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熊谷直実の生涯 一ノ谷の戦いでの平敦盛との激闘

熊谷直実

こんにちは!レキショックです!

今回は、熊谷直実の生涯について紹介します。

一ノ谷の戦いで、平家の若武者、平敦盛と一騎討ちを演じ、のちに武士をやめ出家し、仏門の道に邁進した熊谷直実。

地元の埼玉県熊谷市では、駅前に銅像が建てられ、小学校の歴史の授業でも取り上げられ、運動会では直実ぶしとして踊り継がれるほどの人気を誇っています。

ただ、実際には、武芸一本で世を渡るも、移り変わる世の中に対応しきれなかった不器用な一面も在りました。

今回は、熊谷直実の生涯、鎌倉幕府の御家人から中国地方の大名毛利氏の家臣へと転じた熊谷氏のその後について紹介します。

頼朝の御家人として源平合戦で活躍

熊谷駅

熊谷直実は、現在の埼玉県熊谷市のあたりを領していた熊谷直貞の子として生まれました。

熊谷直貞は、京都で院御所の警備をする北面の武士であった平盛方の子として生まれ、平清盛の父である平忠盛を襲撃した罪で処刑されたといいます。

幼かった直貞は、乳母によって熊谷まで逃され、のちに熊谷に所領を得たといいます。

しかし直貞も若くして亡くなり、当時2歳だった直実は、伯父の久下直光に養われ、成長しました。

直実は伯父の直光の家人という立場にはなってしまいますが、保元の乱では源頼朝の父、源義朝に従って、得意の弓で活躍したといいます。

保元の乱

源義朝と平清盛の戦いである平治の乱でも義朝側につき、義朝の子の源義平のもとで戦いました。

しかし、義朝らは敗れ、その後は直実も源氏のもとを離れ、伯父の久下直光のもとに戻ります。

そして、久下直光の名代として京都で働きますが、直光の家人扱いをされることに耐えられず、直光のもとを離れ自立し、平清盛の4男である平知盛に仕えました。

こうして、平家の家人として長年仕えた直実は、以仁王の挙兵により源平合戦が始まると、当初は平家方として戦うこととなります。

当時、京都にいて、平清盛に東国の源頼朝の討伐を命じられた大庭景親に従って、直実も東国へ戻り、石橋山の戦いでは大庭方として頼朝と戦いました。

しかし、その後、頼朝が房総半島で勢力を盛り返すと、他の坂東武者同様に、直実も頼朝に臣従し、御家人の席に加えられました。

その後、直実は常陸国の佐竹氏討伐で戦功を挙げ、熊谷の支配権を安堵されます。

しかし、元はといえば、直実の保護者の立場であった久下直光は、直実に熊谷の地を奪われる格好となり、以降直光と直実は熊谷の支配権を巡って激しく争うこととなります。

所領争いを抱える直実でしたが、その後の源平合戦にも従軍し、ついに一の谷の戦いを迎えます。

一ノ谷の戦い

一の谷の戦いでは、源義経の奇襲部隊に参加し、鵯越の逆落としと呼ばれる奇襲を敢行。 平家の陣へ一番乗りを果たしますが、敵に囲まれ、危うく討ち取られる寸前まで追い詰められたといいます。

次々と到着する奇襲部隊の活躍により一命をとりとめた直実は、その後も敵を求めて浜辺を駆けていたところ、豪華な鎧に身を包んだ平家の若武者を見つけます。

直実は若武者に一騎討ちを挑み、これを組み伏せますが、当時15歳だった子の熊谷直家と同じくらいの若者だったことから、一瞬首を取るのをためらったといいます。

若武者は、自分の首を取れば、誰かが自分の名前を知っているだろうと直実に首を斬るように促し、直実はその気概に感服し、泣く泣く首を取りました。

のちに、この若武者は、平清盛の弟、平経盛の子、平敦盛と判明し、腰には、敦盛の祖父、平忠盛が鳥羽法皇から賜った笛があったといいます。

平敦盛

直実は、若武者の首を取ったことに思うところがあり、出家への思いを強くしたといわれています。

しかし、直実には、所領争いに端を発した、訴訟の世界での戦いが待っており、武芸の腕だけで生きてきた直実は、新しい世の中の波に飲み込まれていくこととなるのです。

訴訟に敗北しやむなく出家? 源平合戦後の直実

熊谷直実(法力房蓮生)

頼朝に従う御家人として、自分の弓の腕だけで源平合戦を戦い抜いた直実は、その後の幕府政治に順応できず、苦労することとなります。

直実は、1187年に行われた鶴岡八幡宮の放生会での流鏑馬で、射手ではなく的立ちの役を与えられ、自分は弓の名手であるにも関わらず、射手の従者がやるべき役である的立ち役をやるのは不服であるとこれを拒否し、所領の一部を没収されてしまいました。

当時、射手に選ばれていたのは、甲斐源氏の武田信光や、三浦義澄の嫡男三浦義村など、御家人の中でも大勢力の者たちばかりでした。

直実にとっては、勢力の差こそあれ、頼朝のもとで御家人は皆同列だという意識があったことでしょう。

ただし、現実は、頼朝をトップとし、有力御家人を中心とした支配体制が確立しつつあり、直実のような一介の武士と、三浦氏のような大勢力との間には明確な上下関係があったのです。

この上下関係の存在を明確にするような流鏑馬での的立ち役は、直実にとっては許せなかったものの、直実の行動は、武家政権の確立を目指す頼朝にとっても許せないものだったでしょう。

源頼朝

さらに直実は、伯父の久下直光との所領争いでも敗れてしまいます。

もともと、両者の間では長年に渡る所領争いがあり、1192年についに、頼朝の前で両者の口頭弁論が行われることとなりました。

しかし、元はといえば直実の保護者であった直光に分があり、自然と直実は不利になっていきます。

さらに、武勇一辺倒で、口下手な直実は、この不利を覆すだけの答弁をすることができず、最終的には、梶原景時が直光をひいきにしているため、自分の敗訴は決まっているも同然と、髻を切り、逐電してしまいました。

これには頼朝もあっけにとられたといいます。

直実は、この訴訟事件の前後で出家していたといいます。

若い平敦盛を討ち取った時の葛藤もあったでしょうが、それ以上に、武勇と忠義だけで生き抜いてきた直実にとっては、大きく変わりつつある武家政権の世の中は生き辛いものとなっていたのでしょう。

直実は、息子の直家に家督を譲り、出家し、のちに浄土宗の開祖である法然の弟子になりました。

法然

当初は出家の方法すら分からないほどだった直実は、罪の重さに関わらず、念仏を唱えれば極楽往生できるという法然の教えに感動し、仏門の道へ邁進します。

法力房蓮生と名乗った直実は、法然の出身地である美作国に誕生寺を建立するなど、各地に寺院を建立し、最終的には本領の熊谷に戻り、念仏三昧の生活を送ったといいます。

直実が熊谷に結んだ庵は、熊谷寺として残っており、最期は往生する日を事前に予告し、亡くなったといいます。

直実以降の熊谷氏 子孫は毛利家臣として活躍

毛利元就

熊谷直実の跡は、子の熊谷直家が継ぎました。

直家は、15歳の若さで、父とともに一の谷の戦いで平家と戦っており、奥州合戦でも活躍し、頼朝から称賛を受けています。

承久の乱でも幕府軍として出陣し、後継ぎの熊谷直国は、朝廷側の勇将山田重忠と戦い討死してしまいました。

この時の直国の活躍により、のちに直国の子の熊谷直時に、安芸国に領地が与えられます。

しかし、直時と、弟の熊谷祐直との間に、所領を巡って兄弟争いが起き、熊谷氏はそれぞれ兄弟で所領を分割することになり、承久の乱以降拡大を続けていた熊谷氏の勢力は停滞することになります。

直時の子の熊谷直高の代には、元寇が起き、東国の武士たちが本拠地を西国に移す流れができ、熊谷氏も安芸国に拠点を移します。

直高の孫の熊谷直経の代には、父祖の地である熊谷から安芸に完全に本拠地を移し、以降熊谷氏は、安芸国の勢力として行動するようになります。

直経の代に、後醍醐天皇による倒幕運動が行われ、直経は、当初は幕府方として楠木正成らと戦うも、最終的には足利尊氏に従い、六波羅探題攻めに加わります。

後醍醐天皇

南北朝の戦いでも足利尊氏に従い、南朝側についた一族を討伐し、長年分裂していた熊谷氏の勢力の統一も果たしました。

直経の子の熊谷直明の代には、九州探題となった今川了俊に従って九州で戦いを続け、熊谷氏の勢力を拡大します。

さらに、室町幕府3代将軍の足利義満と、西国の大大名大内義弘が対立した応永の乱では、幕府方として大内氏討伐に出陣しています。

しかし、一連の戦いで熊谷氏の勢力も拡大しすぎてしまい、全国に所領を持つ熊谷氏の勢力を危険視した足利義満によって、熊谷氏は追討対象とされてしまいました。

足利義満

熊谷直明は南朝側に降ることで対抗しようとしましたが、安芸国中の足利方連合軍に攻められ、直明は討死し、熊谷氏は没落してしまいます。

子の熊谷在直が、旧領の一部を与えられ、以降の熊谷氏は、安芸守護の武田氏の配下として生きていくこととなります。

しかし、時代が戦国時代へと移り変わるにつれて、安芸武田氏の勢力も次第に衰え、戦国時代の当主、熊谷元直は、毛利元就の初陣である有田中井手の戦いで、武田方として戦い、討死してしまいました。

跡を継いだ熊谷信直は、娘を毛利元就の子、吉川元春に嫁がせるなど、毛利氏との関係を強化し、毛利氏の一門衆として重く用いられるようになります。

熊谷信直

熊谷氏は毛利氏傘下として活躍し、1万6千石の領地を有するなど、戦国時代を通して毛利氏の縁戚として活躍しました。

熊谷信直の孫、熊谷元直の代には、豊臣政権傘下となった毛利氏のもとで、九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵などの戦いに参陣し、元直は豊臣姓も与えられています。

しかし、元直は黒田官兵衛の勧めでキリシタンとなり、豊臣秀吉や毛利輝元からの棄教命令にも従わなかったため、輝元の不興を買います。

関ヶ原の戦い後、毛利氏の本拠地となる萩城の築城を命じられた元直は、同じく責任者となった重臣の益田元祥と、築材の窃盗を巡って対立し、キリスト教問題で毛利輝元と不和になっていたこともあり、輝元に差し向けられた軍勢によって一族もろとも粛清されてしまい、ここに直実以来の熊谷氏は滅亡することとなってしまいました。

萩城

のちに、元直の孫の熊谷直貞が、長府藩主の毛利秀元の庇護のもと、熊谷氏を再興し、途中、宍戸氏などから養子をはさみながらも、熊谷氏は幕末まで続くこととなります。

幕末には、熊谷親直が倒幕派と対立する俗論派の一人として、藩政の中心となるなど活躍し、子の熊谷直養は、のちの陸軍の英雄、乃木希典とともに長州藩兵の指導にあたり、明治維新後は大蔵省に務めるなど、歴史に名を残しました。

現在でも熊谷氏は続いており、熊谷直実の800回忌には、熊谷の熊谷寺に、全国から熊谷氏が集結するなど、その系譜を現代に伝えています。

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