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九戸政実ってどんな武将? 豊臣秀吉の天下統一に最後まで抵抗した奥州の強者

豊臣秀吉の天下統一に最後まで反抗し、天下の大軍勢を一手に引き受け戦った武将。それが本記事で紹介する九戸政実です。

九戸政実(くのへ まさざね)は現在の岩手県北部を支配していた武将です。

豊臣秀吉による天下統一に最後まで抵抗し、『九戸政実の乱』を引き起こした人物として有名です。

この記事では九戸政実はどんな武将だったのか、なぜ九戸政実の乱を引き起こしたのかなど、 詳しく解説していきます。

以下は九戸政実の生涯、および関連する出来事をまとめた年表になります。

1536年(天文5年) 九戸信仲の長男として生まれる
1565年(永禄8年) 南部晴政が南部信直を養子に迎える
1569年(永禄12年) 政実が安東愛季を破り、鹿角郡を奪取する
1570年(元亀元年) 南部晴政の長男南部晴継が誕生する
1582年(天正10年) 南部晴政死亡。南部晴継が暗殺される。
1590年(天正18年) 豊臣秀吉による天下統一
1591年(天正19年) 九戸政実挙兵

九戸家の出自に関しては、南部家の始祖である南部光行(なんぶ みつゆき)が鎌倉時代に地頭として入部し、六男九戸行連(くのへ ゆきつら)が九戸の姓を名乗ったいう説と、南北朝時代に九戸の伊保内を本拠としていた結城親朝(ゆうき ちかとも)の代官である小笠原政康(おがさわら まさやす)の子孫が土着したという説があります。

南部家の後継者候補に九戸家の人物が挙がることもあるので、南部家の一族であったという説が有力です。

明応年間(1492~1501)には二戸郡の福岡に九戸城(白鳥城)を築き、この地方で一万石以上を有する強大な勢力となっていました。

『高源院殿覚書』の永禄六年(1563年)5月の記録には九戸政実の名前が南部宗家の南部晴政の名前と併記されています。

高源院とは室町幕府13代将軍足利義輝のことで、九戸家は室町幕府からは南部家と並ぶ勢力として認識されていました。

一国人領主が室町幕府に認識されることはあまりなく、九戸家は北奥州の有力大名として室町幕府に認知されていたことが伺えます。

誕生 南部家の武将としての活躍

九戸政実は1536年(天文5年)に九戸信仲(くのへ のぶなか)の長男として誕生しました。

兄弟には、のちに南部家の後継者候補になる九戸実親(くのへ さねちか)、中野家に養子に入り南部家に仕えた中野康実(なかの やすざね)、久慈家に養子に入った久慈政則(くじ まさのり)がいます。

政実の『政』の字は南部晴政より与えられたものとされており、このことからも南部家との良好な関係性が見て取れます。

Nannbu Harumasa.jpg南部晴政(Wikipediaより引用)

実際に九戸家は南部家の家臣ではなく、あくまで同列ではあったのですが『三日月の丸くなるまで南部領』と評され、戦の天才であった南部晴政の影響下にあったと言われています。

九戸政実は南部家と協力する形で、周辺勢力との戦いを繰り広げていきます。

九戸政実の名を一躍世間に広めたのが1569年(永禄11年)に行われた鹿角の戦いです。

出羽国の大名であった安東愛季は勢力を拡大し、南部領であった鹿角郡までを支配下におきます。

防戦一方であった南部勢でしたが、九戸政実は南部晴政と協力し、南北から愛季を挟撃し大勝利を収めました。

同時期には津軽、下北地方を治めていた石川高信と協力し、斯波氏を撃退する功も挙げています。

斯波氏には弟の康実を養子として送り込み、支配下においています。

また、政実は南部晴政の次女を弟である九戸実親の妻に迎え、南部家とも結びつきを強めました。

この頃の九戸政実の領土は、九戸、二戸、岩手、閉伊、斯波諸郡に広がっており、南部宗家と肩を並べるまでの勢力となっていました。

実際に、九戸政実の居城である九戸城は、南部信直の居城である三戸城を遥かに凌駕する規模であり、北奥州最大の大名といっても過言ではありませんでした。

南部晴政の死 南部信直との対立

周辺勢力との戦いに次々と勝利し、勢力を拡大していた九戸政実でしたが、南部晴政の死により運命は大きく変わります。

南部晴政は1582年(天正10年)に死去し、家督は息子である南部晴継が継承します。

しかし、南部晴継は父晴政の葬儀の終了後、何者かに暗殺されてしまいます。

この暗殺劇は南部信直によるものという説が当時ありました。

Nanbu Nobunao.jpg南部信直 Wikipediaより引用

南部信直は南部晴政のいとこにあたる石川高信の子であり、晴政の養子となっていましたが、世継である晴継の誕生により養子縁組を解消され実家に戻っていました。

南部信直は元養子として南部家の次期当主となることを宣言しますが、信直が暗殺の首謀者であると疑う政実は真っ向から反対し、弟で晴政の娘を妻にしている九戸実親を時期当主に推薦します。

こうして、南部家中では、信直支持派と反信直派による対立が激化しました。

信直の支持者の主力は八戸政栄(八戸根城主)、北信愛(剣吉城主)、東政勝(名久井城主)であり、反対派は政実をはじめ、引孫四郎(引城主)、七戸家国(七戸城主)らがいました。

実質的には、南部家中の有力者であった九戸家と石川家による対立です。

後継者争いは、南部の知将と言われた北信愛が八戸政栄と共謀し、百人の武装兵とともに信直を南部家の本城三戸城に入城させるという強引な手段を用い、信直が南部家第26代目となりました。

政実はこの強引な手段に反発し自領へ帰還し、信直との対立を深めていくことになります。

秀吉の天下統一 奥州仕置

Toyotomi hideyoshi.jpg豊臣秀吉 Wikipediaより引用

信直の家督継承後、しばらく表立った対立がなかった両者でしたが、信直は自身の立場の正当性を主張するために豊臣秀吉に接近します。

1590年の小田原征伐にも南部信直は兵を率い出陣し、豊臣秀吉から本領安堵を受けています。

しかし、信直が秀吉から朱印状を受けたことで、信直と政実の関係は決定的に崩壊することになりました。

当時の南部家は中央集権体制ではなく、三戸南部氏を中心に、八戸氏、九戸氏、引氏、一戸 氏、七戸氏ら南部一族による同族連合でした。

しかし、秀吉の朱印状によって三戸南部氏の当主である信直が南部宗家としての地位を認められ、一族は宗家の家臣として組み込まれることになったのです。

さらに、秀吉から信直に宛てられた書状には九戸政実ら国人領主の城を破却し、妻子を信直のもとに人質として送ることが命じられています。

そして従わない者は豊臣政権として征伐することとされました。

もともと主従関係はない上に、家督継承に破れた政実に、信直の家臣となる道はありません。

居城破却なども、到底承服できるないようではありません。

九戸政実は信直が小田原に参陣して留守にしている間に、信直側である南盛義を攻撃します。

盛義は討ち死にし、南部家中は臨戦態勢に突入しますが、政実の行動は一旦ここで止まりま す。

しかし、南奥州では、奥州仕置に対する不満から、葛西大崎一揆仙北一揆など大規模な一揆が勃発します。

これら一揆は伊達政宗が煽動しており、政実も政宗と気脈を通じ、いよいよ反乱を起こすことになります。

九戸政実の乱 勃発

南部信直が和賀・稗貫一揆と対峙している不穏な情勢のなか、1591年(天正19年)の新年、九 戸政実は恒例であった三戸城における正月参賀を拒絶し、南部本家への反乱の意志を明確にします。

同年3月に、九戸政実は弟の九戸実親をはじめ、櫛引清長、七戸家国らとともに5000人の兵力で挙兵し、櫛引清長が苫米地城を攻め落とし、全面戦争が始まりました。

九戸軍は南部家の中でも精鋭揃いで、南部側の諸城を次々と落とし、南部家本拠地の三戸城を攻め落としにかかりました。

しかし、南部信直自ら采配を採り頑強に抵抗したので、九戸政実は三戸城を攻めあぐねていました。

南部信直は、九戸政実の実力をよく知っており、単独では鎮圧できないと判断し、豊臣秀吉の援助を願い出ます。

この時信直は嫡男の南部利直、筆頭家老の北信愛を秀吉の元へ派遣しているので、信直の必死さが見て取れます。

九戸政実は三戸城を落とせないまま、秀吉軍の襲来を迎えることとなりました。南部家を統一し秀吉に対抗するという政実の計画はここに破綻しました。

九戸政実は居城の九戸城に撤退し、籠城の準備を進めます。

一方、豊臣秀吉は、豊臣秀次を総大将とする軍を編成。総勢6万の軍で九戸城を目指しまし た。

各軍の編成は以下の通りになっています。

白河口:豊臣秀次、井伊直政

仙北口:上杉景勝、大谷吉継

津軽口:前田利家、前田利長

相馬口:石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱

これに、蒲生氏郷、伊達政宗、最上義光、南部信直、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信ら東北諸将が加わりました。

奥州仕置軍は途中一揆勢を鎮圧しながら九戸城へ向かいます。一揆勢は各地で敗れ、九戸城に逃走しました。

九戸側も、一揆勢を支援しながら戦い、美濃木沢の戦いで勝利を収めますが、奥州仕置軍の圧倒的な火力の前に前線基地である姉帯、根反城を1日で落とされ、九戸城に籠城しました。

しかし、九戸政実は、九戸城内に銃弾の製造工場を構えており、奥州の大名の中でもトップレベルの鉄砲隊を有していました。

また、唯一残った九戸城は奥州随一の大きさを誇る堅城でした。政実はこの城で圧倒的な火力を武器に頑強な抵抗を示し、豊臣軍は2日かけても攻め落とせません。

冬が近づき、自軍の被害が甚大になることを恐れた蒲生氏郷、浅野長政は、九戸氏の菩提寺で ある鳳朝山長興寺の薩天和尚を通じ、城兵、一族の助命を条件に政実に降伏を説得させます。

政実はこれを受け入れ、弟の九戸実親に後を託し、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光 種、大里親基、大湯昌次ら首脳陣とともに白裝束姿で奥州仕置軍に出頭し、降伏しました。

反故にされた約束 処刑

政実らは城を出た後、現在の宮城県栗原市の三迫に送られました。 しかし、政実が城を出ると、助命の約束は反故にされ、豊臣軍は九戸城内に押し入ります。

九戸実親はじめ、残っていたものは全員二の丸へ押し込められて、四方より火を放たれ、逃げようとするものは容赦なく斬り殺されました。

のちにこれは『九戸の撫で斬り』と言われ、現在でも九戸城の跡地を掘り起こすと、刀傷を負った女性の遺体が見つかるそうです。

しかし政実はこの出来事を知らずに、反乱の首謀者たちと共に処刑され、さらし首とされたのでした。55年の生涯でした。

同地には、九戸政実の墓と伝わる九戸塚が今でも残っています。

豊臣軍は二度と反乱が起こらないように九戸の撫で斬りのような苛烈な戦後処理を行ったと言われており、九戸城落城をもって、豊臣秀吉の天下統一は完成することとなりました。

九戸政実の乱の意義とは?

九戸政実の死後100年後に書かれた『奥羽永慶軍記』には『奥羽両州の人は、人の心愚かにして威強気者に随ふ事知らず』と記述されており、九戸政実の無謀な戦いを非難しています。

Tugaru Tamenobu.jpg津軽為信 Wikipediaより引用

また、同じく南部家から独立した津軽為信はいち早く豊臣秀吉に接近し、朱印状を受け、独立を認められていましたが、九戸政実にはこのような外交姿勢は見られず、世情に疎かったのではという意見が多くありました。

しかし、当時、地方勢力が豊臣政権へ接触するには「取次」と呼ばれる大名への接触が最も重要でした。

南部信直は前田利家、津軽為信は石田三成と豊臣政権の有力者と接点を持っています。

もしかしたら、九戸政実も豊臣政権と接触があったものの、取次大名が失脚し、南部信直に遅れを取ってしまったのかもしれません。

一方で、九戸政実は豊臣秀吉の厳しい奥州仕置を改めさせるために反乱を起こしたという見方もあります。

奥州の諸将は次々に領土を奪われ、検地も厳しく行われ税負担も上がっていました。

九戸政実の乱は、豊臣政権の強行的な支配に対する反発、闘争であったと言えます。

豊臣政権としても、自らの政治を否定するこれら反乱には徹底的に対処する必要があり、奥州一揆最後の拠点である九戸城攻撃には、6万もの大軍を動員しました。

いずれにせよ、地方の一国人のためにこれほどの大軍が催されたのは空前絶後のことで、政実はその武勇を後世にまで伝えることとなったのです。

勇猛果敢で知られた政実があっさりと降伏に応じるというのも少し疑問が残り、城兵の助命以外にも密約があったのではとも考えられます。

安部龍太郎氏の『冬を待つ城』という小説では、朝鮮出兵のために寒さに慣れた奥州人を朝鮮に送り込む豊臣政権の政策に、九戸政実が反発したという見方で政実が描かれています。

ここまで読んでくださって九戸政実に興味を持った方は、ぜひ安部龍太郎氏の『冬を待つ城』を読んでみてください。政実の4番目の弟である久慈政則を主人公にした小説です。

参考文献
国史大辞典編集委員会『国史大辞典』(吉川弘文館 昭和63年) 百々幸雄、竹間芳明、関豊、米田穣『骨が語る奥州戦国九戸落城』(東北大学出版会 平成20年)

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