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義経は生きていた?生存伝説の裏に隠れた奥州藤原氏の秘策

源義経

こんにちは!レキショックです!

今回は、源義経は奥州では死なず、北方、大陸に渡って生き延びたとする義経生存伝説について紹介します。

源義経は、兄の源頼朝と対立し、奥州の藤原秀衡の庇護を受けるも、その跡を継いだ藤原泰衡によって討伐され、命を落としたと伝わります。

しかし、義経の死は、当時から疑問に思っていた人も多く、判官贔屓もあいまって、義経生存伝説が生まれ、各地で語り継がれていきました。

吾妻鏡をはじめ、当時の記録もところどころ不自然な箇所があり、本当に義経は衣川では死んでいなかったのではとさえ思えてしまいます。

古くから語り継がれ、もはやそれ自体が歴史の一部となっている義経生存伝説。

判官贔屓という視点だけでは語れない、義経と奥州藤原氏の生き残りをかけた戦いを紹介します。

義経の死を確認できた人はいない? 義経の死の真相

壇ノ浦の戦い

源義経は、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後、捕虜とした平宗盛らを伴って鎌倉に凱旋しようとするも、かねてより義経の独自行動をよく思っていなかった頼朝によって鎌倉入りを拒否され、両者は対立することになります。

義経は後白河法皇より頼朝追討の院宣を受け取り、打倒頼朝を掲げて挙兵するも、思うように兵を集められず、西国で再起を図ろうとするも失敗し、追われる身となりました。

土佐坊昌俊による義経夜討

しばらくは京都に潜伏し再起を図るも、最終的には自分が若い時に過ごした奥州平泉の藤原秀衡のもとへ身を寄せることとなりました。

しかし、藤原秀衡は義経の到着から半年後に亡くなり、跡を継いだ藤原泰衡は、頼朝からの圧力に負け、衣川に住んでいた義経を急襲。義経は妻子とともに自害し、首は鎌倉に送られました。

藤原秀衡

以上が、源義経が逃亡の末、奥州に落ち延び、その生涯を終えるまでの流れですが、この流れの中には不可解な部分が何点か存在します。

まずは、衣川で義経が藤原泰衡に討たれてから、鎌倉に首が送られるまで、40日以上もかかっていることです。

奥州と鎌倉は距離があるため、時間がかかるのは当たり前ですが、雪が積もって動けない冬ならともかく、夏の暑い時期に1ヶ月半近くもかかるのはやはり不自然です。

それだけならまだしも、そもそも藤原泰衡が頼朝に対して義経を討伐したとの報告をしたのが、義経を襲撃してから20日以上後のことなのです。

仮に藤原泰衡が頼朝の再三にわたる圧力に屈して、義経討伐を決断したのであれば、その報告は真っ先に頼朝に対してするはずでしょう。

ましてや、義経を討伐しなければ奥州に攻め込むと武力をもって脅されており、対応の遅れは頼朝に侵攻のきっかけを与えるだけです。

にも関わらず、これだけの時間がかかっているのは、時間稼ぎがしたかった、もしくは時間をかけてあえて首を腐敗させ、誰のものか分からなくしたかったからかもしれません。

奥州合戦

結局、奥州藤原氏は、義経の死から3ヶ月後に頼朝に攻められ、あっけなく滅亡してしまうのですが、約半年後、奥州藤原氏の残党である大河兼任が頼朝に対して反乱を起こしています。

大河兼任は、義経を名乗って味方を集め、約1万人ほどに膨れ上がり、鎌倉幕府の勢力と戦っています。

大河兼任は奥州藤原氏側の人間で、その兼任が義経を名乗ることこそが、義経が衣川で死んでいなかったということになります。

というのも、もし本当に藤原泰衡が義経を討ち取っていたのだとしたら、鎌倉幕府は信じなかったにしろ、奥州藤原氏側では義経の死は皆が知る事実となっており、大河兼任が義経を名乗ったところで、死んだ人間を名乗る滑稽な人物と笑われておしまいです。

いかに大河兼任に人望があったにしろ、義経を名乗りながら1万人もの勢力を集めたことは、少なくとも奥州藤原氏側では義経は死んでいないものと信じられていたのではないでしょうか。

また、この反乱の前後に、吾妻鏡にも、義経が木曽義仲や藤原秀衡の息子とともに攻めてくるとの噂が立っていたことが記録されています。

推測にはなりますが、幕府が義経の死を確信していたら、「義経を名乗った者が反乱を起こす」といった書き方になるはずで、死んだ人間をさも生きているかのように記述することはないでしょう。

このように、義経の死は、当時の人々の間でも信じられてはおらず、この隙間に判官贔屓が合わさり、義経生存伝説が生まれることとなったのです。

頼朝に対抗するために北へ渡った? 藤原秀衡死後の義経の行動

義経勧進帳

奥州に到着した後の義経の行動はあまり伝わっていません。

藤原秀衡が文治3年10月に亡くなった後、翌年に出羽国で頼朝方と合戦をしたと伝わってはいますが、秀衡の死から1年半後に衣川で討たれるまでは、義経は表立って行動していないことになります。

その間にも、藤原泰衡は頼朝の圧力を受け続けており、頼朝に対抗するにしろ臣従するにしろ、最大のキーパーソンである義経に対して何らかのアクションを起こしているはずであり、何もしなかったというのは不自然です。

この平泉滞在中の義経がどうしていたかについて、大陸に渡って騎馬民族の援軍を奥州に引き入れようとしていたとする大胆な説があります。

一見荒唐無稽に思える説ですが、こうでもしなければ頼朝に対抗できない奥州藤原氏の軍事事情、そしてこの無謀な作戦を可能にしうる奥州藤原氏の経済力がありました。

毛越寺 浄土庭園

当時、奥州藤原氏の兵力は18万騎ほどあり、頼朝軍の20万騎に匹敵する軍事力を持っていたといわれています。

しかし、頼朝軍は源平合戦で鍛え抜かれた精兵揃いだった一方、奥州藤原氏は後三年の役以降、100年近く戦を経験しておらず、個々人の能力が物を言う当時の戦いでは、数字以上に実力の差がありました。

事実、奥州合戦最大の戦いである阿津賀志山の戦いでは、防衛側で有利なはずの奥州藤原氏は、頼朝軍の前にいとも簡単に敗北してしまっています。

阿津賀志山

奥州藤原氏は到底頼朝に軍事上対抗できないことは、頼朝軍を率いて平家を蹴散らした義経が一番よく分かっていたでしょう。

平家は奥州藤原氏とは協調関係にあり、源平合戦が行われている内は、奥州藤原氏は侵攻対象にはならなかったものの、源義家の時代から奥州進出を狙っている源氏の棟梁の頼朝が天下をとってしまっては、奥州侵攻が行われることは確実です。

そんな中、奥州藤原氏の大黒柱である藤原秀衡は病に倒れ、義経を大将軍とし、兄弟で一丸となるよう遺言し、亡くなります。

秀衡の時代から、頼朝は奥州藤原氏に対して圧力をかけてきており、そんな中お尋ね者の義経を受け入れたことは、秀衡が頼朝との対決を決意していたことにほかなりません。

軍事力では劣勢に立たされている奥州藤原氏にとって、歴戦の将軍である義経を味方に引き入れたことは大きかったものの、平和に慣れた弱兵ではいくら義経といえどもどうしようもなく、外部の力を借りようとする策に至ったといえます。

また、大陸へ渡ることも、当時の奥州藤原氏の力を持ってすれば可能なことでした。

現在の青森県の津軽半島には、当時日本有数の海外との交易拠点であった十三湊があり、奥州藤原氏は、秀衡の弟に当たる藤原秀栄を派遣してこの地を治め、直接大陸と交易を行っていました。

十三湊

奥州藤原氏は東北で取れる大量の金を使って大陸と交易を行い、大量の経文を手に入れ中尊寺など各地の寺院に納めるなど、平清盛の日宋貿易に匹敵する貿易活動を行っています。

また、当時の中国大陸では、北方では騎馬民族たちが争い、さながら戦国時代のようになっていました。

騎馬民族たちは、血縁も大事ですが、実力のある者に従うという風習もあり、こうした情報は交易を通じて奥州藤原氏も把握していたでしょう。

国内に他に頼れる勢力はおらず、兵の練度も上がらない中、頼朝の侵攻も迫り、奥州藤原氏は起死回生の一手として、義経が率いる騎馬民族をゲリラ的に運用し、頼朝の大軍を打ち破る策を立てたと考えられます。

大陸の騎馬民族と渡り合えるのは義経以外考えられず、奥州藤原氏の手で大陸に送られ、つながりのある騎馬民族に入り込み、周辺民族との戦いで実力を示すといった荒唐無稽な説が現実味を増してくるのです。

また、義経がさも逃避行のように少人数で北方を目指し、各地に義経伝説が残っているのも、義経が奥州を不在にしているのを隠すためとするならば理解できます。

そもそも、義経生存伝説が残っているのは、平泉から太平洋沿岸を北に向かうルートであり、奥州藤原氏と対立していたのであれば、わざわざ北の一大拠点である十三湊には向かわず、親義経派の多い京都へ向かうべく、南に伝説が残るはずでしょう。

大陸渡海は言い過ぎにしろ、北方ばかりに伝説が残っているのは、義経が奥州藤原氏と協力して、何らかの形で北方の勢力を味方につけようとしていたと考えられます。

一方、頼朝の御家人たちは、平家との戦いで義経の活躍を目の当たりにしており、だからこそ義経の軍勢と戦いたくないという思いが強くあったと思われます。

一ノ谷の戦い

だからこそ頼朝は藤原泰衡に対し、再三にわたって義経討伐を要請しており、義経が騎馬民族を引き連れ帰還するまで時間を稼ぎたい泰衡は、義経が平泉にいるように見せかけながら、これをかわし続けます。

そして、頼朝が軍勢を集め始め、いよいよ追討が目前に迫った時に、起死回生の一手として、義経襲撃を偽装し、腐敗した偽物の首を頼朝に提出したのではないでしょうか。

また、泰衡は、弟の藤原忠衡を義経に同心したとして討伐したと頼朝に報告していますが、長年忠衡の首であるといわれていた中尊寺金色堂に安置されている首は、近年藤原泰衡のものであると判明しており、忠衡を殺害したことにすることで義経討伐の信憑性を上げ、忠衡には後事を託して身を隠させたとも考えられます。

中尊寺金色堂

泰衡は頼朝の要求に従うことで、さらなる時間稼ぎを目論みましたが、頼朝は、偽首をあえて本物と断定し、御家人たちの不安を取り除くことで、奥州合戦に踏み切ることができたといえます。

実際に、疑り深い頼朝であれば、首が本物かどうか念入りに調べるはずですが、吾妻鏡には頼朝が首実検を念入りに行なった記録は残っていません。

奥州合戦では奥州藤原氏はあっけなく敗れ、藤原泰衡は北方に逃亡し、頼朝に助命を嘆願する手紙を送りますが、これも義経が帰るまでの時間稼ぎと考えると筋が通ります。

最終的に泰衡は現在の秋田県のあたりで譜代の家臣である河田次郎に裏切られ、命を落としてしまい、奥州藤原氏は滅亡し、奥州藤原氏と義経が謀った頼朝への対抗策は実を結ぶことはなくなってしまったのです。

義経はチンギス・ハーンとしてモンゴルの王者に? 義経生存伝説のその後

チンギス・ハーン

先に述べた一見荒唐無稽な説が成り立つように、古くから義経生存伝説は人々の間で語り継がれていきました。

義経生存伝説は、室町時代には、滅びの美学ともいうべき判官贔屓と合わさって、御曹司島渡り説として、御伽草子などに描かれるようになりました。

江戸時代に入り、様々な著作に義経生存伝説は描かれるようになり、浄瑠璃や歌舞伎の題材に取り入れられることもあり、人々の間にも広まっていきます。

また、江戸時代の初期には、学者の間でも義経の死に疑問を抱くものは多く、水戸黄門でおなじみの徳川光圀が編纂を始めた大日本史には、注記ではあるものの、義経の死への疑念が記述されています。

6代将軍徳川家宣のもとで政治を行っていた新井白石は、著書で義経の首は偽物だったであろうと記述しています。

新井白石

このように、江戸時代には義経の死に疑念を抱く論調が主流だったのです。

江戸時代後期に北方探検を行った近藤重蔵などは、蝦夷地の探検中に現在の日高のあたりで義経の遺跡を発掘したとして、義経神社を創建するなど、義経生存伝説は一般的なものとなっていました。

義経神社

一方、庶民の間では、義経生存伝説をもとに様々な創作がなされ、アイヌの棟梁になった、騎馬民族を統一し、清王朝の祖となったなど、どんどんと伝説は肥大化していきました。

このように、義経生存伝説が広まる中、江戸時代後期に日本に来日したシーボルトは、著書『日本』のなかで、源義経=チンギス・ハーン説を提唱し、これ以降、チンギス・ハーン説が急速に広まります。

シーボルト

チンギス・ハーンの前半生はよく分かっておらず、系譜がはっきりしており、厳密には違うのですが、義経が亡くなったとされる歳と概ね合致することから、チンギス・ハーン説はまことしやかに囁かれることとなります。

シーボルトに端を発したチンギス・ハーン説は、明治時代に入り、ジャーナリストの末松謙澄がロンドンで説を発表し、大正時代にアイヌ研究家の小谷部全一郎が発行した本がベストセラーになるなど、一躍有名になります。

このチンギス・ハーン説が支持された背景は、日露戦争を経て、満蒙地域を日本の生命線と考える当時の風潮に合致したためと考えられ、満州ではチンギス・ハーン説を扱った本が実際に現地で配られるなど、大陸進出政策の一環としても支持されていました。

満州国 新教

しかし、戦後に入ると、これらは俗説とされ、学術的に検討されることはほとんどなくなりました。

義経生存伝説は、歴史学的には一切の根拠がなく、人々の間で語り継がれてきた俗説でしかありません。

ただし、俗説とはいっても、800年近く語り継がれてきた俗説であり、義経生存伝説は、判官贔屓などと合わさって、日本人の価値観の形勢に深く関わってきた歴史の事象の一部であるといえるでしょう。

大陸に渡った義経は、奥州藤原氏の滅亡により帰る場所を失い、騎馬民族たちの戦いの中に生きる道を探し求めたと考えるのも、歴史を楽しむ一つの考え方かもしれませんね。

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