出来事解説

本能寺の変とは|明智光秀が謀反を起こした理由、黒幕は誰か、わかりやすく整理しました

明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったの?

本能寺の変の当時、周辺はどういう状況だったの?

本能寺の変の黒幕は誰?豊臣秀吉?徳川家康?

『日本史上最大の裏切り』とも呼ばれる本能寺の変

この記事では、本能寺の変が起きるまでの経緯、光秀が裏切った原因とその後の各地への影響を整理しました。

本能寺の変とはどういう事件だったのか?

本能寺の変とは、天正10年(1582年)6月2日早朝、京都の本能寺に宿泊していた織田信長を、家臣の明智光秀が謀反を起こし、襲撃した事件です。

織田信長の手勢はわずか30人あまり、13,000人の明智軍に囲まれた信長は寺に火を放ち自 害。嫡男である織田信忠も二条城を包囲され自害し、織田政権の主要人物が一挙に失われる事件となりました。

本能寺の変に至るまでの流れ

天正10年(1582年)に信長は甲斐武田家を滅ぼし(甲州征伐)、功績のあった徳川家康らを安土 城にてもてなしていました。

そこに、中国地方の毛利家と戦闘中の羽柴秀吉(豊臣秀吉)から援軍の要請が舞い込みました。

信長は自ら出陣し、一気に毛利家を滅ぼすことを決意します。そこで、明智光秀に先陣を任命、先に中国地方に攻め込むことを命令したのです。

領国に戻り、13,000人の軍勢を整えた光秀は中国地方へ向かうべきところを、突如反転し京都へ進軍、本能寺の変を起こします。

本能寺の変直前の年表

5月14日 安土にて徳川家康を饗応。明智光秀は饗応役を務める。
5月17日 光秀に中国攻めの命令が下る。光秀は居城の坂本城へ戻る。
5月21日 徳川家康が上洛。織田信忠も上洛し、妙覚寺に滞在。
5月26日 明智光秀が坂本城を出発。丹波亀山城に入る。
5月27日 明智光秀が愛宕権現に参拝。
5月28日 明智光秀、愛宕山内で連歌の会を開催。
5月29日 織田信長が安土から上洛
6月1日 近衛前久、勧修寺晴豊ら公卿、僧侶ら約40名を招き、本能寺で茶会を開 く。織田信忠が本能寺を訪れ信長と面会
6月2日 本能寺の変

本能寺の変直前の織田家各方面軍の状況

武田家を滅ぼした後の織田家は主に織田信忠、柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、織田信孝、明智光秀の6方面軍に分かれ、敵対勢力に対し各局面を展開していました。

以下は本能寺の変直前の各方面軍の状況をまとめた表です。

方面軍 主将 勢力範囲 本能寺の変直前の状況
織田信忠軍 織田信忠 尾張 美濃 甲斐 信濃
主力は武田氏残党の処理、占領地支配を進める。織田信忠は安土城へ移
動し、家康饗応にも同席。
中国方面軍 羽柴秀吉 播磨 但馬 因幡 淡路 備前 美作 伯耆 1582年4月から、毛利側の清水宗治が籠もる備中高松城を包囲
北陸方面軍 柴田勝家 越前 加賀 能登 越中 1582年3月から、越中に残る上杉方の魚津城、松倉城を包囲。落城目前 まで迫る。
関東方面軍 滝川一益 上野 信濃 上野、下野、北武蔵、信濃の新参の諸勢力を掌握することを急務として いた。
四国方面軍 織田信孝 伊勢 若狭 阿波 三好康長が1582年2月に四国へ先発。5月27日に信孝は摂津住吉に着陣 。岸和田に兵や物資を集めていた。
機内方面軍 明智光秀 丹波 丹後 大和 摂津 1582年3月の甲州征伐に従軍後、5月に安土城で家康の饗応役を務める 。その後信長より毛利討伐を命じられた。

以上のように、本能寺の変直前には、敵対勢力と接しておらず、フリーハンドとなっているのは明智光秀のみという状況でした。

こうして中央に出来上がった隙間を縫って、明智光秀は本能寺の変を起こすことになります。

明智光秀が謀反を起こした原因

明智光秀が謀反を起こした原因には怨恨説、野望説、不安説があります。

怨恨説

怨恨説は、現代でいうところの信長からパワハラを受けていた光秀が、積もった鬱憤を爆発させたという説です。謀反の目的が信長の殺害にあり、その後に権力を握るつもりはなかったと みなします。

具体的な逸話は以下の3つになります。

光秀が信長に恨みを抱いた3つの出来事

1丹波八上城攻めで実母を見殺しにされた
2甲州征伐で諸将の面前で辱めを受けた
3徳川家康の饗応で肴が腐っているとして家康の目の前で折檻を受けた

以上の逸話は後世の創作である可能性が高く、史実であると断定はできません。

しかし、宣教師ルイス・フロイスの記録に信長が激情しやすい性格であること、光秀が信長に足蹴にされたなどの記述があり、実際にこうした出来事があったのかもしれません。

野望説

野望説は天下を取る野望を持っていた光秀が信長を倒し、自ら天下人になろうとした とする説です。

光秀が本能寺の変直前に開いた連歌会では『ときは今 天が下知る 五月哉』と発句を詠みました。

「とき」は土岐氏の流れを組む光秀、「天が下知る」は天下を取る意思と解釈され、光秀野望説の根拠となっています。

しかし、光秀は事前の根回しや準備をしておらず、このことから野望説には問題があるとされています。

不安説

不安説は、以下に挙げる光秀の立場の変化を不安に感じ、謀反に至ったとする説です。

光秀が募らせた3つの不安

1取次を務めていた長宗我部家が織田家の討伐対象になった

2秀吉の配下になる可能性を感じた

3領地没収、新領地は自力で切り取らなければいけなくなった

光秀は織田家と長宗我部家の取次を務めており、家老の斎藤利三は長宗我部元親と縁戚であるなど深い関係を築いていました。

そんな長宗我部家が討伐対象となり、光秀の長宗我部家を利用した四国政策は瓦解、さらに四国征伐の軍からも外されるなど、光秀の織田家臣団での地位は急速に低下していました。

そのような状況での秀吉率いる中国戦線への援軍としての派遣、さらに出雲、石見を自力で切 り取ることを求められ、将来への不安を感じたとされています。

織田家では、林秀貞、佐久間信盛など古くからの重臣でも追放されている過去があり、光秀が 将来への不安を感じても不思議ではないでしょう。

本能寺の変当日の推移

丹波亀山城を13,000人の兵で出陣した光秀は6月2日早朝に本能寺を取り囲みます。

明智軍に本能寺が包囲されているのを見た信長は「是非に及ばず」と吐き捨て、近習である森蘭丸ら部下30人とともに防戦に努めます。

信長らは2時間あまり抵抗しましたが、圧倒的な兵力差には敵わず、女中衆を避難させた上 で、寺に火をかけ自害して果てました。

同時刻、異変に気づいた織田信忠は1500の兵を集め、信長に合流しようとしましたが、明智勢に阻まれ、二条御所に立て籠もります。

信忠は、二条御所にいた正親町天皇の子である誠仁親王を逃した後、明智軍と戦い、明智軍を 三度まで押し戻す奮戦ぶりを見せます。

しかし次第に形成は明智軍有利に傾き、信忠も父信長同様、御所に火をかけ、自害して果てま した。

信長、信忠親子の遺体は焼け跡からは見つからず、信長を討ち果たしたことを証明できなかった光秀はその後の味方集めに失敗し、山崎の戦いでの敗戦を迎えることになります。

本能寺の変が周辺大名に与えた影響は?

当時織田家と敵対関係にあった大名家は毛利家、上杉家、長宗我部家の3家です。また関東の北条家も織田家と直接領土を接していました。

毛利家に与えた影響

毛利家は本能寺の変の情報をいち早く察知した羽柴秀吉との間で和睦を結び、備中高松城を開城します。

その後本能寺の変の情報を手にしますが、長年の織田家との戦いに疲弊した領国を立て直すの に精一杯で、秀吉を追撃する余力は残っていませんでした。

山崎の合戦後、柴田勝家、徳川家康ら各地に敵を抱えた秀吉による侵攻はなくなり、毛利家は 正式に秀吉との講和の道を模索することになります。

上杉家に与えた影響

上杉家は本能寺の変当時、越中方面から柴田勝家、信濃から森長可、上野から滝川一益、そして越後国内で家臣の新発田重家の反乱と4方面に敵を抱え、滅亡寸前まで追い込まれていまし た。

しかし本能寺の変で織田家が撤退したことで窮地を脱し、空白地帯となった信濃、上野への出 兵を行い北条、徳川家と争いを繰り広げることとなります(天正壬午の乱)

長宗我部家に与えた影響

本能寺の変によって、織田家の四国征伐軍は瓦解し、四国征伐も中止となります。

織田家からの圧力がなくなった長宗我部家は、織田家の支援を受けていた阿波の三好氏、讃岐の十河氏などに攻勢をかけ、四国統一へ向かって領国を急拡大させていくことになります。

北条家に与えた影響

北条家は天正8年(1580年)にすでに織田家と同盟を結び、事実上織田家の傘下に入っていまし た。

北条家は織田家の甲州征伐に際して、共同で出兵する手はずとなっていましたが、北条家は駿河国東部の戸倉城を落とした後動きませんでした。

この消極的姿勢が信長の怒りを買い、武田家滅亡後の論功行賞では、北条家に恩賞は一切ありませんでした。

これに焦った北条家は立て続けに信長に対し贈り物をしますが、信長は気に入らないとしてすべて送り返しています。

こうして織田家と北条家の関係は急速に悪化していた最中に、本能寺の変は起こったのでし た。

もともと関東支配を目指していた北条家にとって上野国を支配する織田家は目障りな存在で す。本能寺の変の10日後には領国に動員令を発し、上野国へ侵攻。滝川一益神流川の戦いで破り、天正壬午の乱へと突き進んでいきます。

本能寺の変の黒幕は?

本能寺の変には明智光秀の協力者がいるという説が跡を絶ちません。以下に挙げる説が有力な ものですが、どれも証拠に欠けており、推測の域を出ません。

黒幕を疑われている4つの勢力

朝廷黒幕説

足利義昭黒幕説

羽柴秀吉黒幕説

徳川家康黒幕説

朝廷黒幕説

信長は朝廷に対し、征夷大将軍、太政大臣、関白の位を要求、また、自らの猶子としていた正親町天皇の子である誠仁親王を皇位につけ朝廷を傀儡化しようとしており、それに公家衆が反 発したという説です。

光秀が信長を討った5日後の6月7日、誠仁親王からの勅使で京都の治安維持を任されている、その後朝廷に参内し金品を贈っていることが理由に挙げられます。

また、近衛前久が本能寺の変後、嵯峨に隠れており、織田信孝が追討令を出して行方を捜索していたことから朝廷内の人物が光秀と繋がって、本能寺の変を引き起こしたとされています。

足利義昭黒幕説

毛利家の庇護下にあった足利義昭が復権を狙い、旧臣である光秀に信長を倒すように命令したとする説です。

明智光秀が本能寺の変直前に上杉景勝に送った使者が、景勝より身分の高い人物への協力を促しており、同様の書状が紀伊雑賀衆などにも送られていることが根拠に挙げられます。

しかし足利義昭が黒幕ならば毛利家も協力し連絡ルートを整備するはずであり、光秀の使者が秀吉陣営に迷い込むといった不手際を起こすはずがないという批判もあります。

羽柴秀吉黒幕説

本能寺の変後の行動の手際が良すぎる、必要のない援軍要請を信長に行い光秀が兵を集めるきっかけを作っているなどの理由から唱えられている説です。

徳川家康黒幕説

信長が家康潰しの計画を立て、光秀に実行を命じたものの、光秀は信長を裏切り家康と共謀したという説です。

また、のちに家康の顧問となる南光坊天海が明智光秀であるという説から、本能寺の変で協力した同志であると推測したものです。

【参考文献】 谷口克広『信長軍の司令官』(中央公論新社、2005年) 小和田哲男『明智光秀と本能寺の変』(PHP文庫 2014年) 橋場日月『本能寺の変を紐解く二四の資料を徹底検証』(学研 2014年)

 

 

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