出来事解説

北条は頼家を殺す気はなかった?頼家暗殺の真実とは

源頼家

こんにちは!レキショックです!

今回は、源頼家の死の真相について考察していきます。

比企能員の変を経て、鎌倉殿としての力を失った頼家は、強制的に出家させられ、伊豆の修善寺に幽閉されることになりました。

そして修善寺に入ってから10ヶ月後、北条氏の手によって命を奪われ、23歳の若さでその生涯を終えました。

同時代の日記、愚管抄には、首に紐をかけられ、局所を切断されて殺されたという記述があり、その最期は壮絶なものだったと伝わっています。

しかし、吾妻鏡や修善寺に伝わる伝承を紐解いていくと、必ずしも北条氏は頼家を殺そうとはしていなかったことが分かります。

むしろ北条氏にとって、頼家は殺してはいけない存在であったともいえます。

今回は、修善寺に送られた頼家のその後、絶対に頼家を殺してはいけない北条氏の苦しい立場について紹介します。

頼家を殺すことはできなかった 修善寺での頼家

修善寺

9月2日に比企能員の変が起こり、比企一族が滅亡した3日後、重病に倒れていた頼家は奇跡的に目を覚ましました。

倒れている間に、北条氏によって妻子、後援者全てを奪われていたことを悟った頼家は、さっそく行動を起こします。

頼家は、和田義盛仁田忠常北条時政追討を命じますが、この試みはあっけなく失敗してしまいました。

そして、目覚めた2日後の9月7日に、北条政子によって、統治者失格の烙印を押され、出家することになります。

北条政子

病に倒れていた時から出家していたという話もありますが、この時に、鎌倉殿としての権力を完全に失ったとみていいでしょう。

この間にも、頼家の近習をはじめ、比企一族の関係者など、頼家政権を支えていた者たちが次々と処分を受け、頼家復活の芽は着実に摘まれていきました。

そして、弟の源実朝が将軍宣下を受けてしばらく経った9月21日に、幕府の実質的な支配者となっていた北条時政が、大江広元らと相談の上、頼家を鎌倉から追放し、伊豆の修善寺に押し込めることを決定します。

この決定を受けて、目覚めてから24日後、9月29日に、頼家は鎌倉を離れ、300騎以上の武者に付き添われて鎌倉から修善寺に移動することになりました。

これほどの武者が付き従ったのは、名目上は追放ではなく、病に倒れた先代将軍が、鎌倉を離れ、療養のために修善寺へ移動するという形を取りたかったということなのでしょう。

もし仮に、みすぼらしい行列で頼家を鎌倉から追い出しては、新たに鎌倉殿となった実朝が、実の兄から権力の座を奪ったことになり、実朝の名に傷がついてしまいます。

頼家の子の一幡であれば、鎌倉殿となった実朝ならば、源頼朝が弟の範頼を殺したように言い訳は立つため、実際に北条氏の手によって命を奪われています。

源範頼

ですが、鎌倉殿の立場にあった実の兄を殺すなんてもってのほかです。

このことから、実朝の御家人にあたる北条氏が、頼家を殺すことはできないという考えが成り立ちます。

北条氏としては、徹底的な監視のもと、頼家に修善寺でおとなしく生きていてもらい、自然に死んでもらうほかなかったのです。

毒殺という手段も考えられますが、おそらく北条氏は、比企能員の変の際に、頼家を毒殺しようとして失敗しており、同じ手段は使えなかったのでしょう。

こうして頼家は修善寺に入りますが、寺で僧として修行をしていたわけではありませんでした。

頼家は、川を挟んで対岸にある山の麓に家を与えられ、北条氏の見張りのもと日々を過ごしていたと考えられます。

ちょうど現在の頼家の墓や、政子が供養のために建てた指月殿がある辺りで、現在の修禅寺からは少し離れています。

頼家が修善寺に送られてから2ヶ月後、頼家から実朝、政子に宛てて、一通の書状が届きます。

内容は、山奥にいて退屈なので日頃召し使っていた近習の参入を許してほしい、また、安達景盛の身柄を修善寺に寄越してほしい、譴責を加えたいというものでした。

安達景盛

身内である政子と実朝に送っていることから、書状を北条氏の見張りに渡したのではなく、密かに2人に宛てて送ったのでしょう。

この書状は問題となり、幕府内で審議が行われるほどで、最終的には全て却下することになりました。

書状からは頼家の安達景盛に対する恨みが伝わってきますが、妾を巡って頼家と安達景盛の間に争いがあったのは5年前のことです。

さらに、修善寺の頼家の周囲には頼家に仕える郎等がいたことから、誰でも良かったわけではなく、頼家の側で仕え、景盛の妾の拉致にも協力した小笠原長経らを指していたのでしょう。

このことから、頼家は、景盛ではなく、安達景盛の妾であった女性を、修善寺に送るように所望しており、安達氏を憚って、頼家と景盛の妾に関係がまだあったことを隠したとも考えられます。

この頃の幕府にとっては、修善寺にいる頼家が外部勢力と連絡を取り挙兵すること、頼家が女性との間に子を作ることの2点が最も阻止するべきことでした。

そのため、厳重に監視していたにも関わらず、監視の目をかいくぐり、手紙を秘密裏に送ってきたことは大問題で、幕府内では協議を開いてまで、頼家の願いを断ることにしたのです。

この事件を受け、頼家が外部と連絡を取れないように警備体制を強化が図られたと考えられ、同時に、かつての頼家の近習だった中野能成が、念の為なのか流罪に処されています。

そして、失態を犯した北条氏以外の御家人が、警備体制の強化の進捗確認も兼ねて、頼家のもとに送られることとなり、三浦義村が修善寺に出向きました。

三浦義村

三浦義村は頼家の子、公暁の乳母父でもあり、息子の様子を伝える役目もあったのかもしれません。

義村の報告を受けて、政子は悲しんだと吾妻鏡に記述されていることから、おそらく見張りが厳重になるなど、頼家の生活環境は悪化したのでしょう。

こうして、様々なできごとがありながらも最初の2ヶ月は経過し、いよいよ頼家は最期の時を迎えることになります。

頼家は誤って殺された? 頼家暗殺の真相

義村が伊豆の頼家を訪ねてから一ヶ月後、12月はじめに、頼家が病気になったとの知らせが政子に届いていることが吾妻鏡に記述されています。

当時、鶴岡八幡宮で火災があって、建物の再建工事をしていたのですが、工事開始とともに頼家の病の知らせが届いたため、政子はこれを不吉と思って、工事の停止を指示しています。

さらに、その2週間後には、諸国の武士に、狩猟を禁止する命令を下しています。

源氏の象徴ともいえる鶴岡八幡宮の工事を中断するくらいですから、これらの記述から、頼家が修善寺に行ってもなお、政子がその身を案じていたことが見て取れます。

この話を裏付けるかのように、伊豆の光照寺には、病の頼家の様子を形どって政子のもとへ報告させたという病相の面が残されています。

この面は、顔がパンパンに腫れている姿だと考えられ、特に、まぶたの上が腫れて目が開かなくなっている様子が、漆で顔がかぶれてしまった人そっくりです。

さらに、修善寺には、頼家が、漆を入れた風呂に沈められて、暗殺されそうになったという伝承も残っています。

頼家の死相の面

ここからは推測にはなりますが、警備体制が強化されたことで、頼家は家の周辺を出ることが許されなくなり、近所の温泉に出かけることすらできなくなったのではないでしょうか。

そして北条氏によって家の近くに浴槽が作られるも、その際に浴槽に塗った漆によって、全身がかぶれてしまったと考えると筋が通ります。

そもそも、漆の風呂に沈めて暗殺を図るというのは、お金も手間もかかり、死に至ることもないでしょうから、現実的ではありません。

ただし、頼家からしたら、北条のせいで全身がかぶれて、かゆみのせいで体調も満足でない、北条に殺されかけたようなものだと考えるのは普通です。

かゆみに耐えながら、北条へ恨み節を日々吐いていたのが伝承として残り、さらに浴室で暗殺されたという話に繋がったのかもしれません。

この一連のできごとから、厳重に監視しなければならないながらも、前将軍として礼は尽くし、わざわざ漆塗りの浴槽まで準備する北条氏、そして息子の病気を心配する政子という絵が浮かび上がってきます。

しかし、このできごとから7ヶ月後、頼家は突如としてその命を落とします。

吾妻鏡には死んだと記述されるのみで、一方、愚管抄には、首を紐で縛られ、局所を切り取られて殺されたという記述があり、悲惨な最期を遂げたことが分かります。

ですが、北条氏に頼家を殺す理由はあったでしょうか。

北条義時

一度は、生かして幽閉するという方針をとった以上、殺す理由は、それまでの状況が一変した、つまり謀反を企んだからということになります。

しかし、親頼家勢力であった近習の小笠原長経、中野能成や、比企氏の生き残りは、こののちある程度の復権を果たしています。

何かしていたらこの時に処罰されているはずで、頼家を担いで、謀反を企んだということはないでしょう。

また、この頃の御家人の勢力変動は、三日平氏の乱で失脚した山内首藤経俊くらいで、頼家と組んだ謀反の形跡は見られません。

ここで、頼家が禁じられているもう一つの行動、子作りが頼家の死のきっかけになったと考えられます。

万が一、頼家が子供を作って、その子供が幕府の監視を離れて、反乱軍の旗頭にでもされては一大事です。

そのため、頼家の子を名乗る人物が、未来永劫出てこないよう、女性関係は徹底的に監視されていたと思われます。

推測にはなりますが、頼家は女性に手を出すのを禁じられていたのが限界に達し、使用人や住人の女性を、静止を振り切って襲うようになったとは考えられないでしょうか。

見張りは、殺してはいけないからこそ、首に紐をかけて取り押さえ、二度と子どもを作れないように局所を切り取ろうとしたとすると、愚管抄の記述にも当てはまります。

本当に殺害する気があるのなら、頼家の首に紐をかけている間に首をかききれるはずで、愚管抄の記述からは、頼家を殺さずに、必死に取り押さえようとしている様子が伝わってきます。

しかし、死にものぐるいで暴れる頼家を前に止血がうまくいかず、失血死してしまい、その様子が愚管抄に細かく記載されることになったのではないでしょうか。

鶴岡八幡宮

これは、見張り役としての北条氏の失態ともいえます。

目撃者には箝口令が敷かれるも、頼家の近習が修善寺を脱走し、京都に伝えたことで、慈円の愚管抄には、局所を切り取られて殺されたと記述されることになったのでしょう。

また、残っていた頼家の近習たちは、頼家の死から5日後に、謀反の疑いありとして、北条氏によって殺されています。

頼家と同時に殺されなかったのは、頼家の死が事故で、口封じのために討伐されたとすると、頼家の死から1週間近く生かされていたことも納得がいきます。

頼家が仮に外部勢力と結んで謀反を企んでいたら、これを口実に頼家を殺し、吾妻鏡にも謀反の疑いありとして殺害と記述できるはずです。

北条氏のミスにより頼家は亡くなり、北条氏としても、事故のようなものなので、死んだとしか吾妻鏡に書けなかったというのが、頼家暗殺の真相とは考えられないでしょうか。

頼家は暗愚な2代目だったのか 将軍と御家人の対立の犠牲になった頼家

源頼朝

頼家は、頼朝の跡を継いで鎌倉殿となってから、わずか5年でその生涯を閉じることとなってしまいました。

吾妻鏡には、安達景盛の妾を拉致したり、所領の裁定を適当に行ったりする、暗愚な将軍としての姿が描かれており、そのイメージはよくありません。

ただし、吾妻鏡は頼家をことさらに悪く記述していますが、頼家は武芸に優れ、蹴鞠など京都の文化にも精通している様子が他の記録には残っており、頼朝の跡継ぎとして申し分ない人物であったといえます。

最期の地、修善寺にも、頼家の物と伝わる雅楽の面が伝わっていることからも、武家を代表して朝廷と渡り合うだけの教養も併せ持っていたのでしょう。

安達景盛の妾を拉致して御所に閉じ込めたのは、現代から見れば非人道的ですが、王としての頼家には許される行為でした。

当時の上流階級は家臣の妻、妾を奪うことは黙認されており、大江広元も、天皇が行った先例があるとしてこれを認めています。

大江広元

また、領地の裁定も、細かく吟味しなかった頼家に非はあるものの、決定を下すという将軍の役割は果たしており、頼家の決まりに従うのが臣下の務めです。

つまり、頼家は若いながらも、王としての素質は十分だったのです。

問題は、御家人たちが頼家、ひいては頼朝を王として認めていなかったことにありました。

御家人たちが頼朝に従ったのは、あくまでも、自分の領地を守ってもらいたかったからにほかなりません。

当時は、朝廷が国司を派遣して、勝手に収奪を行うというのが常態化しており、それゆえに御家人たちは、自分たちを守ってくれる存在として、頼朝の東国政権を望んだのです。

しかし頼朝は、朝廷の承認がなければ東国に政権を樹立することは不可能であることを悟っていました。

それゆえに自分の娘の大姫を、後鳥羽天皇の后にすることで、あたかも平清盛のように実権を握ることを狙いました。

大姫

これは御家人にとって、憎むべき朝廷の配下に下ることも同然で、頼朝が朝廷のいいなりになっては、またもや自分たちは収奪の対象となります。

こうして、頼朝の晩年には、朝廷との付き合い方を巡って、頼朝と御家人間には溝ができていたと考えられます。

そんな状況で、頼朝の跡を継いだ頼家は、頼朝が進めていた妹の三幡の入内工作を継承し、頼朝の政策の踏襲をすることを宣言しました。

これに反対する御家人たちを抑えるため、頼家の権力を一部制限し、御家人に補佐する役割を任せたのが13人の合議制です。

これ以降、王として振る舞う頼家とそれに反発する御家人という構図が出来上がり、王としての頼家を支持する梶原景時の排斥など、幕府内の動乱が始まっていくことになります。

また、頼家は北条時政、義時親子によって殺されたようなものですが、頼家はむしろ北条氏を優遇し、引き上げていました。

その一例が、時政の遠江守就任で、これは頼家が時政を厚遇していたものと考えられます。

北条時政

国司就任は、今までは源氏の一門に限られており、御家人で就任するのは異例で、御家人としては北条氏は比企氏をも抜いてトップになったといってもいいでしょう。

頼家の中では、将軍の外戚として源氏一門を率いる比企氏と、御家人を代表する北条氏が2大勢力となり、バランスを取ることを狙っていたのでしょう。

しかし、そもそも頼家の方針に反対する北条氏は、頼家によって与えられた御家人の代表という立場を活用し、逆に頼家を追い詰め、ついには鎌倉殿の座から引きずり落とすことになりました。

こうした兄の失敗を踏まえて、跡を継いだ実朝は、鎌倉殿として自分がどう生きていくか、模索していくことになるのです。

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