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上総広常の生涯 源氏一筋の坂東武者が辿った悲惨な末路

房総の大物 上総広常

こんにちは!レキショックです!

今回は、源頼朝のもとに大軍勢を率いて参上し、頼朝の勢力拡大のきっかけになった上総広常について紹介します。

打倒平家のために挙兵するも石橋山の戦いに敗れ、命からがら安房国に逃げ延びた源頼朝は、周辺の武士に参陣を呼びかけ再起を図ります。

この時に、2万ともいわれる大軍勢を率いて頼朝のもとに参陣したのが上総広常でした。

広常の参陣により頼朝は息を吹き返し、富士川の戦いで平家に勝利、一気に勢力を拡大していきます。

そんな頼朝快進撃の立役者、上総広常は悲劇の最期を迎えてしまいます。

今回は、上総広常の生涯、なぜ広常は頼朝に味方したのか、紹介します。

平家に権益を奪われ恨みを募らせる

 

広常は房総半島北部を中心に勢力を誇った

上総氏は坂東八平氏の一つで、今の千葉県にあたる上総国の実質的なトップとして房総半島に大きな勢力を有していました。

上総氏の系譜は、関東で朝廷に反乱を起こし、源頼朝の祖先にあたる源頼信に鎮圧された平忠常の孫、平常長にまでさかのぼります。

源義家に従って前九年の役、後三年の役に出陣し、東北で戦い戦功を挙げた常長は、房総半島に確固たる勢力を築きます。

後三年の役

常長の5男、平常晴が上総国のトップ、上総権介の地位を継承し、上総氏を名乗ることになりました。

常晴は、上総広常の祖父にあたります。

また、常長の3男、平常兼は、のちに頼朝の元に参陣する千葉常胤の千葉氏の祖となります。

しかし、常晴は実子の常澄と仲が悪かったのか、千葉氏から千葉常重を養子に迎えてしまいます。

広常の父である常澄は当然これを不満に思います。

常澄は勢力を挽回すべく、源頼朝の父、源義朝に取り入りました。

そして義朝とともに千葉氏の領土を奪い、勢力を拡大させていきます。

源頼朝の父 源義朝(右上)

こうして、房総平氏は同族同士で争う状態になり、この状況下、上総広常は兄たちとともに上総氏の一員として戦に出るようになります。

広常は父と同様に源義朝の郎党として義朝に従い、保元の乱平治の乱でも義朝側として戦っています。

もともと源氏側の武将だったのです。

特に平治の乱では、義朝の子である源義平に従い活躍し、義平十七騎の1人に数えられるまでになりました。

平治の乱

しかし源義朝は平清盛に敗れ殺害され、義平も京都に潜伏しているところを捕らえられ斬首されてしまいました。

一方の広常は、敗戦後、平家の追っ手を振り切り、領国の上総に逃げ延び、平家に従う道を選びました。

この頃に、広常の父、常澄が亡くなり、上総氏内部では常澄の子らによって相続争いが勃発します。

房総平氏の惣領の座は、長男の印西常景が継いでいましたが、次男の印東常茂が常景を殺し、強引に惣領の座を奪ってしまいます。

強引な手段で惣領の座を奪った常茂に反発するものは多く、彼らは広常の側につき、兄弟間で争うようになりました。

さらに、上総氏が従っていた平家も上総氏の権益を冒してきます。

平家の侍大将であった伊藤忠清が、上総氏が独占していたトップの役職である上総介に就任したのです。

さらに忠清は政務方針を巡って広常と対立、広常は平清盛に勘当されてしまいます。

また、平家の縁戚である藤原親政が隣国の下総国で勢力を伸ばし、対立する兄弟の印東常茂が親政ら平家勢力に接近し勢力の拡大を図るなど、広常は追い詰められていきます。

平家によって徐々に権益を侵され、平家に対する不満が溜まっていた広常のもとに、源頼朝の挙兵の報が入るのです。

大軍を率いて頼朝のもとに参陣 打倒平家の戦いへ

安房国に逃げ延びた頼朝のもとへ広常は馳せ参じる

平家によって徐々に追い詰められていた広常のもとに、平家打倒のために兵を挙げ、石橋山の戦いで敗れた頼朝が安房国に逃げ延びたという情報が入ります。

頼朝は、安房国に上陸すると、反平家勢力を集め、安房国を制圧します。

そして上総広常と、同族の千葉常胤のもとに加勢を求め、広常のもとには頼朝の側近である和田義盛がやってきます。

平家に恨みを抱きつつも、その強大な力の前になすすべもなかった広常にとって、かつて仕えていた源義朝の子でもある頼朝に味方しない理由はなく、上総国の平家方勢力を掃討し、2万もの大軍を率いて頼朝のもとに向かいました。

この時、対立していた兄、印東常茂は大番役として京都に出向いている最中で留守にしていたため、広常は常茂の子たちを取り込むことで、悩みの種であった一族内での争いも収めることができています。

頼朝のもとに参陣する際、広常は頼朝のことをなめてかかっていた節があり、頼朝に大将としての器がなかったなら場合によっては頼朝を討ち果たそうと考えていたといいます。

しかし、いざ頼朝に対面すると、頼朝の毅然とした態度に感服し、頼朝を殺してやろうという気は消え失せ、頼朝に従うこととなります。

広常の参陣により頼朝軍は一気に膨れ上がり、畠山重忠ら武蔵国の武士たちを次々と味方に加えながら、源氏の本拠、鎌倉に入りました。

同時期に、頼朝挙兵の報に接した平清盛は追討軍を編成し、孫の平維盛を大将に東国へ進発させます。

光源氏の再来と称された清盛の孫 平維盛

この追討軍には、広常と対立していた兄、印東常茂も加わっています。

しかし平家軍は飢饉の影響で兵糧が集まらず、戦意が高まらないままなんとか富士山のふもとの富士川までたどり着くという有様でした。

甲斐源氏の武田氏なども参戦し、勢いに勝る頼朝軍に対し、平家軍は有効な手段を取れず、戦わずに撤退してしまいました。

広常自身は、印東常茂をこの戦いで討ち果たし、悲願であった房総平氏の統一を達成しています。

こうして、頼朝配下の有力御家人の1人となった広常でしたが、その最期はあっけないものでした。

頼朝のために戦うも、考え方の違いから排除される

広常を暗殺したといわれる梶原景時

源頼朝は、富士川の戦いでの勝利の後、平家を追って上洛を果たそうとします。

広常はこれに対し、常陸国の源氏、佐竹氏の討伐を進言します。

佐竹氏は甲斐源氏と同じく、源義光を祖先に持つ源氏で、この頃は平家と結び、奥州藤原氏とも友好関係を築くなど、常陸国の有力豪族となっていました。

頼朝の呼びかけによって関東の武士たちがこぞって頼朝のもとに駆けつける中、佐竹氏は頼朝に従っていませんでした。

頼朝が上洛したとしても、この佐竹氏に背後を突かれてはひとたまりもないため、同じ関東の勢力で、佐竹氏をよく知っていた広常は討伐を主張したのです。

広常は単に力攻めを行うだけではなく、佐竹氏との縁戚関係を活かして策を弄します。

広常は、佐竹氏当主、佐竹隆義の子、佐竹義政、秀義兄弟に会見を申し込み、このうち兄の義政が応じます。

広常は2人だけで話がしたいと義政をおびき寄せ、義政を殺害します。

そして中心人物を失って動揺する佐竹氏を頼朝が攻撃し、佐竹氏はあっけなく常陸国から逃亡することとなりました。

このように、頼朝配下の有力御家人として活躍していた広常でしたが、頼朝配下の中では飛び抜けた大兵力を有していたため、無礼な振る舞いが多かったといいます。

頼朝に対しても馬から降りずに挨拶し、これを咎められると、「自分は先祖の代から源氏に対して馬を降りて挨拶をしたことがない」というほどです。

頼朝も広常の兵力に頼るところが大きく、内心怒りながらも、黙認する状態でした。

また、他の御家人に対しても格下と見て横暴な態度を取り、代々源氏に仕えていた老将、岡崎義実と殴り合いのケンカ寸前までいくこともありました。

やがて頼朝の勢力も確立し、平家に対して優勢になり始めた1183年、ついに頼朝は謀反の疑いありとして広常を謀殺します。

腹心の梶原景時に命じて、広常と景時が双六をしている最中に広常を殺させたのです。

広常の嫡男、上総能常は自害し、上総氏の所領は同族の千葉氏などに分配され、上総氏は滅亡することとなりました。

のちに、広常の鎧から頼朝の武運を祈る願文が見つかり、謀反を思わせるような文章はまったくなかったため、頼朝は広常を殺したことを悔やみ、幽閉していた広常の一族を赦免しています。

一説には、頼朝は平家打倒よりも関東での自立を望む広常を、自分の目指す道と合わないとして殺したといわれています。

広常ら関東の武士たちは、平家に奪われた権益を取り戻すために頼朝に従っていた者たちが多くいました。

彼らにとっては、自分たちの土地が誰にも侵害されず、自分たちだけで支配していければよく、東国が独立すべきと考えていました。

一方、頼朝は東国独立は考えておらず、朝廷との協調をもって朝廷の承認のもとで東国政権を樹立しようと考えていました。

御家人たちの間でも考えに相違があり、東国独立論を主張する武士の中でも最大勢力の広常を殺すことは、頼朝の目指す朝廷協調路線に一丸となって突き進むことを示すこととなったのです。

また、広常は木曽義仲と親しくしていたといわれており、頼朝と義仲の関係が悪くなるにつれて、頼朝は広常を敵とみなすようになり、謀殺につながったともいいます。

木曽義仲

いずれにせよ、石橋山の戦いで敗れた頼朝が勢力を挽回するきっかけとなった関東の有力武士、上総広常は、平家滅亡をこの目で見ることなく、道半ばにして命を落とすこととなったのです。

 

 

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