偉人解説

源義経vs源頼朝 日本中を巻き込んだ兄弟喧嘩を分かりやすく解説します!

平安時代末期に日本中を騒がせ、歴史のターニングポイントとも言える兄弟喧嘩がありました。

その兄弟喧嘩の主役は言わずと知れたこのお二人。

源氏の大将「源頼朝

頼朝の弟「源義経

平家討伐に向けて共に戦った二人が何故ここまでいがみ合うようになったのか?

その理由を、時系列に沿って解説していきます!

頼朝は義経の源平合戦への参戦を手放しで喜べなかった!?

頼朝と義経の出会いは「富士川の合戦」の後です。

富士川の合戦とは、1180年に起きた源氏と平氏の合戦の1つです。

この時、義経はまだ戦に参加しておらず、藤原秀衡の治める奥州平泉にて鍛錬を積んでいました。

そんな折、頼朝が平家討伐の為に挙兵をしたと聞き、自分も平家との戦いに参加しようと駆けつけた義経。

それまで義経は平泉にいましたから、頼朝とは初対面です。

ドラマや物語ではこの時を感動の対面のように語っていますが、本当にそうだったのでしょうか?

正直、頼朝にとってはかなり厄介な対面だったのではないでしょうか。

なぜなら、2人とも「源氏の棟梁になる正当性」を持っていたからです。

というのも、頼朝の父「源義朝」の正室である「由良御前」が亡くなった事で

側室である義経の母「常盤御前」が実質的な正室の立場になっていたからです。

自身をトップとした源氏の再興を目論む頼朝が、突如現れた自分の地位を脅かすような人間に対し、弟よ、共に戦い源氏を再興させようじゃないか!」などとは思えなかったのではないでしょうか?

源氏のスーパースター義経!頼朝は嫉妬していた!?

前述のとおり、平泉で武者修行をしていた義経は、源平合戦まで戦を経験したことがありませんでした。

その義経が一ノ谷、屋島、そして壇ノ浦と次々と勝利を収め、平家を滅亡に追いやります。

義経の京での人気は凄まじかったようです。

頼朝がその人気に嫉妬していたと語られる事がありますが、頼朝が抱いたのは「嫉妬心」ではなく、「不信感」だったのではないでしょうか?

というのも、義経の戦い方は奇襲ばかりで、味方からも批判の多い戦い方でした。

しかし、京で育ち、実践経験が浅く、戦いの作法を知らなかったことなどから、個人的には仕方がなかったのでは?と思います。

また、他の武士に対して横柄な態度であったことも、頼朝は気に入らなかったといわれています。

頼朝にとって義経は、弟といえど一家来に過ぎなかったはずです。

しかし、義経はどこか「大将の弟だから」という気持ちがあったのかもしれません。

決定的に不信感を抱かせたのは、朝廷から勝手に官位を受け取ったことでしょう。

当時、頼朝は、配下の武士たちが自分の許可なく朝廷から官位を受けることを禁じていました。

そのルールに反し、義経は戦いでの勝利を頼朝に報告せず京にのぼり、朝廷から勝手に官位を受けたのです。

しかも「検非違使」というトップの役職を…

これには頼朝も激怒しました。

義経の検非違使任官が、頼朝が義経に抱いていた「不信感」が「敵対心」に変わった瞬間だったのではないでしょうか。

ではなぜ、「朝廷から官位をもらうこと」がそこまで頼朝を激怒させたのでしょう?

次の項で説明していきます。

目指す世の中の違い!義経は貴族になりたかった!?

頼朝と義経の決定的な違いは「目指す世の中の違い」です。

義経は、平家全盛のころの世の中に憧れを持っていたのではないかと思います。

義経はずっと京で暮らしていましたから、華やかな貴族を見て育ちました。

合戦に勝利し、今度は源氏が貴族のような華やかな暮らしをするのが、義経にとっての正義だったのではないでしょうか。

ですから、朝廷から官位を受けた事も悪気があったわけではないと思います。

兄上もきっと喜んでくれるはず…!」と思ったのではないでしょうか。

対する頼朝は違います。

彼はこれまでの世の中とは全く別の政治体制を作ろうとしていました。

つまり、朝廷や貴族に代わり「武士が中心となって政治を行う世の中」です。

義経が朝廷から官位をもらうということは、「義経が朝廷側に付く」という意味だったのでしょう。

兄弟喧嘩の激化!もはや修復不可能!?

平家との戦いでは、義経の圧倒的な戦闘力が必要でした。

むしろ義経がいなかったら勝利していなかったのではないでしょうか。

しかし、平家を倒した後は頼朝にとって義経は完全に邪魔な存在になりました。

ついに、頼朝は義経に鎌倉へ入ることを禁じ、家来に対し義経討伐の命令を出します。

義経の館には頼朝の家来が押し寄せ、義経を襲撃します。

しかし、義経はこれを撃退。

この出来事を機に、義経は頼朝と戦うことを決心します。

義経が向かった先は、朝廷の後白河法皇のもとでした。

事情を聞いた後白河法皇は義経に対し「頼朝追討」の院宣を出します。

しかし、義経に味方する者は少数でした。

このままでは義経は負け、自分も危うくなると考えた後白河法皇は、逆に「義経追討」の院宣を頼朝に出します。

まさかの裏切りで義経はいよいよ窮地に追い込まれます。

 

兄弟喧嘩の決着!

最後に義経が頼ったのは長年過ごした平泉でした。

奥州藤原氏の当主の藤原秀衡は、義経に味方し頼朝に対抗しようとしましたが、義経が平泉に着いて間もなく病死してしまいます。

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秀衡の跡を継いだ藤原泰衡は、頼朝と敵対することを恐れ、義経を討伐する事を決意します。

味方だと信じていた泰衡に追い込まれた義経は、1189年、衣川の館で妻子とともに自害します。

 

日本中を巻き込んだ兄弟喧嘩は終わり、鎌倉幕府が誕生、武士の世の中へと変わっていきました。

皮肉なことに、2人の関係が悪化したからこそ、頼朝の目指す世の土台が出来上がったとも言えます。

義経を捕獲するために守護・地頭が設置されたわけですから。

 

もし義経が勝っていたらどうなっていたか?

もし頼朝と和解したらどうなっていたか?

歴史にifは禁物ですが、きっとその後の日本は大きく変わったと思います。

鎌倉に足を運んだ際は、この壮大な兄弟喧嘩に思いを馳せてはいかがですか?

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