浅野長政は五奉行筆頭として豊臣秀吉を支えた官僚武将です。
秀吉の親戚として長きにわたって政権を支えながらも、どこか影の薄い浅野長政。
実は官僚としての能力だけでなく、武将としての能力にも優れ、秀吉の天下統一に大きく貢献したすごい武将なのです。
本記事では五奉行としての実績以外にあまり目にすることのない、浅野長政の生涯を詳しく解説していきます。
以下は浅野長政の年表になります。
天文16年(1547年) 0歳 | 尾張国で生まれる |
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天正元年(1573年) 34才 | 近江北郡にて120石を加増される |
天正9年(1581年) 43才 | 播磨国揖東郡にて5600石を与えられる |
天正15年(1587年) 49才 | 若狭国一国を与えられれ、小浜城主になる |
文禄2年(1591年) 53才 | 甲斐一国を与えられる |
慶長5年(1600年) 62才 | 関ヶ原の戦い 子浅野幸長は紀伊一国 自身は常陸真壁5万石を与えら れる。 |
慶長16年(1611年) 73才 | 下野国塩原温泉にて死去 |
浅野長政は晩年の名乗りであり、「浅野長吉」の名であった時代のほうが長いですが、本記事では便宜上「浅野長政」で呼称を統一します。
出生 妻の縁で秀吉と義兄弟に!
浅野長政は天文16年(1547年)に尾張国で生まれました。
父親は安井重継、母親は浅野長詮の娘とされています。
幼いころに叔父にあたる浅野又右衛門長勝の養子となります。
長勝は、織田信長のもとで弓衆として仕えており、長政も養父のもとで弓衆として織田家に仕えました。
同時期に、長勝の養女であったやや(長生院)と結婚しています。
以下は浅野長政の系図になります。
ややは豊臣秀吉の正室であるねね(高台院)の姉にあたり、長政と豊臣秀吉は義兄弟の関係にあたります。
当時、草履取りから段々と頭角を表しつつあった豊臣秀吉が永禄4年(1561年)にねねと結婚します。
秀吉は成り上がり者で家臣のいなかったため、織田信長の命令で浅野長政は秀吉の家臣として仕えることになりました。
この後、長政は秀吉の家臣として、美濃攻略、小谷城攻めなど秀吉の主要な戦いに参加していくことになります。
秀吉の家臣として各地を転戦
天正元年(1573年)、長政は浅井長政の籠もる小谷城攻めに参加しています。
この戦いで戦功を挙げ、120石を加増されています。
さらに、秀吉が旧浅井領を与えられ長浜城主になるとさらに120石を加増されています。
浅井攻めの後は、長政はしばらく戦に出ることは少なくなり、秀吉出陣のたびに長浜城の留守居役を務めています。
長政は秀吉領の内政に従事していたとされ、のちに五奉行として活躍する長政の官僚としての能力はこの時期に磨かれていきました。
天正5年(1577年)には織田信長の新居城である安土城の普請に参加しています。
しかし、秀吉が毛利家の中国攻略を命じられ、中国地方に出陣したことから、長政もこれに従い従軍しています。
秀吉は天正5年(1577年)10月に安土を発していますが、長政は9月はじめ頃より秀吉から鉄砲 など武具の調達を命じられており、出陣の準備にあたっていました。
同年11月に秀吉軍は播磨佐用城、上月城を攻め落としており、長政もこの戦いに加わっています。
天正6年(1578年)には、秀吉は別所長治の籠もる三木城を攻めています。
長政も三木城攻めに連動して加古川へ進み、加古川の野口城攻めを行い、城主長井四郎左衛門を降伏させています。 降伏の際、長政が同城を受け取っています。
こうして、内政だけでなく合戦でも活躍した長政は天正7年(1579年)に近江国内で300石を加増されています。
同年には、毛利家による三木城への兵糧搬入阻止を目的とした和泉国淡輪城攻め、平田城の戦いに長政も参加します。
この後も、長政は三木城攻めにおいて秀吉から兵糧搬入の阻止を命じられており、天正8年 (1580年)の三木城落城まで兵糧輸送ルートの遮断に従事していました。
三木城落城後、毛利家の小早川隆景は、織田方であった宇喜多直家の弟である宇喜多忠家の籠もる備前国児島の蜂浜城を攻撃します。
長政は忠家救援の総大将として備前に出陣し、小早川軍に勝利し、同年に播磨国内で4600石の大幅な加増を受けています。
天正9年には、秀吉の新たな本拠地となった姫路城の普請に携わっています。
同年6月には吉川経家の籠もる鳥取城攻めに参陣し、黒田官兵衛、蜂須賀小六らとともに主力 として包囲にあたっています。
鳥取城は秀吉の兵糧攻めにより4ヶ月の籠城ののち、城主吉川経家の切腹を条件に降伏する道 を選びます。
この時城方は長政の陣に使者を送り、降伏の仲介を依頼しています。
このことからも、長政は秀吉側の有力武将の一人として認識されていたことがわかります。
鳥取城落城後は、姫路城の留守居役を命じられ、備中高松城攻めなどには参加していません。
秀吉の天下統一 官僚としての活躍
天正10年(1582年)の本能寺の変当時、長政は姫路城に滞在していました。
秀吉による中国大返しが行われると、長政は姫路城までの道を整備、戦の準備をして秀吉を姫路城に迎え入れました。
長政の周到な準備により態勢を立て直した秀吉は、姫路を出立し、明智光秀を山崎の戦いで打ち破ります。
その後は新たに秀吉の本拠地となった山城国山崎城で奉行として検地の実施にあたっています。
同時期に杉原家次とともに京都奉行に任じられ、京都の治安維持にもあたっています。
山崎の戦い後の長政は、秀吉の側近官僚として世間に認知されており、 本願寺が長政に取次を依頼するなど、官僚としての道を着々と歩んでいました。
天正11年(1583年)、柴田勝家、織田信孝、滝川一益ら反秀吉勢力との戦いでは、秀吉に従い各地を転戦しています。
賤ヶ岳の戦い、岐阜城攻めでは秀吉の本陣にいて秀吉と行動をともにしていることから特別戦功を挙げることはありませんでした。
柴田勝家の居城北ノ庄城落城後は、秀吉の加賀侵攻には帯同せず、京都奉行として、柴田勝家の息子権六、佐久間盛政の首を六条河原に晒しています。
一連の功績により、天正11年(1583年)8月には近江国甲賀郡にて2万300石の大名として取り立てられています。
同年12月には近江坂本城主であり、長政とともに京都奉行を務めていた杉原家次が発狂、死亡する出来事が起こり、長政が坂本城主も兼ねることになりました。
天正12年(1584年)には、小牧長久手の戦いに従軍し、徳川家康、織田信雄と戦っています。
長政は官僚として秀吉に先立ち伊勢に赴き、兵糧の調達にあたっています。
その後は、秀吉の本陣に属し、池田恒興、森長可らが家康に奇襲を見抜かれ討ち死にした長久手の戦いでは、池田勢の救援に駆けつけています。
戦線膠着後は、美濃の加賀井城、竹鼻城攻めに参加し、秀吉の帰京にともない京都に引き上げました。
小牧長久手の戦いの後、秀吉は紀州征伐を計画します。
この時、本願寺の顕如は秀吉と協力関係にあり、取次を務めていた長政を通じて、根来、雑賀の一向宗門徒に帰順を呼びかけています。
そして、翌年天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、秀吉の養子の羽柴秀次とともに和泉国 岸和田の仙石堀城を攻撃しています。
その後は秀吉の本陣にあり、雑賀衆の降伏後も紀州に残り、戦後処理にあたっています。
同年8月には7200石を加増され、領地は3万石に達しました。
天正14年(1586年)頃からは、長政は徳川家康との交渉担当となり、秀吉の妹である朝日姫の家康への輿入れ、母である大政所の下向、家康自身の上洛の手続きについて交渉しています。
家康の上洛後も、長政は饗応役を務めるなど、家康と親密な関係を築いていくことになります。
天正15年(1587年)には秀吉の九州征伐に従い、長政も九州に出陣しています。
長政は肥前国の龍造寺政家、鍋島直茂、筑後国の立花宗茂の取次を務めており、九州の諸大名 と秀吉をつなぐ重要な役割を担っています。
九州では秀吉の本陣にあり、豊前、筑前、筑後、肥後と進軍し、その後は前田利長、龍造寺政家とともに大隅方面へと進出しました。
島津義久降伏後も長政は戦後処理を秀吉に命じられ、取次を務めている龍造寺政家、立花宗茂と行動をともにしています。
肥前では秀吉によって改易された深堀純賢の処理などを担当しています。
こうして奉行として活躍を続けた長政は、天正15年(1587年)9月に 丹羽長重改易の跡を受けて、若狭一国8万石の国持大名となります。
その後の長政はしばらく戦場に赴くことはなくなり、石田三成、増田長盛ら後の五奉行の面々とともに、肥後国人一揆の鎮圧などの指示を大坂から発しています。
天正17年(1589年)には陸奥国の南部信直の取次を務め、伊達政宗との上洛交渉も担当するなど、奥州方面の諸大名への対応を主に行っています。
豊臣政権の奥州担当に
天正18年(1590年)、秀吉は後北条氏の小田原城を攻撃します。
長政も小田原に出陣し、玉縄城、江戸城の開城に立ち会っています。
その後は徳川家康の家臣本多忠勝とともに北関東に進み、松井田城、土気城、東金城を開城させ、さらに岩付城、鉢形城攻めに加わっています。
小田原攻めと同時期に、長政は伊達政宗の小田原参陣の交渉も行っており、6月には伊達政宗と豊臣秀吉の会見を実現させています。
政宗参陣後は、石田三成に代わって、忍城攻めに携わり、小田原城落城後は、奥州仕置のためにそのまま奥州に向かいました。
一旦は奥州仕置を終え帰京していますが、葛西大崎一揆の勃発により再度奥州に戻り、蒲生氏郷、伊達政宗らとともに鎮圧に乗り出しています。
長政は奥州で越年し、天正19年(1591年)も引き続き奥州の処理に携わっています。
この間に、徳川家康と連携し、関係の悪化していた蒲生氏郷と伊達政宗を上洛させ、伊達政宗を岩出山に減封するなどの処理を行いました。
同年7月には羽柴秀次、井伊直政らを加え、大軍をもって葛西大崎一揆を制圧、続いて9月には最後まで抵抗を続けていた九戸政実の籠もる九戸城を落城させ、奥州仕置を完成させました。
朝鮮出兵 五奉行筆頭として
文禄元年(1592年)に秀吉は朝鮮出兵を開始し、長政も秀吉とともに肥前名護屋城に在陣して います。
同年6月に肥後で起こった梅北一揆鎮圧のために、嫡子の浅野幸長とともに肥後に赴き、戦後処理などを行っています。
文禄2年(1593年)には、渡海軍の城米奉行として、嫡子幸長とともに朝鮮半島に上陸し、蔚 山、梁山など朝鮮半島南部で活動しており、6月には細川忠興らとともに晋州城の戦いにも参加しました。
長政は8月までには帰国しており、9月には加藤光泰の跡を受けて、甲斐一国22万石の領主に加増されています。
長政は甲斐国拝領後も京都にいることが多く、嫡子の幸長が甲斐国の内政を担当していました。
文禄4年の2月には会津の大名であった蒲生氏郷が死去し、嫡子の蒲生秀行が跡を継ぎますが、 12歳と若く会津92万石の差配は困難であることから、長政自身が会津に赴き、会津領内の整備を行っています。
この時、支配の効率化のために、会津領内の城を会津若松城と支城7城に削減するなどの処理を行っています。
しかし同年7月には秀次事件が起こり、豊臣秀次が高野山に追放された後、切腹する事件が起こります。
長政はこの事件に連座して出頭が命じられた伊達政宗とともに上洛し、その後は京都に留まっています。
しかし、嫡子の浅野幸長が秀次を弁護したことで秀吉の怒りを買い、所領召し上げの上、能登国に配流となってしまいます。
長政自身は罪を問われず、甲斐国の所領も引き続き安堵されたものの、奥州を中心に取次とし て豊臣政権内で大きな発言力を持っていた長政の政治的な影響力は縮小されてしまいます。
一方で、同年12月には徳川家康邸で碁を打っている記録が残っており、慶長元年(1596年)には家康邸での茶会に参加するなど、この頃には家康とかなり親密な関係にありました。
慶長元年(1596年)の慶長伏見大地震では、いち早く伏見城の秀吉のもとに駆けつけたことで秀吉の勘気も解け、幸長の蟄居処分が解除となります。
しかし、同年8月にはかねてより確執のあった伊達政宗より絶縁状を突きつけられてしまいます。
さらに、11月には与力であった宇都宮国綱が改易処分になってしまいます。
宇都宮国綱の改易については、長政の三男である浅野長重を宇都宮氏に養子に出そうとしてい たところを、宇都宮国綱の弟である芳賀高武が猛反対し縁組を進めていた国綱の側近を殺害、これに怒った長政が宇都宮氏改易を主導したと言われています。
こうして、長政は次第に豊臣政権内での奉行としての地位を石田三成や増田長盛など若手官僚武将に取られていってしまいます。
慶長3年(1598年)には正式に五奉行の一人として任命され、三成らの台頭を許しつつあったも のの、五奉行筆頭として死の床にあった秀吉から後事を託されています 。
8月の秀吉死去の後は、五奉行として朝鮮との和議交渉にあたります。
9月には、減封となった小早川秀秋の筑前名島領の管理、および朝鮮在陣の諸将の帰国のため に石田三成とともに筑前国に赴き、全ての諸将が帰国を果たすまで九州に在陣しています。
家康暗殺未遂の犯人に? 関ヶ原の戦い
九州での仕事を終えた長政は、慶長4年(1599年)には大阪に戻っており、朝鮮出兵の論功行賞を行い、島津家久などへ加増をしています。
武断派、文治派の対立では、長政はどちらにも与しなかったものの、嫡男の浅野幸長は武断派の一員として石田三成襲撃事件を引き起こしています。
長政自身も、石田三成とは不仲であり、かねてより家康と親しかったこともあり家康寄りの姿勢を見せています。
こうした情勢下、同じ五奉行の増田長盛らが長政が前田利長らと家康を暗殺しようとしたと讒言したことから、長政は家督を幸長に譲り家康の領国である武蔵国府中に隠居しました。
前田利長、長政らが家康暗殺を本当に企てていたかどうかはわかりません。しかしこの事件以降、長政をはじめ浅野家は完全に徳川方としての旗色を鮮明にすることになりました。
こうして長政は武蔵国で慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いを迎えることになります。
浅野家は幸長が東軍本隊として関ヶ原本戦を戦いますが、長政は家康から徳川秀忠の軍師役を任され、中山道を進む秀忠隊の一員として真田氏の上田城攻めなどに参加しました。
関ヶ原の戦いでは親子揃って戦功を挙げたことで、戦後、 幸長は紀伊和歌山37万石へ加増移封されます。
常陸真壁5万石の藩主に
長政は関ヶ原の戦い後は主に伏見を拠点に活動しており、慶長10年(1605年)まで秀吉を祀った豊国社で行われる豊国祭に参列するなど、豊臣家臣としての活動を行っています。
同年5月には伏見から江戸に下向する徳川秀忠に従い江戸に向かいました。
慶長11年(1606年)には秀忠より常陸真壁5万石が隠居料として与えられており、この頃より 正式に豊臣家から徳川家へと活動の場を移しています。
これ以降の長政は表立った活動は行っていません。
しかし、家康とは定期的に碁を打つなど、独自の立場で浅野家と徳川家の関係を取り持っていました。
しかし、決して家康のご機嫌取りばかりをしていたわけではなく、碁では臆することなく勝負 を争い、家康の囲碁師である本因坊算砂の助言を指摘してなじるなど、礼を失することもしばしばだったようです。
こうした力関係の違いに左右されず、自分を貫く姿勢が家康にも評価されたのでしょう。
慶長13年(1608年)には、家康の9男徳川義直と幸長の娘の婚姻が実現し、長政は幸長とともに駿府の家康の元を訪れています。
長政の活躍もあり、浅野家では三男の浅野長重が慶長6年(1601年)に下野真岡に2万石、次男浅野長晟も慶長15年(1610年)に備中足守2万4千石を与えられるなど、それぞれ独立した大名 として取り立てられ厚遇されています。
晩年の長政は大名に取り立てられた次男長晟、三男長重の行く末を気遣い、息子たちの教導に腐心していたようです。
次男の長晟へ宛てられた長文の書状が残っており、長年親元へ借金をする長晟を厳しく叱責し、長男である幸長を見習うように激励した文章になっています。
慶長16年(1611年)に、長政は下野国の塩原温泉に湯治にでかけ、滞在中に体調を崩し、4月7 日に他界しました。
最後に
豊臣秀吉の一門衆として活躍しながらも、いち早く徳川家康に近づき徳川大名として転身を果 たした浅野長政。
長政には風向きや力関係に左右されることなく、是非の筋を通し、職務をまっとうする頑固さが随所に見て取れます。
そのせいか、伊達政宗や石田三成とは不和になってしまっていますが、こうした姿勢が秀吉、 家康ら天下人に認められたからこそ浅野家が幕末まで繁栄する礎を築けたのでしょう。
嫡男浅野幸長の死後は、次男の長晟が家督を継ぎ、後に安芸広島藩へ移封となり、明治時代には侯爵となっています。
三男の長重の家系は、その後播磨国赤穂藩に転封となり、長重の曾孫には赤穂事件で有名な浅野長矩がいます。
織田信長の弓衆の一人でしかなかった浅野長政が、秀吉の親戚という立場を最大限に利用し、 西国の大大名にまで上り詰める。
浅野長政もまた立身出世の典型例であったのかもしれません。
参考文献
国史大辞典編集委員会『国史大辞典』(吉川弘文館 昭和63年)
藤井譲治『織豊期主要人物居所集成』(思文閣出版 平成23年) 別冊歴史読本31号『辞典にのらない戦国武将の死の瞬間』(新人物往来社 平成18年)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館 平成7年)
[…] 豊臣政権で五奉行を務めた浅野長政の三男、浅野長重に始まり、息子の浅野長直の代に赤穂に転封され、赤穂藩浅野家は成立しました。 […]
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