幕末 近代

大隈重信の子孫のその後 子孫は読売ジャイアンツの初代会長に!

大隈重信

今回は、早稲田大学創設者としても有名な大隈重信の子孫についてご紹介します。

大隈重信には明治初期に離婚した最初の妻、美登と、2番目の妻、綾子という2人の妻がいました。

このうち、最初の妻との間に熊子という女の子を1人もうけたほかは、子はいないこととなっています。

重信は綾子の姪にあたる光子を養女とし、光子に婿を迎えて大隈家を継がせますが、実は光子は重信が女中に産ませた実子で、重信の血はつながっていることとなります。

今回は、重信の娘である熊子と結婚した大隈英麿、光子と結婚した大隈信常について紹介します。

盛岡藩主の子として生まれ、重信の養子となった大隈英麿

大隈英麿は、幕末の盛岡藩主、南部利剛の次男として盛岡城にて生まれました。

幕末の盛岡藩主 南部利剛(なんぶとしひさ)

南部家は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟側として戦い敗北、利剛は隠居し、英麿の兄の南部利恭が減封され跡を継いでいました。

南部家は賊軍の汚名を返上するために利剛の娘の郁子を天皇家に嫁がせることを画策し、郁子は華頂宮博経親王の后となります。

博経親王はやがてアメリカに留学し、英麿も博経親王に従って渡米、8年間の留学生活を経て帰国しました。

留学中は天文学、数学を主に勉強しており、理学学士の学位を得ています。

南部家出身の重信の養子 大隈英麿

帰国後に縁あって大隈重信の長女である熊子と結婚し、大隈家の婿養子となります。

その後の英麿は留学経験を活かして現在の気象庁などで活躍しますが、明治14年の政変で大隈重信が政府を追われると、英麿も養父に従って下野しました。

その後、大隈重信は現在の早稲田大学にあたる東京専門学校を設立し、英麿は初代校長に就任します。

東京専門学校(のちの早稲田大学)

学校設立当時、重信は英麿の留学経験を活かして理科系の学校を興そうと考えていましたが、協力者との協議の結果、政治経済や法律系の学校とされました。

理学科も設置されたものの、入学者が少なく、数年で廃止されています。

やがて重信が立憲改進党進歩党を組織して政界復帰すると、英麿も故郷の岩手県から立候補し衆議院議員となります。

政治家の道を歩む一方、現在の早稲田中学早稲田実業の設立にも関わり校長に就任するなど、教育者と政治家という二足のわらじを履く状態でした。

しかし1902年、英麿は突如として妻の熊子と離婚、大隈家との養子縁組も解消し、南部家に戻ってしまいました。

この時に、早稲田大学関連の職も全て辞任しています。

英麿の離縁の原因は、他人の借金の保証人になったことが原因であると、盛岡藩の家老の家の出身で、のちに総理大臣となる原敬は語っています。

大隈重信の後に首相となった原敬

英麿は過去にも保証人となり負債を抱えたことが何度もあり、3回目の借金騒ぎでついに離縁となってしまいました。

原敬は英麿に対し、この借金騒ぎは英麿の柔弱な性格が招いたものだと語っています。

英麿と熊子の間には子はおらず、英麿の血はここで絶えることとなります。

英麿は早稲田大学内でも紳士然としており、生徒からの人気は高かったといいます。

東京専門学校創設時には現在の早稲田大学にもつながる「学の独立」を校長として宣言しており、早稲田大学に大きな影響を与えました。

読売ジャイアンツの会長に! 重信の後継者 大隈信常

大隈英麿の養子縁組解消後、大隈家の後継者となったのが、大隈信常です。

大隈重信の婿養子 大隈信幸

大隈信常は、肥前平戸藩主の松浦詮の5男として生まれました。

東京帝国大学を卒業後、三井物産に入社、31歳のときに大隈重信の養女の光子と結婚し、婿養子として大隈家に入ります。

光子は重信の妻、綾子の兄の子で、重信の養女となっていましたが、実際は重信の実の娘でした。

重信が家の使用人との間に作った子で、世間体や妻との関係もあり、養女という形に落ち着いたようです。

重信の正妻 大隈綾子

大隈家に入った後の信常は、早稲田大学教授、早稲田中学校長などを務めます。

信常の前に校長を務めていた大隈英麿が紳士然として生徒から人気があったのに対し、信常は学校にも軽装の着物で来ており、時には酒臭かったといい、当時の生徒は絶望したとのちに語っています。

信常は政治活動に力を入れ、大隈重信内閣の首相秘書官を務めた後、1915年に衆議院選挙に出馬し当選、1922年に大隈重信が亡くなった後は侯爵を襲爵し、貴族院議員になりました。

重信の後継者として日印協会の会長や、早稲田大学名誉総長にも就任しています。

信常は政治活動に力を入れる一方、6大学野球の名門、早稲田大学の名誉総長という地位もあってか、プロ野球にも深く関わりました。

1934年には現在の読売ジャイアンツにあたる大日本東京野球倶楽部の代表取締役会長に就任しました。

さらに1936年に現在の日本野球機構(NPB)にあたる日本職業野球連盟が発足すると初代総裁に就任しています。

その後も貴族院議員として在任し続けた信常でしたが、終戦後の1947年、75歳で亡くなりました。

早稲田大学の名誉顧問を務めた重信の孫 大隈信幸

大隈信常の死後は、息子の大隈信幸が跡を継いでいます。

大隈重信の孫 大隈信幸

信幸は東京帝国大学を卒業後、日立製作所に入社します。

そして1947年に父の信常が死去した後、侯爵を襲爵し、貴族院議員にも就任します。

しかし日本国憲法施行に伴い貴族院が廃止されたため、約3ヶ月で辞任し、同年行われた参議院議員選挙に立候補し当選しました。

参議院議員も任期満了前に辞職し、外務省に入省、外交官に転身しています。

外交官としては、ウルグアイ公使、コロンビア、ガーナの特命全権大使などを務めています。

外交官の引退後には、大隈家の当主として早稲田大学名誉顧問、早稲田実業名誉校長など早稲田の名誉職につきました。

父が校長などを務めたのに対し、信幸はあくまでも名誉職にとどまっています。

信幸は2004年に亡くなり、早稲田大学大隈講堂にて大学葬が行われました。

明治時代を代表する大政治家の大隈重信。

早稲田大学を作り、教育事業にも力を入れ、近代日本を背負う人材を多数輩出しました。

創立者である重信の死後も、大隈一族は早稲田の発展に貢献し続けたことは、重信にとっても本望だったでしょう。

 

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