偉人解説

『高島平』の由来にも!近代砲術の第一人者 高島秋帆を分かりやすく解説しました!

都営地下鉄三田線の終点駅に『高島平』という駅がありますよね。

今回紹介する高島秋帆はこの『高島平』の地名の由来にもなった人物です。

大河ドラマ『青天を衝け』では玉木宏さんが演じたことでも有名となった高島秋帆について紹介していきます。

大河ドラマでは若き日の渋沢栄一に大きな影響を与えた人物として登場する高島秋帆

今回はそんな高島秋帆はどんな人物だったのか、何をした人物だったのかについて解説していきます。

砲術の近代化の必要性を痛感 独自の砲術を完成させる

高島秋帆は寛政10年(1798年)に長崎にて生まれました。

長崎(Wikipediaより引用)

 

高島家は代々長崎の町年寄を務める家柄で、父親の高島茂起も町年寄を務めていました。

秋帆の生まれ育った長崎は、当時日本で唯一の海外と通じた都市で、海外の最先端の情報技術が多く入ってきていました。

秋帆は若い頃から、出島にいるオランダ人と交流し、オランダ語を学び海外の知識を吸収していきます。

出島(Wikipediaより引用)

その中で洋式砲術に触れ、日本の砲術との間に比べ物にならないほどの格差があることに愕然としました。

砲術の近代化の必要性を感じた秋帆は、自費で銃器を買い集め、オランダ人に師事しながら洋式砲術を学びます。

そして天保5年(1834年)に、ついに高島流砲術を完成させました。

秋帆の最先端の技術は瞬く間に噂になり、近隣の領主である佐賀武雄領主の鍋島茂義までもが秋帆に入門するほどでした。

秋帆は鍋島茂義に免許皆伝を与えるとともに、自作第1号の青銅製の大砲を茂義に献上しています。

こうして秋帆は長崎の町年寄という立場でありながら砲術の第一任者となっていくのです

幕府にも認められ砲術の第一人者に

1840年に清(中国)とイギリスの間に起こったアヘン戦争で清が破れたとの情報は、当時の日本に大きな衝撃を与えました。

Destroying Chinese war junks, by E. Duncan (1843).jpgアヘン戦争(Wikipediaより引用)

西洋の軍事力が東洋に比べ圧倒的に優勢であることが明白になったためです。

砲術の第一任者である秋帆はこの事件の重大性を誰よりも認識しており、天保12年(1841年)に幕府に対して火砲の近代化を訴える『天保上書』いう意見書を提出します。

幕府もアヘン戦争での清の敗北により、火砲の近代化の必要性を認識していたことから、幕府の鷹狩場であった武蔵国徳丸ヶ原で公開演習を許可しました。

徳丸ヶ原は現在の東京都板橋区高島平のことで、秋帆の砲術演習にちなみ『高島平』という地名が付けられたといわれています。

砲術稽古業見分之図(Wikipediaより引用)

この砲術練習では、洋式砲術洋式銃術の公開演習が行われました。

特に黒塗りの円錐形の笠は、鎧兜が当たり前だった当時の人々にとっては異様で、見学に来た幕府の役人は口々に「異様なかぶりものだ」と言ったと伝わっています。

後に老中首座となる阿部正弘からは、『火技中興洋兵開基』と称えられるなど幕府からも砲術の専門家として認められることになりました。

Masahiro Abe.jpg阿部正弘(Wikipediaより引用)

突然の逮捕

日本の砲術の第一人者となった秋帆は、幕府の命令で、韮山反射炉を建造した江川英龍、下曽根信敦らに砲術を指南しています。

Autoportrait of EGAWA Hidetatsu.jpg江川英龍(Wikipediaより引用)

こうして秋帆の砲術は、弟子を通して全国に広まり、日本の砲術の近代化に貢献しました。

しかし秋帆は天保13年(1842年)突如として逮捕、投獄されます。

その当時、現在の税関の役割を果たしていた長崎会所のトップであった秋帆は、長年にわたるずさんな運営の責任者として処罰されてしまったのです。

この秋帆の逮捕の理由には2つの説があります。

まず一つは、老中水野忠邦のもとで権勢を振るっていた鳥居耀蔵に妬まれたとする説です。

Mizuno Tadakuni.jpg水野忠邦(Wikipediaより引用)

秋帆の唱える様式軍備の採用に反対の立場であった鳥居耀蔵は、長崎貿易の管理で十万石の大名に匹敵する資金力を持っていた秋帆を妬んでいたこともあり、密貿易や謀反の罪を着せたとするものです。

もう一つは老中の水野忠邦が直接秋帆を処分したとする説です。

秋帆のいた長崎会所のずさんな経理が、当時長崎にあった銅座での青銅生産に影響することを恐れ、長崎会所ごと処分したとするものです。

いずれにせよ、秋帆は投獄され、後に武蔵国の岡部藩で幽閉されることになります。

この時秋帆は44歳でした。

ペリー来航により出獄 軍備改革に尽力

秋帆は武蔵国岡部藩にて、約10年の幽閉生活を送ることになります。

この時に近くの村で幼少期を過ごしていた渋沢栄一と何らかの接点があったのかもしれません。

Eiichi Shibusawa.jpg渋沢栄一(Wikipediaより引用)

秋帆が幽閉されている間にも、西洋諸国は次々と日本に接近しており、洋式兵学の必要性を感じていた諸藩の大名は、秋帆に秘密裏に接触し、教えを乞うていたといわれています。

そして嘉永6年(1853年)ついにペリーが来航し、直接幕府に接触します。

黒船来航(Wikipediaより引用)

ペリー来航により急激に変化する社会情勢を前に、幕府は秋帆を赦免します。

復帰した秋帆は、幕府によって講武所の師範とされ、幕府の砲術訓練の指導に尽力しました。

また秋帆は、幽閉中に自身の鎖国、海防政策の誤りに気付き、異国を打ち払うのではなく、開国し、貿易を行うことで国を豊かにするべきだという考えに転じていました。

開国、通商を行うべきだとする『嘉永上書』を幕府に提出するなど開国派としての活動も行なっています。

その後も、幕末の動乱の中、幕府の砲術指導に尽力し、慶応2年(1866年)に69歳でその生涯を閉じました。

いち早く軍備の近代化の必要性を認識し、独自の技術を完成させた高島秋帆。

秋帆の砲術は、弟子たちによって全国に広まり、佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、木戸孝允ら幕末明治の偉人たちも学んでいます。

Sakuma Shozan.jpg佐久間象山 (Wikipediaより引用)

日清戦争で海軍を指揮した伊東祐亨は、秋帆の弟子である江川英龍の下で砲術を学んでおり、秋帆の砲術は、近代日本の軍隊にも受け継がれました。

黄海海戦(Wikipediaより引用)
ABOUT ME
RekiShock レキショック
教科書には載っていない「そうなんだ!」と思わず言ってしまう歴史の話を発信する日本史情報サイトです。 YouTubeでは「大名家のその後」「大河ドラマ解説」 Twitterでは「今日はなんの日」「明治、大正時代の日本の風景」を発信しています。 Twitterフォロワー34,000人 YouTube登録者24,000人
こちらの記事もおすすめ!

クイズ - RekiShock レキショック へ返信するコメントをキャンセル