今回は、連続テレビ小説『らんまん』の主人公 槙野万太郎のモデルとなった、世界を代表する植物学者、牧野富太郎の生涯について紹介します。
富太郎は東京大学で植物学の研究に取り組んでいましたが、学歴自体は小学校中退で、自費で出版も行うなど、苦労の多い研究人生を送っていました。
富太郎が湯水のようにお金を使ったせいで、実家の店は経営が傾き、自身も数億円の借金を背負うまでになりましたが、妻や支援者の支えで乗り切っています。
実家に先妻を残しながら、東京で新しい妻を作ったり、支援金を遊郭で使い込むなどあまり褒められない面もあったものの、大衆にまで植物学を浸透させたその功績は確かです。
今回は、波乱万丈の研究生活を送りながらも、日本の植物学の発展に大きく貢献した牧野富太郎の94年の生涯について紹介します。
家業を継がずに植物学研究の道へ邁進する。 牧野富太郎の出自
牧野富太郎は、1862年に土佐国佐川村の裕福な造り酒屋、岸屋を営む牧野家の長男として生まれ、成太郎と名付けられました。
しかし、3歳の時に父親がコレラで亡くなり、その2年後に母、翌年には祖父も亡くなるという不幸に見舞われます。
残された祖父の後妻、浪子は、一人で岸屋を切り盛りし、牧野家の邪気を払い富がもたらされるようにとの願いを込めて、成太郎を富太郎と改名させ、血のつながらない孫を岸屋のたった一人の跡取りとして大切に育てることとなりました。
富太郎は、商人ながら苗字帯刀を許される家の出であったものの、他の子のように剣道に熱中せず、一人草木と遊ぶ子で、痩せていたことから周りからバッタと呼ばれています。
やがて、11歳になった富太郎は、元土佐藩筆頭家老深尾家の家塾、名教館に入り、儒学者、伊藤蘭林に学び、習字や算術だけでなく、西洋の地理、物理、天文などの知識にも触れていました。
明治政府によって1872年に学制が発布され、名教館も1874年に佐川小学校に改組されますが、中等教育以上の学習を終えていた富太郎にとって、小学校低学年レベルの勉強はもはや苦痛で、1876年に退学し、これが富太郎の最終学歴となります。
それでも、小学校で何も得るものがなかったわけではなく、学校にあった文部省の田中芳男、小野職愨が企画編纂した博物図に魅入られ、元々好きだった植物への思いを一層強くしました。
退学後の富太郎は、野山を駆け回って植物を採集し、本草学の書物と突き合わせて名前を特定する日々を送ります。
向学心旺盛な富太郎を見た佐川小学校の校長は、富太郎を小学校の代用教員とし、富太郎は学校で教鞭を振るう傍ら、生徒たちと草原に出かけて植物観察を行いました。
やがて富太郎は、本格的に学問を志すようになり、教員を辞めて高知に出ましたが、そこで医学校を卒業して高知県師範学校に赴任してきた永沼小十郎と知り合いになります。
永沼は植物学の知識も豊富で、永沼から刺激を受けた富太郎は、植物学研究の道を本格的に志すようになりました。
そして、よりたくさんの書籍、ドイツ製の一流の顕微鏡を手に入れるために、1881年、19歳の時に、祖母の手厚い支援の元、店の使用人をお供に初めて東京に行きます。
富太郎はこの東京行きで、植物学に興味を持つきっかけとなった博物図を制作した田中芳男、小野職愨にも対面を果たしました。
田中芳男は、上野の東京国立博物館を創設するなど、日本の博物館の父と呼ばれるほどの人物で、小野職愨は田中の下で海外の植物学の教科書の翻訳などを手掛けていました。
富太郎は、小野の案内で、東京大学理学部植物学教室や小石川植物園を見学させてもらった他、東京や日光で植物採集も行い、この東京行きで植物学研究に本格的に取り組む覚悟を決めます。
佐川に帰郷した富太郎は、母の妹の娘で、岸屋に手伝いに入っていた山本猶と結婚しました。
岸屋は祖母の浪子と妻の猶が切り盛りするも、富太郎はそもそも酒が飲めず、岸屋の仕事ができなかったこともあり、気兼ねなく植物採集に出かけ、高知の植物を網羅した『土佐植物目録』の完成を目指します。
祖母の浪子は、富太郎が熱中する植物学を、いずれ岸屋の主になる男の道楽の一つ程度に考えていたようですが、富太郎の思いは東京に向いており、1884年に高知を出て東京に移りました。
富太郎の思いに、浪子は岸屋を継がせるのを諦めて富太郎の意思を尊重し、富太郎は祖母の支援の元、妻の猶を残して単身上京します。
22歳で上京した富太郎は、3年前に訪れた東京大学理学部植物学教室を訪ね、植物学の第一人者だった植物学教室のトップ、矢田部良吉と面会しました。
富太郎の植物図の精巧さと志の高さを認めた矢田部は、部外者の富太郎に大学の出入りを認め、図書室や植物学教室の標本室などの施設、設備の利用を許可します。
当時の植物学教室は、日本全国の植物の標本を集めてデータベース化することを目指しており、高知の植物の採集を終えていた富太郎はうってつけの存在だったのです。
こうして富太郎は、日本一の環境で植物学の研究に邁進することとなり、歴史に名を残す植物学者としての一歩を踏み出していきました。
研究者として名を上げるも実家が潰れて借金まみれに 若手時代の牧野富太郎
富太郎は、関東各地に植物採集に出かけ、下宿では標本作りを徹夜で行い、標本で下宿が埋め尽くされ、狸の巣と揶揄されるほど研究に没頭しました。
富太郎は、植物学教室の学制とも交流し、教授の矢田部の下で、学生たちとともに教室の機関紙、『植物学雑誌』を刊行し、自らも論文を寄稿しています。
富太郎のことを皆が認め始めていた1887年に、郷里では祖母の浪子が亡くなり、富太郎の妻、猶が岸屋を一人で切り盛りすることとなりました。
しかし、祖母の死を境に、当主である富太郎と岸屋のやり取りは、富太郎の定期的な金の無心以外になくなります。
それどころか、富太郎は東京で菓子屋の娘、寿衛と同姓を始めてしまう始末でした。
同棲は1887年頃から始まり、この時富太郎は25歳、寿衛は14歳で、この後寿衛との間に生涯で13人の子をもうけることとなります。
それでも、植物学への情熱だけは衰えることはなく、1888年には、富太郎の目標である日本に自生する植物全てを取り扱った『日本植物志図篇』の第一巻第一集を出版します。
この出版に際し富太郎は、印刷技術の習得、印刷機の購入、製版、印刷、製本まですべて自分で行い、高い評価を得たものの、出版にかかったお金はすべて実家の岸屋から出ていました。
また、富太郎は大学に所属していなかった故に、師弟関係に縛られておらず、それ故、植物学教室のトップであり恩人でもある矢田部良吉にも遠慮するところがなく、学問上の問題でしばしば対立することもありました。
富太郎は、過ちは指摘することが学問の発展に繋がると信じて疑っていませんでしたが、人間関係は悪くなる一方となります。
ただし、フィールドワークを第一に丹念に研究を続ける富太郎の姿勢は矢田部も認めるところで、富太郎は、1890年、江戸川の土手で日本初となる食虫植物、ムジナモの発見をするという快挙を挙げました。
富太郎はさらに、ムジナモの花まで見つけ、ヨーロッパでは花をつけたムジナモは確認されていなかったことから、富太郎の名は一気に世界中に知られるようになります。
江戸川の土手には、現代でもムジナモ発見の地として石碑が建てられており、富太郎の業績が讃えられています。
しかし、そうしている間にも矢田部との関係は悪化し、富太郎が大学の標本を下宿に持ち帰って中々返却しないといったトラブルもあり、ムジナモ発見から6ヶ月後に、大学設備の利用、教室への出入り禁止を宣告されてしまいました。
親友の池野成一郎らの助力により、駒場に富太郎のムジナモ研究の施設が秘密裏に作られ、富太郎は研究を続行できたものの、『日本植物志図篇』の作成は事実上不可能となってしまいます。
富太郎は、日本の植物学の権威である矢田部がいる限り、日本で植物学の研究を続けるのは無理だと悟り、交遊のあった世界的植物学者であるロシアのマキシモヴィッチを頼って亡命しようとするほどでした。
マキシモヴィッチが急死したことで計画は頓挫しましたが、吹っ切れた富太郎は、矢田部とライバル関係にあった東京帝国大学理科大学長の菊池大麓などの支持を受け、独自に『日本植物図篇』の出版を加速させていきます。
1891年11月には第11集の出版までたどり着くも、富太郎が植物学に実家の岸屋の金を注ぎ込みすぎたせいで、岸屋はいよいよ経営が立ち行かなくなるまで家が傾き、妻の猶の要請で富太郎は一時高知に帰ります。
猶は夫に頼ることなく、番頭の井上和之助と店を守っていましたが、ついに店を一度畳み、当主である富太郎が残った岸屋と牧野家の財産を分配しています。
その後、猶は井上和之助とともに岸屋の再建を目指すも失敗し、一方の富太郎は、これを最後に猶、及び牧野家と事実上縁が切れます。
富太郎は実家からの金の支援がなくなる事態になるも、富太郎が実家に帰っている間に、矢田部が学内での対立により非職となり、大学から去るという事件が起きていました。
富太郎は1893年に、学長の菊池大麓の支援によって、現在価値で月給15万円ほどの助手として雇われ、大学、植物学教室に復帰を果たします。
しかし、坊ちゃん育ちで子供もいる富太郎の生活は、15万円の給料では到底賄えず、あっという間に2千万円ほどの借金を作ってしまいました。
それでも救いの手は差し伸べられ、当時の東大法科の教授、土方寧が同郷出身の幼馴染だったことから、濱尾新総長を通じて、宮内大臣を務めていた佐川村出身の田中光顕に話が通ります。
結果として、田中の斡旋によって、土佐出身の三菱の総帥、岩崎久弥が富太郎の借金をすべて精算するという幸運に恵まれ、富太郎の借金問題は一時的に解決しました。
さらに濱尾総長は、富太郎に大学発行の植物誌の責任編集を新たに任せ、業務の対価として給料を増額するという処置を行い、富太郎は金だけでなく、大学を代表する出版物の編集責任者という栄誉まで手にします。
しかし、富太郎の師弟関係を無視した学問への姿勢は、かつて富太郎を評価し、この頃には植物学教室のトップになっていた松村任三との対立を生み、約束された昇給も邪魔される事態になりました。
子供がたくさんいる上に、資料保管のために広い家も必要な富太郎は、かねてからの放蕩癖もあり、一度整理された借金をまた膨らませてしまい、度々差し押さえを食らうまでになります。
そんな中でも、妻の寿衛は、富太郎の執筆の邪魔にならないよう、子育てをしながら富太郎に代わって借金取りに対応したほか、富太郎が泊りがけで植物採集に出かけた際は、現地から送られた資料を家で標本にする作業を寿衛が行うなど献身的に富太郎を支えました。
こうした妻の内助の功に支えられながら、富太郎は世界に名だたる植物学者となっていったのです。
大衆にも植物の素晴らしさを広め、日本の植物学の父に 牧野富太郎の後半生
1916年、54歳の時には、3億円まで借金が膨らんだ富太郎はいよいよ首が回らなくなり、長年集めた植物標本を海外へ売り払うという最終手段に出ようとします。
しかし、日本の宝とも呼べる富太郎の標本が海外へ流出するのを防ごうと、朝日新聞記者の渡辺忠吾が取材記事を書き、支援を訴え、当時25歳だった神戸の富豪、池長孟が支援を申出ました。
池長が富太郎の標本10万点を3億円で買付け、標本は神戸の池長会館に収蔵し、富太郎の出入り自由の植物研究所とする支援内容で、富太郎は九死に一生を得ます。
さらに、研究所で公演をする機会を設け、対価を払うことで富太郎の家計の支援も行い、この講演活動により関西にも植物同好会が広まることとなりました。
しかし富太郎は、借金完済の開放感からか、数百万円を持ち出して遊郭で使い込み、さらに池長家のメイドにも手を出したことが発覚し、ついには池長家からこれ以上の支援の打ち切りを宣告されてしまっています。
そんな中でも寿衛は富太郎を支え続け、当時は東京有数の花街であった渋谷の円山町で待合茶屋を営み、多くの東大教授に批判されながらも富太郎と家族を支え続けました。
現在、牧野記念庭園がある練馬区東大泉の土地も、寿衛が将来の記念館建造を見越して、待合茶屋の収益を全て使って購入したもので、寿衛のおかげで富太郎は研究をできていると言ってもいい状態となります。
一方、富太郎と関係が悪くなっていた教授の松村任三は、植物学教室のトップである自分がやるべき大学発行の『大日本植物志』の責任編集を一助手の富太郎が行っていることに嫉妬し、富太郎の記述を牛の小便のようにダラダラ長いと批判するなど対立は深まっていました。
富太郎も松村に怒り、『大日本植物志』をたった4巻で廃刊にしてしまい、富太郎は家計をさらに悪化させてしまっています。
さらに松村は、学長が代わった隙を突いて、富太郎を罷免させますが、富太郎を認める多くの同僚が罷免反対運動を起こし、富太郎は逆に東大の講師に登用され、給料も上がりました。
1922年には、10年以上にわたって富太郎と対立した松村が定年で退任した一方、講師の富太郎には定年はなく、松村退任後は富太郎の授業は大人気となり、学生を連れてフィールドワークにも出ています。
また、民間での植物への関心の高まりにより、富太郎を中心に、この頃から全国各地に植物同好会が発足しました。
富太郎は植物学を大学内で完結させず、大衆に浸透させるという思いを持っており、この内東京植物同好会は牧野植物同好会と名を変え、現代も活動を続けています。
また、一般向けの植物雑誌として、『植物研究雑誌』も刊行し、関東大震災で一時休刊に追い込まれながらも、津村順天堂の創業者、津村重舎の支援で復活し、現在も発行が続いています。
1927年には、それまで研究を優先して学位論文を出さなかったのを、長年の親友で理学部教授になっていた池野成一郎の強引な説得により、過去の論文を提出して理学博士となりました。
しかしこの頃、妻の寿衛は子宮がんになり体調を崩しており、入院費が払えないがために入退院を繰り返し、富太郎がこれからという1928年に55歳で亡くなりました。
66歳になっていた富太郎は、寿衛の死を悲しみ、同時期に発見した新種の笹を「スエコザサ」と命名し、その死を悼んでいます。
1939年、77歳の時には、大学と一悶着ありながらも47年間務めた東京帝国大学を退職しましたが、以降も植物学には関わり続けています。
むしろ、妻を亡くした後は全てを植物に捧げており、1940年には、日本初の本格的な植物図鑑である『牧野日本植物図鑑』を出版し、富太郎の研究の代表作となりました。
富太郎は、戦争中、疎開しても研究を続け、終戦を迎えると即座に東大泉の自宅に戻り、自叙伝などを次々と書き上げ、残された人生を植物学に捧げ続けます。
1951年には、初の文化功労者に谷崎潤一郎ら34人のうちの一人に選ばれ、1953年には初の名誉都民に尾崎行雄とともに選ばれるなど、富太郎の業績は誰もが認めるところになっていました。
1948年には、富太郎は皇居に参内し、昭和天皇に植物学の講義を行い、天皇が収集した植物や菌の標本の鑑定を富太郎が行うなど、昭和天皇にも信頼される学者となっています。
富太郎は1940年、78歳の時に、山で植物採集をしている最中に崖から落ちて重症を負うも、驚異的な回復力を見せるなど生命力が強い人物で、1949年、87歳の時には、突然倒れて臨終を宣告されるも息を吹き返しています。
その後も執筆活動に精力的に取り組んでいましたが、本の山の中で意識を失って倒れる子ともしばしばで、1957年1月に94歳でついに生涯を閉じました。
富太郎の生前から自宅に作られていた牧野植物標本館は、雨漏りがひどくなっており、富太郎の死後、東京都が東京都立大学内に牧野標本館を作り、40万点の標本を整理、保存しています。
東大泉の自宅は、牧野記念庭園として整備され、富太郎が自ら植えたスエコザサなどの植物が今も植えられており、世界を代表する植物学者となった牧野富太郎の偉業を現代に伝えています。
参考文献
上山明博『牧野富太郎: 花と恋して九〇年』
画像引用
牧野標本館タイプ標本データベース http://ameba.i.hosei.ac.jp/BIDP/MakinoCD/makino/html_j/index0.html
江戸川区公式サイト https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e066/sports/kankomidokoro/hanadayori/mujinamo.html