戦国 江戸

広島藩 浅野家のその後 薩長に並ぶ雄藩はなぜ明治以降姿を消した?

広島藩の藩祖 浅野長政

今回は、豊臣政権で五奉行を務め、江戸時代には広島藩の藩主として活躍した浅野家のその後について紹介します。

浅野家は、浅野長政が豊臣秀吉の妻、高台院の縁戚であった関係で、豊臣秀吉の与力として活動し、大名へと出世していくこととなりました。

長政は奉行として豊臣政権の実務を担い、小田原征伐後には甲斐一国21万石を与えられています。

長政の息子の浅野幸長は、武勇にも優れ小田原征伐や朝鮮出兵で活躍し、秀吉死後には武断派の7将の1人として石田三成襲撃にも参加しています。

関ヶ原の戦いにも参陣した幸長は、その功績から紀州和歌山37万石を与えられ、紀州藩浅野家が成立しました。

幕末維新では、薩長と並んで倒幕勢力の中心となるも、一転して存在感をなくしてしまった浅野家。

今回は、江戸時代以降、浅野家はどのような道を辿ったのか、幕末維新の動乱で浅野家の広島藩はどのように立ち回ったのか、紹介していきます。

豊臣一門衆から徳川家の親族へ鞍替え 江戸時代初期の浅野家

浅野長政の子 浅野幸長

浅野幸長は、豊臣秀吉の妻、高台院の甥にあたることから、関ケ原の戦い以降も豊臣家のために活動しています。

豊臣秀頼が徳川家康と二条城で会見した際には、親族として加藤清正とともに警護役を務め、秀頼と家康の対面を実現させるために警備を行いました。

一方、徳川家との縁組も進めており、娘の春姫を尾張藩主となった家康の9男徳川義直と婚約させています。

しかし幸長は1613年に38歳の若さで病死し、弟で備中足守藩主となっていた浅野長晟が跡を継ぎました。

浅野幸長の弟 浅野長晟

やがて徳川家と豊臣家は大坂の陣でついに激突しますが、浅野家は豊臣一門でありながらも、幸長が徳川家との縁を構築していたこともあり、徳川方として参戦します。

大坂の陣では紀伊国に攻め寄せた大阪方の塙団右衛門を討ち取るなどの功績を挙げたものの、豊臣方は浅野家が裏切ったと流言を流すなど、徳川方で参戦したにも関わらず、豊臣家に近い存在であると世間では認識されていました。

家康も、もとは豊臣一門であった浅野家との関係を重視しており、戦後、家康の三女で、蒲生秀行の未亡人となっていた振姫を長晟のもとへ嫁がせました。

振姫は蒲生家に子どもたちを残して36歳の時に浅野家に輿入れ、翌年には長晟との間に浅野光晟をもうけますが、高齢出産であったことから出産の直後に亡くなってしまいました。

振姫の死という悲劇に見舞われながらも、浅野家は徳川家との血縁関係を手に入れ、1619年に安芸広島藩主の福島正則が改易されると、広島藩42万石に加増移封となり、これ以降浅野家は広島藩主として幕末まで続いていくこととなります。

同じ豊臣秀吉の縁戚であった福島正則の福島家、加藤清正の加藤家が改易となり、他にも豊臣恩顧の大名は次々と取り潰されていく中、特に秀吉と深いつながりがあった浅野家が、家康の実の娘を正室に迎え入れ、徳川の縁戚として鞍替えを果たしたのは見事といえるでしょう。

赤穂事件にも巻き込まれ財政難に 江戸時代の浅野家

広島藩の本拠地 広島城

大坂の陣が終わり、徳川政権が安定すると、浅野家は徳川家との関係を深めることに尽力しました。

浅野長晟には庶子として浅野長治がいましたが、長晟は徳川家康の娘の振姫との間に生まれた浅野光晟を後継者にします。

長治は支藩として三次藩を立藩し、本家を支える立場に回りました。

光晟は、正室に加賀藩の前田利常の娘で、徳川秀忠の孫娘にあたる満姫を迎え、徳川家の縁戚としての地位をさらに固めていきます。

光晟の跡は子の浅野綱晟が継ぎ、綱晟は摂政九条道房の娘の愛姫を妻に迎えました。

九条道房は母が豊臣秀吉の養子にもなっていた豊臣秀勝の娘の豊臣完子で、浅野家は徳川、豊臣、前田、摂関家と名家の血を次々とひくこととなります。

綱晟の跡は子の浅野綱長が継ぎました。

綱長の時代に、赤穂浪士の討ち入りで有名な赤穂事件が起きています。

赤穂藩浅野家は藩祖である浅野長政の三男の浅野長重の家系で、広島藩としても無視できない存在でした。

浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介を切りつけ、赤穂藩が改易となると、広島藩では赤穂藩の問題が本家に飛び火するのを恐れ、赤穂藩へ広島藩士を送り込み、穏便に開城するように圧力をかけました。

さらに、大石内蔵助らの討ち入りも阻止すべく、大石側近を説得して盟約から脱会させるなど浪士たちの切り崩しを図っています。

もっとも、討入自体を止めることはできず、赤穂浪士が英雄化すると、態度を一変させて、大石内蔵助の3男の大石大三郎や旧赤穂藩士たちを召し抱えました。

赤穂事件

赤穂事件に関しては保身が目立つ広島藩ですが、支藩の三次藩とともに赤穂藩の抱えていた借金を肩代わりしており、縁戚として面倒事を全て一手に引き受けていたことが分かります。

しかし、広島藩は、赤穂藩の借金肩代わり、そして商品経済の発展により藩財政は苦しくなり、商人からの借金を桁違いに増やしてしまうこととなりました。

これ以降、広島藩は江戸時代を通じて借金に悩まされるようになります。

綱長の跡は、子の浅野吉長が継ぎました。

吉長は厳しい藩財政の中、広島藩の藩校として現在の修道高校にあたる講学所を設立するなど、人材育成に努めます。

吉長は広島藩中興の名君と呼ばれており、江戸七賢人として評判の藩主でもありました。

吉長の時代に、浅野家は幕府から仙台藩伊達家との和解を説得されています。

藩祖の浅野長政は、豊臣秀吉の時代に、伊達政宗と豊臣政権の取次役を務めていましたが、その対応に不満を持った伊達政宗から絶縁状を送りつけられて以来、浅野家と伊達家は絶縁状態となっていました。

仙台藩藩祖 伊達政宗

江戸城内で会っても仲の悪さを見せつける両者を見かねた幕府の林宣篤は、縁戚の加賀前田家尾張徳川家を巻き込んで和解を勧めます。

しかし和解することは先祖への不孝にあたると和解をしぶり、最終的には伊達家の重臣層が強硬に和解に反対したため、ついぞ和解は達成されず、両家の和解が成立したのは280年後の1994年となってしまいました。

吉長の跡は、子の浅野宗恒が跡を継ぎます。

宗恒の時代には凶作や延暦寺の修復普請などで財政はさらに悪化しており、宗恒は能力に応じた家禄の支給など、世襲制を廃止する思い切った改革を断行、悪化の一途を辿っていた藩財政を好転させることに成功します。

宗恒の子の浅野重晟、孫の浅野斉賢も宗恒の改革路線を継承し、絹や油などの製造を推進したため、広島藩の財政は徐々に安定していきました。

浅野斉賢の時代には、広島藩に初めて天然痘のワクチンである種痘がもたらされています。

広島藩からロシアに漂着した久蔵によってもたらされ、久蔵は斉賢に種痘の効果を唱えますが斉賢は信じることができず、広島藩に種痘が広まることはありませんでした。

江戸時代末期、浅野斉賢の子である浅野斉粛の時代になると、相次ぐ飢饉により広島藩の財政は再び悪化し、斉粛が11代将軍徳川家斉の娘を妻に迎えると、将軍の娘の輿入れとあって出費がかさみ、財政は火の車となってしまいました。

こうして財政は悪化しながらも、藩校を整備し殖産興業も推進していた広島藩は、西国の雄藩として幕末の動乱で存在感を発揮することとなります。

薩長と並ぶ倒幕勢力の中心に 幕末の広島藩浅野家

幕末の広島藩主 浅野長勲

浅野斉粛の子である浅野慶熾は、幕末の名君と呼ばれた島津斉彬や山内容堂からも一目置かれるほどの優秀な藩主で、幼少時から聡明で知られていました。

しかし慶熾はわずか21歳の若さで亡くなり、分家出身の浅野長訓が跡を継ぎます。

浅野長訓とその養子の浅野長勲が幕末の広島藩を主導していくこととなります。

浅野長訓は改革派の辻将曹を登用して藩政改革を推進し、洋式軍備も取り入れ、藩の実力を蓄えていきます。

一方、広島藩の隣の長州藩は攘夷を唱え、禁門の変を起こすなど過激な手段を取り、ついに幕府によって長州征伐が行われることとなります。

広島藩は長州藩討伐の前線基地とされ、大軍が入ってきた広島藩内では戦争景気とばかりに財政が潤いました。

しかし浅野家自体は長州征伐には否定的で、幕府と長州藩の仲介に尽力しており、幕府に命じられた先鋒も辞退しています。

第二次長州征伐では、大義がないとして出兵に猛反対し、岡山藩池田家、徳島藩蜂須賀家と連名で幕府に出兵取りやめを進言しています。

幕府はこの進言を無視し、幕府軍を率いる老中の小笠原長行は広島まで兵を進め、さらに藩の出兵反対派である執政2名に対し謹慎を申し付けます。

老中 小笠原長行

これに対し藩士たちは、自分たちの進言を無視し、執政への謹慎処分も行うといった行為に対し怒り狂い、広島に滞在中の小笠原を殺そうと息巻きます。

怒る藩士たちに対し、藩主の世子であった浅野長勲は、家臣たちの暴挙を抑えつけながらも、小笠原に対し国外退去を要求、結果的に幕府軍は広島藩抜きで長州藩と戦闘を開始し、敗北してしまいました。

広島藩は、長州征伐後は幕府を見限り、薩摩藩や土佐藩などとの提携の道を選びます。

早くから大政奉還をすべしと藩論を統一し、土佐藩に先駆けて大政奉還の建白を幕府、朝廷に行いますが、これは無視されてしまいました。

その後も広島藩は薩摩藩と提携し、戦争経験豊富な長州藩を巻き込んで薩長芸軍事同盟を成立させ、倒幕派の中心となります。

幕府との対決を前に、軍事力強化のために神機隊を創設し、近代的な軍隊の養成にも力を注ぎました。

神機隊隊員 高間省三

その後、かつて提携していた土佐藩が、薩摩藩や広島藩を出し抜く形で幕府に大政奉還を建白したことで、将軍徳川慶喜は大政奉還を決定します。

この動きに対し、薩長芸3藩は明治天皇を守るためとして挙兵し京都へ進軍することを決意し、当時朝敵であった長州藩は広島藩兵に偽装され、京都へ進発しました。

この時点では、朝敵であった長州藩は京都に入ることすら許されておらず、広島藩は薩摩藩と並ぶ中心的な立ち位置にいたこととなります。

これら軍事活動は、創設されたばかりの神機隊が中心となって行われています。

そして、薩長芸3藩の兵力を中心に京都が固められ、王政復古の大号令が発せられることとなりました。

その後、薩長は徳川慶喜を挑発し、鳥羽・伏見の戦いへ持ち込もうと画策しますが、広島藩を主導していた辻将曹は非戦論者で、この頃から広島藩と薩長2藩の間には距離ができ始めます。

大政奉還を進めていた辻将曹は、藩兵へ大政奉還がなされた以上、戦うべきではないと、京都離脱命令を出しました。

鳥羽、伏見の戦いが勃発しても、広島藩は薩摩藩と会津藩の私闘であるとし、出陣はしたものの一切戦わず、立場を後退させてしまいます。

これ以降、倒幕の中心は薩摩、長州、土佐の三藩が中心となり、広島藩は不戦を貫いたことから、逆に諸藩からの嘲笑の的となってしまいました。

この状況に対し、広島藩の神機隊は大いに恥じ入り、名誉挽回の機会を求めて、遅れながらも戊辰戦争への参戦を計画します。

しかし、広島藩は財政赤字を理由に出兵を拒否し、これに憤慨した神機隊の隊員たちは自費で戊辰戦争に参戦することを決め、上野戦争や飯能戦争、そして奥州での戦いに従軍します。

神機隊は多数の戦死者を出しながらも奥羽越列藩同盟軍との戦いで活躍し、広島藩の面目を保つこととなりました。

昭和まで生きた最後の大名 明治時代以降の浅野家

最後の大名 浅野長勲

明治時代に入り、浅野長訓は隠居し、浅野長勲が藩主に就任します。

浅野長勲は新政府で参与、議定などを務めますが、すぐに免職となってしまいます。

執政であった辻将曹も、大津県知事などを務めますが、早くに罷免されており、広島藩は明治政府に人材を送り込むことができず、存在感をなくしてしまうこととなりました。

それ以降の浅野長勲は、日本初の洋紙製造工場である有恒社を設立、新聞『日本』や、華族銀行と呼ばれた十五銀行にも出資、十五銀行では頭取も務めるなど、実業界に身を投じるようになります。

有恒社は、洋紙の需要がなく赤字続きで経営は苦しかったものの、近代化により洋紙の需要が増えると確信していた長勲は、粘り強く経営を続け、やがて渋沢栄一が中心になって設立された王子製紙に吸収されることとなりました。

長勲はイタリア公使や貴族院議員も務め、昭和天皇の養育係も務めています。

こうして長州征伐や大政奉還など、幕末維新の動乱を広島藩の指導者として駆け抜けた長勲は、昭和に入っても存命していました。

90歳を越えていた長勲はさすがに第一線は退いていましたが、青年将校が起こしたクーデター事件である二・二六事件では、かつての尊皇攘夷志士で、宮内大臣などを歴任した田中光顕とともに青年将校の助命運動を行っています。

二・二六事件

長勲は、大藩の藩主経験者としては最も長生きで、この頃には最後の大名として注目される存在でした。

長勲は、1937年に94歳で亡くなりました。

長勲の跡は、分家出身の浅野長之が継ぐも、長之も高齢であったことから、子の浅野長武が浅野家を継ぎました。

浅野長武

浅野長武は貴族院議員を務める傍ら、美術史家としても活躍し、国立近代美術館などの評議員を務め、戦後には東京国立博物館の館長を務めています。

また、秋篠宮文仁親王の浴湯の儀において、加賀前田家の前田利建とともに鳴弦の儀を執り行うなど、武家の末裔としての活動も行っています。

長武の跡は、教育者として学習院高等科の教諭などを務めた浅野長愛が継ぎ、現在は、かつての広島藩藩校にゆかりを持つ、学校法人修道学園名誉学園長を務める浅野長孝氏が当主を務め、浅野家の血を現代に伝えています。

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