に近かったこともあり、大のお気に入りとなっていました。

朝盛は、実朝が北条泰時を中心に、和歌や故実に詳しい御家人たちで組織した学問書番にも名を連ね、実朝のすぐ側で仕え、他に並ぶ者がいないほどの寵愛を受けていたといいます。

北条泰時

ですが、泉親衡の乱に和田一族が連座すると、実朝と朝盛の関係にも暗雲が立ち込めます。

一族が揃って赦免を嘆願したにも関わらず、和田胤長が流罪とされたことに和田一族は抗議し、御所への出仕をやめてしまうという事態に発展したのです。

朝盛も一族に従って実朝のもとへの出仕をやめてしまいますが、北条義時憎さに、実朝への攻撃も辞さない一族と、実朝への忠義との間の板挟みとなり、苦悩します。

そして朝盛は、御所への出仕を停止している間に出家を決意し、実朝へ最後のあいさつとばかりに、数週間ぶりに実朝のもとを訪れます。

源実朝

実朝は朝盛の参上を殊のほか喜び、数箇所の地頭職を与えるという破格の贈り物をしましたが、朝盛は実朝へのあいさつを済ませた足で出家し、鎌倉を離れてしまいました。

北条との衝突を間近に控えていた和田義盛は、弓の名手としても知られた孫の出奔に激怒し、追手を放ち無理やり鎌倉に引き戻しています。

朝盛は強制的に鎌倉へ戻され、僧の姿のまま、実朝へ帰還の報告を行い、実朝もあっけにとられたと伝わります。

その後朝盛は、僧の姿のまま、和田合戦に突入し、北条勢と戦うも、一族が次々と討たれる中、戦場の離脱に成功し、行方をくらましました。

朝盛は、和田合戦の前後に、和田義盛のいとこにあたる佐久間家村の養子になっており、朝盛の子の家盛は、佐久間を名字に名乗っていました。

朝盛の養父、佐久間家村は、安房国の佐久間の地に所領を持っており、畠山重忠の乱にて、重忠の嫡子、重保を由比ヶ浜で討ち、その功績で尾張国に所領を与えられていました。

朝盛は和田合戦後に行方をくらましますが、息子の家盛は、この佐久間氏の跡継ぎとして幕府に仕えます。

そして和田合戦から8年後、承久の乱にて朝盛は朝廷側として参陣し、北条泰時率いる幕府軍と再び戦います。

この時に、息子の佐久間家盛は幕府軍として参戦しており、奇しくも親子で敵味方に分かれる結果となりました。

朝盛は承久の乱での敗戦後、再び行方をくらまし、6年後、北条義時、政子が亡くなり、泰時の時代になっていた1227年に幕府に捕らえられました。

その後の朝盛の行方は分かっておらず、家盛の領していた尾張国に移り住んだとも、和田一族がいた越後国に行ったともされています。

戦国時代になり、織田信長の筆頭家老、退き佐久間として知られた佐久間信盛、鬼玄蕃として知られた佐久間盛政は、佐久間家盛の尾張国の勢力の末裔だとされています。

佐久間信盛

滅亡した和田氏に系図をつなげたものともされますが、この説を取る場合、和田氏は常盛、朝盛とつながる嫡流が江戸時代には大名となり、旗本を経て現代までその系譜をつなげていることになります。

一族の裏切り者は再び三浦氏と手を組み生き残る 越後和田氏の系譜

越後奥山荘

和田合戦ののち、公式に和田氏の生き残りとされたのが、和田義盛の弟、義茂、宗実兄弟からはじまる越後和田氏です。

越後和田氏は、義盛の弟、和田宗実が、奥州合戦の功績で、現在の新潟県北部に所領を与えられたことから始まります。

宗実には娘の津村尼しか、子がおらず、同じく義盛の弟の、和田義茂の子、重茂と津村尼を結婚させ、所領を相続させました。

庶流であったことから高井を名乗っていた高井重茂は、和田合戦において、ほぼ唯一、一族を裏切って北条側についた人物です。

重茂は、和田勢の猛将、朝比奈義秀と激闘を繰り広げ、無双する義秀を馬から引きずりおろすことに成功し、結局は討ち取られてしまったものの、北条側の勝利に貢献しています。

和田合戦

重茂の死後、所領は妻の津村尼が相続し、重茂の子の高井時茂を中心に続いていきます。

時茂の妹は、三浦義村の弟で、承久の乱で朝廷側についた三浦胤義が残した子、三浦胤泰に嫁ぐなど、和田氏は三浦氏とは交流を保ち続けました。

しかし、その三浦氏も、宝治合戦で北条氏に滅ぼされ、和田氏の娘を妻とした三浦胤泰も、三浦方について滅んでしまいます。

三浦氏はその後、義村の娘の矢部禅尼の子どもたちが名跡を継ぎますが、越後和田氏は、彼らとともに、本家滅亡後の三浦一族を代表する家として扱われるようになります。

もっとも、元寇の前後には、和田氏は御家人の身分ながら、北条得宗家の家臣になっていたといい、北条氏の家臣の身分を活かし、その力を高めていきます。

この頃に、高井と名乗っていた姓を和田に戻したとされており、和田義盛以来の名族として再びのし上がっていこうとしていました。

かつて越後守護を務めていた佐々木氏から正室を迎えるなど、小規模ながら越後国の有力者として扱われていた和田氏でしたが、元寇後に起きた北条氏内部の争い、嘉元の乱に巻き込まれてしまいます。

北条氏の有力者、北条宗方が討伐された事件で、当時の当主、和田茂明も連座してしまい、行方をくらまします。

北条宗方

この時に茂明を匿っていたのが、三浦氏だったといいます。

茂明はしばらく経ったのちに許され越後国に復帰しますが、この頃には、後醍醐天皇の倒幕運動が激しさを増すなど、時代は大きく動いていました。

後醍醐天皇の皇子、護良親王は、各地の武士に倒幕を呼びかけ、和田氏のもとにも護良親王の文が届きます。

護良親王は、和田義盛以来の名族、和田氏を引き込むために、あえて和田氏を三浦和田氏と呼び、三浦一族として頼りにしていることをアピールしていました。

護良親王

幕府もこれには慌て、同じく三浦和田氏呼びを始め、和田氏を引き止めにかかり、和田氏もしばらくは三浦和田を公式に名乗るようになっています。

最終的に和田氏は幕府側につきますが、幕府滅亡後は朝廷に下り、三浦氏とともに京都で活動していました。

主家である北条氏の後ろ盾を失った和田氏は、新たな後ろ盾に三浦氏を選び、この時期の和田氏の命令書に、三浦氏が一緒に署名するといった協力関係ができています。

その後、南北朝の戦いが始まると、足利方として南朝勢力の多い本拠地の越後国に戻り南朝と戦い、以降は越後北部の国人として活動するようになります。

南北朝の戦いが終わると、和田氏は領地との結びつきを深めるために、和田の名字を捨て、地名から新たに名字を取り、中条氏と名を改め、室町時代をもって、和田義盛以来の和田氏の歴史は一区切りつけられることになりました。

中条氏は、戦国時代には、当主の中条藤資が、上杉謙信の家臣として川中島の戦いをはじめ、各地で活躍し、上杉軍を代表する猛将となります。

上杉景勝の時代にも、魚津城の戦いで、柴田勝家から城を守り玉砕した13将の1人として中条氏は活躍し、子孫は米沢藩士として江戸時代を生き抜いていくことになります。

徳川家康の曽祖父の時代から松平家を支える 和田義盛の8男、杉浦義国の系譜

徳川家康

和田義盛の8男、杉浦義国は、和田合戦には参陣した形跡がないものの、和田合戦の後も生き残っていたといわれる人物です。

義国は、和田合戦後、現在の滋賀県にあたる近江国に逃れ、和田義盛の父、杉本義宗の杉と三浦氏の浦を合わせ、杉浦と名字を変え、北条氏から逃れひっそり生きていたといいます。

この義国の末裔を称していたのが、江戸時代に旗本として続いた杉浦氏です。

杉浦氏の名前が初めて出てくるのは、徳川家康の曽祖父、松平信忠に仕えていた杉浦政重からです。

杉浦氏は小さな武士で、勢力は大きくありませんでしたが、政重の子どもたちは、家康の祖父、松平清康、父、松平広忠に仕え、忠義に厚い三河武士として戦いの日々を送っていました。

松平清康

杉浦政重の孫の杉浦吉定は、今川家の支配下となっていた松平家の一員として、尾張の織田家と戦い、織田方の蟹江城攻撃で蟹江七本槍と呼ばれる活躍を見せています。

この七本槍には、のちに小田原藩の藩主となる大久保忠世をはじめ、徳川家の強者が揃っていました。

吉定の子の杉浦勝吉は、松平元康として今川軍の一員になっていた徳川家康が、桶狭間の戦い直前に、味方の大高城に兵糧を運び込んだ際に偵察部隊として活躍を見せました。

勝吉は、偵察隊として大高城近くの敵を観察し、家康に対し、兵糧を運び込むタイミングを進言、家康はそのまま大高城に入り、今川義元が討たれた桶狭間の戦いをやり過ごしています。

ある意味、家康の運を切り開いた1人といってもいいでしょう。

桶狭間の戦い

その後も杉浦氏は、三河一向一揆や姉川の戦いなど、家康の戦いに従軍し、将として軍勢を率いることはなかったものの、家康の力の源となった忠義一徹の三河武士の1人として戦国時代を駆け抜けました。

杉浦氏は、小物ゆえ、大きな活躍は残されていないものの、家康の重臣、石川数正豊臣秀吉の誘いを受けて出奔した際には、城の鐘を鳴らしてこれを通報するといった具合に、徳川家の内部事情につながる活躍を見せています。

杉浦氏はそのほとんどが、江戸時代には200石程度の小規模な旗本として残り、一番大きいもので、6000石の大身旗本として、甲府城の城代などを務めた杉浦正友が出ています。

和田義盛の末っ子の系譜は、300年の時を経て、徳川家を三河の一勢力時代から支えた三河武士として、戦国の世に躍り出ることとなったのです。

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