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畠山重忠の生涯 北条氏によって悲劇の最期を迎える武士の鑑

武蔵国北部に勢力を誇った畠山重忠

こんにちは!レキショックです!

今回は、知勇兼備の名将、畠山重忠の生涯について紹介します。

畠山重忠は源頼朝に従って源平合戦で活躍し、武勇のほまれも高く、清廉潔白な人物であったことから頼朝の信任も厚く、坂東武士の鑑と呼ばれました。

数々の戦いで功績を挙げた重忠は幕府になくてはならない存在となりますが、その勢力を恐れた北条氏によって悲劇的な最期を遂げることとなってしまいます。

今回は、畠山重忠の生涯、坂東武士の鑑はなぜ滅亡することとなってしまったのか、紹介します。

源氏に恩を受けながらも平家に仕える

埼玉県嵐山町にある重忠の屋敷跡

畠山重忠は、坂東八平氏の一つである、秩父氏の一族として生まれました。

畠山氏は現在の埼玉県深谷市あたりを本拠地にしており、父の畠山重能の代に畠山氏を名乗るようになります。

父の重能は、自分が秩父氏の嫡流でありながら家督を継げていないことに不満を持ち、源義朝、源義平親子と手を組んで、大蔵合戦を起こします。

鎌倉悪源太と呼ばれた義朝の子 源義平

この戦いで、秩父氏の家督を継いでいた、重能の叔父の秩父重隆と、源義朝の弟の源義賢を討ちました。

この戦いの際、重能は、源義賢の2歳の子、駒王丸を殺すように源義平に命じられます。

しかし重能は幼い子を殺せず、密かに逃し、この子がのちに源頼朝と争うこととなる木曽義仲に成長します。

こうして源氏との深いつながりのもと、勢力を確立した畠山氏でしたが、源義朝らは平治の乱で平清盛に敗れ、源氏の勢力は地に落ちてしまいます。

平治の乱

この前後に畠山氏は平家に従うようになっており、以降、20年近くにわたって平家の忠実な家人として仕えることとなりました。

畠山氏は武蔵北部の有力武士として周辺の武士たちとも婚姻関係を結んでおり、重能の妹は下総の千葉常胤の妻に、自身の妻は相模の三浦義明の娘と、のちに源頼朝に従うこととなる武士たちとも深いつながりがありました。

やがて、かつて仕えていた源義朝の子、源頼朝が伊豆国で平家打倒の兵を挙げます。

平家方であった畠山氏は、当主の畠山重能が大番役で京都に出向いており、京都にて平家方として戦うこととなります。

領国の兵士たちは、当時17歳だった重能の子、畠山重忠が率いることとなりました。

重忠も平家方として、相模国の大庭景親らと連携して頼朝討伐に動きます。

重忠は軍を率いて相模国へ向かいますが、頼朝は大庭景親によって石橋山の戦いで打ち破られており、すでに敗走していました。

重忠は、その途上、頼朝と合流できずに引き返していた三浦義澄ら三浦軍と鉢合わせ、戦っています。

その後、同族である河越重頼、江戸重長らの軍勢と合流した重忠は、三浦家の本拠地、衣笠城に攻め寄せます。

この戦いで重忠は祖父にあたる三浦義明を討ち取り、平家方として功績を挙げることとなりました。

重忠の祖父 三浦義明

こうして平家方として活動していた重忠でしたが、頼朝は房総半島で上総広常ら武士たちをまとめ上げ勢力を巻き返し、大軍となって武蔵国に向かってくることとなるのです。

頼朝の信頼を勝ち取り、平家討伐で大活躍

一ノ谷の戦いでの鵯越の逆落とし

大軍となった頼朝が武蔵国に進軍すると、重忠は頼朝に従う道を選びます。

当時の畠山氏は、まだ当主は父の重能で、当の重能は京都で平家方として戦っています。

それでも、重忠は同族の川越、江戸氏らとともに頼朝に従う道を選び、彼らの帰参により武蔵国を平定した頼朝は鎌倉へ向かいました。

重忠は帰参の際に、かつて先祖の平武綱が源義家から賜った白旗を持参し頼朝に大いに喜ばれ、鎌倉入りの先陣を命じられるという栄誉を受けます。

父が平家方であったことから、頼朝の信任は得られていなかったともいいますが、それでも、頼朝の御所の移転や、鶴岡八幡宮への参詣の警護など、頼朝の御家人として活動しています。

やがて、平家を追い払って京都に突入した木曽義仲と頼朝が対立すると、ついに頼朝は兵を京都に進めます。

頼朝の弟の源範頼源義経に率いられた6万の大軍は義仲軍と宇治川で激突しました。

宇治川の戦いでの渡河の様子

重忠もこの戦いに参陣しており、その武勇をいかんなく発揮します。

重忠は、真っ先に馬で川を押し渡ろうとしますが、次々と馬を矢で射られてしまい、泳いで川を渡ることとなります。

重忠はこの状況下、馬を流され重忠に掴まってきた大串重親を対岸に放り投げ、放り投げられた重親が一番乗りの名乗りを挙げるという珍事も起きています。

また、重忠は義仲の愛妾、巴御前と一騎討ちを演じたともいい、重忠はその怪力で巴御前の鎧を引きちぎり、巴御前は敵わないと逃げ出しました。

木曽義仲の愛妾 巴御前

京都に入った重忠ら頼朝軍は、福原にいる平家軍を討つために西へ移動、一ノ谷の戦いに挑みます。

ここで、源義経が崖を下って平家を急襲しようとしますが、重忠のみは馬を怪我させたくないと馬を背負って坂を駆け下ったといいます。

いずれの逸話も、後の世の創作であるといわれていますが、それだけ重忠の武勇が優れていたということなのでしょう。

その後の屋島の戦い壇ノ浦の戦いでは重忠の活躍は記録されていません。

しかし、源義経の天才的な軍略もあり、頼朝軍は平家を追い詰め、ついに壇ノ浦の戦いで平家は滅亡することとなります。

謀反の疑いをかけられながらも増していく頼朝の信頼

源義経の愛妾 静御前

平家滅亡後も、重忠は頼朝の忠臣として活躍を続けます。

重忠は武勇だけでなく教養もあり、義経の愛妾、静御前が捕らえられ、頼朝の命で鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露した際には、銅拍子を打って伴奏を務めています。

この頃、重忠は部下が乱暴狼藉を働いたという罪で主人である重忠も囚人として預かりの身になるという事件にあっています。

これを恥じた重忠は、絶食し、その武勇を惜しんだ頼朝によって重忠は赦免されました。

それだけ頼朝の信任を得ていたということですが、頼朝の腹心、梶原景時はこの措置を不満に思い、頼朝に対し謀反の疑いありと讒言します。

頼朝は景時のことも無視できず、重忠を討つべきか議論し、重忠にも真相を問うために使者を派遣しました。

ただでさえ恥ずかしい罪を得た身であるのに、謀反の疑いまでかけられたことを恥じた重忠は、悲しみ憤り、自害しようとまでします。

使者に押し止められ、なんとか自害を思いとどまった重忠は申し開きをしようと鎌倉に出向き、起請文の提出を求める梶原景時に対し、自分には二心なく、言葉と心が違わないから起請文を出す必要はないと言い放ちました。

これを聞いた頼朝は、何も言わずに重忠に対し褒美を与えたといいます。

一連の事件でますます頼朝の信任を得た重忠は、奥州藤原氏との戦いである奥州合戦で先陣を務める栄誉を手にします。

奥州合戦の舞台となった平泉 無量光院跡

重忠は奥州合戦の命運を決めた阿津賀志山の戦いで戦功を挙げ、奥州藤原氏討伐に大きく貢献しています。

また、奥州合戦での捕虜への尋問で、梶原景時が傲慢な態度で取り調べを行った一方、重忠は礼を尽くして話を聞いた結果、捕虜は重忠には情報を吐いたという逸話があります。

このように、御家人たちに嫌われた梶原景時との対比から、坂東武士の鑑としてその武勇、清廉潔白さを高く評価されていた重忠は、頼朝に最後まで厚い信頼を寄せられました。

頼朝の腹心 梶原景時

頼朝の上洛の際にも先陣を務め、頼朝は死の間際に、重忠に対し自分の子孫を守護するようにと遺言し亡くなっています。

こうして、鎌倉幕府を支える柱として頼朝や御家人たちから尊敬されていた重忠でしたが、やがて北条氏によって追い詰められていくこととなります。

北条の策略にはまり命を落とす

北条氏によって滅亡させられる畠山重忠

源頼朝が亡くなると、御家人たちの対立は激しさを増していきます。

結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」と発言したのを、梶原景時が讒言した際には、重忠は三浦義村和田義盛ら御家人66名の一員として梶原景時への弾劾状に署名し、景時を鎌倉から追い落としています。

重忠にとっても、景時はかつて自分を追い落とそうとした相手として恨みがあったのでしょう。

また、北条氏と、2代将軍源頼家の外戚である比企能員が対立した際には、北条側として比企一族討伐に参加しています。

しかし、幕府内で権力を高めようとする北条氏の矛先はついに武蔵国を治める重忠に向かいます。

幕府では、比企一族が討伐され、比企一族が後ろ盾となっていた2代将軍源頼家の代わりに、源実朝が3代将軍に就き、北条時政が幕府の実権を握っていました。

北条時政

時政は、牧の方との娘婿で、武蔵国司を務めていた平賀朝雅と結んで、比企能員がいなくなった武蔵国への進出を開始し、武蔵支配を巡って畠山重忠と対立関係になってしまいます。

重忠の妻も北条時政の娘で、時政にとっては平賀朝雅も重忠も同じ娘婿だったのですが、それだけ牧の方が大事だったのでしょう。

重忠と時政の対立は周知の事実となっており、たびたび両者が軍事衝突したとのデマが流れていました。

そんな緊張状態にあるなか、京都に上っていた重忠の嫡子、畠山重保と平賀朝雅が酒席で言い争いになるという事件が起きます。

この言い争い自体はその場で収まるのですが、同時期に、時政と牧の方の子で、重保らとともに上洛していた北条政範が病死してしまいます。

この2つの事件の情報が同時に鎌倉に届き、不信感を強めていた牧の方のもとに、平賀朝雅が重保に悪口を言われたと讒訴してきます。

牧の方はこれを受け、畠山重忠親子が謀反を企んでいると北条時政に訴え、時政は畠山討伐を決断、息子の北条義時、北条時房兄弟に相談します。

北条時政の子 北条義時

御家人の信頼が厚い重忠が謀反を起こすはずがないと義時らは必死に反対しますが、牧の方の兄、大岡時親は義時に対し、牧の方が継母だから気に入らないのだろうと迫り、不本意ながら畠山討伐に同意してしまいます。

そして鎌倉では謀反人討伐のための兵が集められ、鎌倉にいた畠山重保も、これに参陣しようと駆けつけます。

しかし、謀反人とされていたのは自分で、大軍に囲まれてしまった重保は、奮戦するも多勢に無勢で討ち取られてしまいました。

この頃、鎌倉で騒ぎがあると聞いていた畠山重忠はわずかな兵を率いて鎌倉に向かっていましたが、その途上、自分が謀反人とされ、大軍が自分の討伐のために向かってきていることを知ります。

重忠は自分の運命を悟り、潔く戦うことが武士の本懐であるとして大軍を迎え撃ちます。

数千の軍にわずか百騎ほどで立ち向かった畠山軍は奮戦するも壊滅、重忠は自害したとも、矢に当たって討死したともいわれています。

重忠と戦った義時は、畠山軍の主力は出払っていて重忠は少数の兵しか率いておらず、謀反の意志は感じられなかったとして、重忠は無実であったことを確信します。

そして時政が牧の方と結んで幕府を牛耳ろうとしていることを悟り、時政を糾弾、時政はこれに対し何も言わなかったといいます。

この事件を契機に北条親子の間には深い溝ができ、やがて義時は時政追放へと動いていくこととなります。

重忠の子や一族は、この戦いでほとんどが討ち死にしています。

畠山氏の名跡も重忠の娘を妻にしていた足利氏の一門、足利義純が継承し、足利一門の家として存続することになります。

もとは平氏の家であった畠山氏は源氏一門として存続することとなりますが、子孫は足利一門としてやがて室町幕府で重要な役割を担います。

室町幕府では、足利一門かつ重忠以来の名門として、斯波家、細川家と合わせて管領を輩出する三家の一つとなります。

子孫は各地の守護を務め、のちに日本を二分する応仁の乱のきっかけとなるなど、歴史を動かしていくこととなります。

応仁の乱

また、唯一生き残っていた末子の畠山重慶は僧となり、日光で暮らしていました。

しかし、日光山の別当より、謀反の疑いがあると将軍源実朝に密告され、実朝は、重慶を生け捕るように、その場にいた御家人の長沼宗政に命じます。

しかし宗政は重慶を殺害し、首のみ持ち帰ったため、畠山氏はここに滅亡し、実朝も深く悲しんだといいます。

こうして、源頼朝に自分の子孫を代々守護するように頼まれるほどの信頼を寄せられていた畠山重忠は滅亡し、重忠を失った頼朝の子たちも滅亡への道を歩んでいくこととなるのです。

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