皆さんは「徳川家宣」という将軍をご存知ですか?
「先生に覚えなくていいと言われたからスルーした」
「5代綱吉、8代吉宗ならわかるけど。。。」
「まず名前が読めない」
なんて人が多いのではないでしょうか?
学校では深く教えられませんが、実は歴代の徳川将軍の中でも「名君」だったと評価されています。
本記事ではそんな家宣について「そうだったんだ!」思えるようなエピソードを交えて紹介していきます。
長男に生まれたのにまさかの養子に出される!?
徳川家宣は、寛文2年(1662年)4月25日、徳川綱重(5代目将軍綱吉の兄)の長男として生まれました。
この時代、生まれが「長男」か「次男」かによって、扱いは大きく違ってきます。
そんな中、長男というプレミアムチケットを持って生まれた家宣!
順風満帆かと思いきや…
なんと、生まれてすぐに養子に出されてしまいます。
養子に出された理由は、長男として生まれたにもかかわらず、母親の身分が低かったためです。
当時、綱重は正室を娶る前であり、身分の低い26歳の女中・お保良との間に生まれたのが、家宣でした。
結果、世間体を気にし、家臣の新見正信に養子として預けられたのです。
家宣は「新見左近」と名乗り生活を始めますが、
物心がついたとき、実の父母が居ない環境を、幼い家宣はどのように受け止めていたのでしょうか。
(因みに母・お保良は、家宣が生まれて2年後の寛文4年に亡くなっています。)
そしてそれから数年後…
綱重は男子に恵まれないことを理由に、世継ぎとして家宣を呼び戻します。
家督を継承したのに家臣に裏切られる!?
そして家宣17歳の時、父・綱重が亡くなり、家督を正式に継承することになったのでした。
暗い生い立ちで荒んでいくのも自然なような気がしますが、家宣は違いました。
家宣の性格が分かるこんなエピソードがあります。
父・綱重から世子として呼び戻された頃、家臣として新見正信、太田正成、島田時之らが付きます。
その中の新見正信は育ての親であり、養父であったことから家宣の信頼は厚く、関係はゆるぎないものでした。
それに嫉妬した太田正成、島田時之の両人はあろうことか幕府側に対して
「左近(家宣の幼名)は早世しており、新見が自らの子を左近として擁立した!」
と偽って讒訴します。
これ、ちょっと凄くないですか?
要は
「本物の家宣は早くに亡くなっており、新見正信は実の子供を擁立している!」
と、これから家臣として一緒に生活を共にする二人が言ってるという事です。
これを聞いた家宣の心情なんたるや…
しかし!!それが事実無根だと幕府にすぐ見透かされます(当たり前といったら当たり前の話ですが…笑)。
結果、虚偽の報告を行った二人は幕府より切腹を命じられます。
ただでさえ環境が新しく変わり、信頼できる家来が少ない状況でこんなできごとが起きると、普通なら怒りを通り越して悲しくなってしまいますよね。
人間不信になってもおかしくない状況ですが、家宣は意外な行動をとりました。
なんと…
「一時とはいえ、自分のために仕えてくれた家臣を助けてほしい」
と、自分を陥れようとした相手の助命を嘆願したのです。
物心ついた時から母を知らず、父を知らずでいた家宣ですが、人を赦す心を持ち合わせていたのです。
育ての親、新見正信の育て方もありますが、育った環境を憎まず、それ以上に相手を思いやる気持ちを持っていたのです。
結果、二人は切腹を免れ流罪に減刑されました。
このエピソードからも相手を思いやる気持ちに溢れていた少年という事がうかがえます。
また、情に厚く家臣には優しい家宣ではありましたが、不正は一切許しませんでした。
ある日、綱吉から養子として迎えられて江戸城西の丸に入ったとき、下心を持つ諸大名や旗本が賄賂に近い祝い品を持ってきました。
家宣はそれらの品を一切受け取らず、将軍になると人事を一新し、不正を厳しく取り締まりました。
新井白石や多くの学者など人材登用に力を入れていたのは、幼少時代に強いられた環境で人の大切さを知っていたからなのかもしれません。
家宣は時代という大きな固定概念に捉われず、その時々に正しい選択を行うことが出来た数少ない将軍だったのではないでしょうか。
それがのちの綱吉の遺言、いわゆる生類憐みの令を綱吉の死後続けるのか決断する場面にも発揮されることとなります。
生類憐みの令を続けてほしい綱吉…家宣が出した答えとは!?
5代将軍綱吉は、はしかで亡くなるのですが、死の直前に、生類憐れみの令を厳守するよう家宣に遺言を残しこの世を去ります。
家宣は生類憐みの令で世の中がどれだけ疲弊していたのかも知っています。
しかし、徳川家の将軍として、先代の政策を引き継ぐことの重みも感じており、選択を迫られます。
しかし、既に家宣の心は決まっていました。
綱吉の葬儀の二日前、家宣は綱吉の柩の前で側用人にこういったと伝わっています。
「生類憐れみの禁令に触れ罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のためにあえて遺命に背くこととする!!」
もう訳す必要はありませんね。
これは将軍という立ち位置ではなく、常日頃からの家宣の考え方そのままでした。
常日頃から罰する立場にいる人間にこう言い聞かせたてたと言います。
「刑を罰する時もたとえ極悪非道の重罪人であっても、酌量してやる点がないのかは探しなさい。本来重罪人を生まないこと自体が、正しい政治だ。」
意味もなく罪を強いられて苦しんでいる民を家宣は見過ごせなかったのかもしれません。
結果、一部は残す形となりましたが生類憐みの令は廃止となり、民衆は湧きあがりました。
綱吉は死の直前「せめてわしの死後三年は続けるように…」と言い残しましたが、家宣は将軍を継いで3年後に亡くなります。
もしこの言葉そのまま受け入れて続けていたら、世の中の混乱は長く続き、江戸幕府が15代まで続く体力はなくなってたかもしれません。
そういう意味で、この英断をした家宣は「名君」の評価を受けているのだと思います。
そして家宣最期の時…死因はまさかの…
将軍に即位して3年後…家宣は病気で倒れてしまいます。
死因はなんと!インフルエンザだと言われてます。
ここからは私見になりますが、恐らく将軍として栄養価の高い食べ物は充分に取れていたと考えます。
では何が原因だったのか?
考えられるのはやはり「疲労」だったのではないでしょうか?
5代将軍綱吉が没してから負の遺産を色々と整理し、疲労が溜まっていたのかもしれません。
人材登用に力を入れてたことを考えると、財政の立て直しなど色々考えて寝る間も惜しんで対応していたのかもしれません。
聡明で柔軟な家宣がもう少し長く生きれたらそれだけで時代は大きく変わったかもしれません。
家康、家光、綱吉、吉宗と有名な将軍に挟まれて影が薄くなってはいますが、実はそんな将軍にも負けない名君であったのだと私は思うのです。
賄賂が当たり前だった時代に一切受け取らず、自身の境遇を恨まず慈愛の気持ちで人と接していた家宣は恐らく当時では異質ではあったとは思いますが、
強い気持ちで正しい世の中、安寧の世の中を作ろうとしていたのは確かだと思います!