前田氏といえば『加賀百万石』で知られている日本最大の藩『加賀藩』(今の石川県、富山 県)の大名です。
歴代当主には五大老の1人として活躍した前田利家、真田丸の戦いで真田幸村と戦った前田利常などがいます。
しかし、日本最大の藩にも関わらず、加賀前田家は江戸時代以降歴史にあまり名前が出なくなっていきます。
幕末、明治にかけては100万石の大藩でありながら、恐ろしいほどに名前が出てきません。
本記事では、前田家が江戸時代以降どのような運命をたどっていったのか解説していきます。
〜大藩すぎて目立てない〜 江戸時代の前田家
まずは江戸時代の前田家について見ていきましょう。
五大老の1人として豊臣政権を支えた前田利家の死後、跡を継いだ前田利長は、関ヶ原の戦いで東軍に味方し、ここに加賀藩が成立します。
しかし百万石の大藩である加賀藩はその石高ゆえに、常に幕府から警戒される存在でした。
前田利常と寛永の危機(前田征伐)
前田利長の死後、跡を継いだ前田利常は、大阪冬の陣、夏の陣で大活躍し、讃岐、伊予、阿波、土佐の四国全土を褒賞として与える打診を受けますが、固辞しています。
理由として、領内の金山経営が軌道に乗り始めていたというのもありますが、一番の理由はこれ以上江戸幕府に目をつけられたくなかったからでしょう。
実際に、前田利常は徳川家康のお見舞いに駿府に行った際に『お前を殺すように徳川秀忠に何度も提案した』と言われています。
それだけ、前田家は江戸幕府から危険な存在として目をつけられていたのです。
その後、前田家は絶体絶命の危機を迎えます。
1631年(寛永8年)、二代将軍徳川秀忠が死の床にあった際に金沢城の修理、船舶の購入など行ったとして、三代将軍徳川家光は前田征伐を計画します。(寛永の危機)
前田利常は、息子の前田光高(まえだ みつたか)とともに江戸に行き叛意のないことを示し事なきを得ますが、いかに前田家が警戒されていたかがこの事件からもわかるでしょう。
前田利常はこうした幕府の警戒心を解くために、あえて傾奇者として奇行を演じ、暗愚な当主を装ったと言われています。
鼻毛を故意に伸ばす、江戸城中で陰嚢を晒す、立ち小便をするなど、利常の奇行エピソードに は事欠きません。
将軍家との姻戚関係 学問の発展
一方で、前田家は徳川家と二重、三重に姻戚関係を結ぶなど、徳川家との関係を深めていきます。
前田利常の妻は徳川秀忠の実の娘珠姫(たまひめ)です。また、歴代藩主も御三家、会津松平家など、徳川一門と代々縁組をしていきます。
後述する12代藩主前田斉泰は11代将軍徳川家斉の娘溶姫を妻に迎えています。
こうして、徳川家と二重三重に姻戚関係を結ぶことで、前田家は準徳川一門としてその地位を保っていきました。
また、前田家は軍備に力を入れる代わりに、学問、芸術に力を入れていきます。
百万石の財力にものを言わせ、次々と豪華な建物を建築し、有名な学者を招聘しました。
これは蓄財をしすぎると、幕府に謀反を疑われるという前田家ならではの理由がありました。
名君として知られた5代藩主前田綱紀(まえだ つなのり)は、当時有名な学者であった木下順庵、室鳩巣、稲生若水らを招聘し、藩校明倫館を中心に加賀藩は学問の都として栄えました。
日本三名園の一つに数えられる兼六園もこの時期に建てられています。
加賀藩は政治にも力を入れていました。一揆など起こされれば幕府に取り潰しの口実を与えてしまうからです。その甲斐あって、当時加賀藩の治世は日本一と讃えられています。
こうした努力の甲斐もあって、加賀藩は5代将軍徳川綱吉に御三家に準ずる家格を与えられる など、次第に幕府の信頼を勝ち得ていきました。
『幕府からいかに目をつけられず、信頼を勝ち取るか』
強大な力を持つがゆえに、前田家は江戸時代を通じてこのスタンスを維持しなければならなかったのです。
〜藩政改革を行うも藩内は混乱〜 幕末の前田家
江戸時代を通じて、幕府に目をつけられないように生きてきた前田家。
しかし、西洋各国の船が日本に来航し始めると、ついに藩政改革に取り組みます。
前田斉泰と黒羽織組
幕末の藩主前田斉泰(まえだなりやす)は黒羽織党(くろはおりとう)という革新派を登用し、海軍をはじめとする軍制改革に当たらせました。
日本海に領内の大半が接する加賀藩は特に海軍の建設に力を注ぎ、前田家の家紋から、『梅鉢海軍』と呼ばれる強大な海軍を保有することになります。
1862年に梅鉢海軍の根拠地として『七尾軍艦所』を設置し、艦船実習を行うなど、百万石の大藩にふさわしい海軍力を持っていました。
この七尾軍艦所には語学所も併設され、のちに海軍大将となる瓜生外吉などが学んでいます。
藩内の対立 戊辰戦争
しかし、加賀藩ではかねてより守旧派による重農政策が行われており、黒羽織党の改革は途中で頓挫してしまいます。
また、藩主前田斉泰、その右腕本多政均(本多正信の次男政重の子孫)が尊王攘夷派を弾圧したことにより、藩内の若手勢力が激減してしまいました。
その結果、100万石の大藩にも関わらず、有力な指導者が藩内から現れず、藩論も統一性を欠き、積極的な行動を取れなくなってしまいます。
幕末の加賀藩は深刻な人材不足に陥っていたのです。
その結果、戊辰戦争では当初は幕府を支持するも、鳥羽・伏見の戦い以降は新政府に恭順するという日和見主義的な行動を取ることになりました。
加賀藩ご自慢の梅鉢海軍も、新政府軍の輸送船として北陸戦線に物資を輸送するという役割に徹し、戦闘で活躍する機会はついに与えられませんでした。
このように、明治維新後も百万石の領土は保ったものの、加賀藩は新政府にて重要な地位を占めることはできなかったのです。
〜陸軍大将 前田利為〜 明治維新後の前田家
北海道の開拓
前田利嗣 Wikipediaより引用
明治維新後は、14代藩主であった前田慶寧(まえだよしやす)が侯爵となります。
その子前田利嗣(まえだとしつぐ)は岩倉使節団の一員としてヨーロッパに渡り、その後は侯爵議員として貴族院議員を長く務めました。
また、石川県士族を授産のために北海道に移住させています。これが前田村となり、現在の共和町となりました。
石狩平野の西部にも農場を作り、現在も札幌市前田として地名が残っています。
陸軍大将 前田利為
明治維新後の前田家当主で最も有名なのは侯爵でありながら陸軍大将にまで上り詰めた前田利為(まえだ としなり)でしょう。
ここでは前田利為の生涯について見ていきます。
出生
前田利為は加賀藩の支藩の七日市藩主前田利昭(まえだ としあき)の五男として生まれました。
その後、前田本家15代当主の前田利嗣の養子となり、家督を継ぎます。
前田利為は早くから陸軍を志し、学習院を経て、1905年(明治38年)に陸軍士官学校を卒業しました。
成績は優秀で、3位という優等成績を残し、恩賜の軍刀を拝受しています。
陸軍士官学校の同期には、のちの内閣総理大臣東条英機がいます。
陸軍軍人として
卒業後は歩兵将校として活躍し、ドイツ、イギリスに留学。その後は駐英大使附武官として引 き続きイギリスに滞在するなど、海外でキャリアを積んでいきます。
帰国後は、近衛歩兵第二連隊長に任じられました。
1933年(昭和8年)には陸軍少将に進級し、陸軍大学校教官、歩兵第二旅団長となります。
1935年(昭和10年)には参謀本部第四部長に転じ、翌年には陸軍大学校校長、さらには陸軍中将に進級するなど順調にキャリアアップを果たしていきました。
しかし前田利為は日中戦争時にも実際に戦地に赴くことはなく、1937年には第8師団長に親補されますが、駐屯地が満州であったため、国民党軍との直接戦闘には参加しませんでした。
1938年(昭和13年)には参謀本部附となり、翌年には予備役に編入されています。
この予備役編入には当時統制派の首領として台頭しつつあった東条英機との対立が原因にあるとされています。
前田利為は東条英機のことを「頭が悪く、先の見えない男」と評し蔑んでいました。
一方東条英機は前田利為を「世間知らずの殿様に何がわかる」と非難しています。
実際に前田と東条は陸軍士官学校の同期でありながら、前田が4年早く陸大に入校し、一方の 東条は受験失敗するなど若い頃からの確執がありました。
こうして前田利為は一旦表舞台から姿を消します。
太平洋戦争開戦 その後
東条英機が首相となり、日本は太平洋戦争に突き進んでいきます。
東条と犬猿の仲である前田利為は東条を「宰相の器ではない。あれでは国を滅ぼす」と危ぶんでいましたが、流れを変えることはできませんでした。
しばらく第一線から遠ざかっていた前田利為ですが、1942年(昭和17年)4月に招集され、インドネシアのボルネオ守備軍司令官に親補されます。
しかし任地に移動中に、飛行機ごと消息を絶ち、後日墜落した飛行機とともに前田の遺体が発見されました。
死後、陸軍大将に昇進しています。
前田利為は戦死の扱いとされましたが、ここでも東条英機との確執が影響します。
築地本願寺で陸軍葬が行われた後、東条英機は前田利為の死を「戦死」から「戦地における公務死」に変更するとしたのです。
当時は当主が戦死した場合のみ相続税を免除するという規定があったのですが、東条は前田家にこの規定を適用できないように画策しました。
当然、加賀百万石の元藩主である前田家は相続税も膨大な額になります。東条英機は戦費として前田家の財産を狙ったと噂されました。
この事件は帝国議会でも取り上げられ、最終的には「戦地における公務死は戦死とする」と判断されたことにより、前田家は相続税課税を免れることができました。
このように深い確執のあった前田利為と東条英機ですが、利為の葬儀では東条英機が弔辞を読 みました。
林銑十郎、阿部信行など旧加賀藩士が参列する中、東条は陸軍士官学校からの長い付き合いに 触れた、生前の反目が嘘のような哀切な文章を読み上げ、しかも途中で号泣しています。
参列者にとっては奇妙な光景であったことはいうまでもありません。
〜徳川家と同僚に!?〜戦後の前田家
太平洋戦争で当主前田利為を失った前田本家は、利為の長男である前田利健(まえだ としたつ) が継ぎます。
前田利建は宮内省式部官を務め、礼宮文仁親王(秋篠宮様)の浴湯の儀において旧広島藩主であった浅野長武とともに鳴弦の儀(めいげんのぎ)を執り行いました。
利建の子である前田利祐(まえだ としやす)は日本郵船に入社し、徳川宗家の当主である徳川恒孝(とくがわ つねなり)と同じ部で勤務していました。
前田の部の部長は事あるごとに「前田家と徳川家の当主を部下に持ったのは豊臣秀吉以来俺だけだ」と笑っていたそうです。
前田利祐も敬宮愛子内親王の浴湯の儀において徳川恒孝とともに鳴弦の儀を執り行いました。
親子二代で天皇家の重要な行事を行うなど、華族としての身分を失った前田家ですが現在でも重要な役割を果たしています。
まとめ
強大すぎる力を持つがゆえに、目をつけられないことを第一としてきた前田家。
結果として、明治維新においては重要な役割を果たすことはできませんでしたが、その血統は 現在にも脈々と受け継がれています。
目立ちはしませんでしたが、陸軍、そして皇室でも重要な役割を果たしています。
また、東大赤門、旧前田侯爵邸など、前田家の財産は今でも国の文化財として残されています。
日本最大の藩が一度も取り潰されず、現在にまで続いている。簡単なようで一番むずかしいことを前田家は脈々と続けていたのかもしれません。
以前にも戊辰戦争とビスマルクのことなどで、ご連絡申し上げた三村です。目黒区駒場に住んでおります。前田侯爵邸の隣です。前田家ご当主は数年前には、町会誌に投稿しておられましたよ。個人的なお付き合いはありませんが、噂では気さくな方だとのことです。前田家の歴史、楽しく拝読いたしました。前田家には、いろいろな資料も残っているとのこと。