豊臣秀吉の死後、豊臣家中は武断派、文治派に分かれて対立していました。
武断派は福島正則、加藤清正、黒田長政ら有名武将がたくさんいましたが、文治派は石田三成、小西行長くらいしか有名武将はいません。
しかし、実際は10万石以下の小大名が多く石田三成側にいたのです。
今回取り上げる太田一吉(おおたかずよし) もその一人です。
そんな嫌われ者武将、太田一吉の生涯を見ていきましょう。以下は太田一吉の年表になりま す。
西暦 | できごと |
---|---|
生年不明 | 尾張国で生まれる |
1585年 | 主君の丹羽長重が減封。豊臣秀吉に仕える。 |
1590年 | 小田原征伐。 |
1592年 | 文禄の役 |
1593年 | 豊後臼杵にて6万5千石の大名となる |
1597年 | 慶長の役 小早川秀秋の軍監として渡海 |
1599年 | 武断派の訴えにより蟄居 |
1600年 | 関ヶ原の戦い 改易 |
1617年 | 京都にて死去 |
豊臣秀吉の家臣として
太田一吉は、織田信秀の家臣である太田宗清の子として生まれました。太田氏は美濃国太田村を起源とする一族で、宗清の代に織田家に仕え始めたようです。
幼少期のことは分かっていませんが、幼い頃から織田家家臣である丹羽長秀に仕えていまし た。
丹羽家の家臣として順調に出世していた一吉ですが、1585年に丹羽長秀が死去してしまいます。
跡を継いだ丹羽長重はまだ幼く、豊臣秀吉によって120万石の所領を15万石に減封されてしまいました。
太田一吉はこの時に秀吉に誘われ、丹羽家を出奔し豊臣秀吉の直臣となりました。
秀吉は丹羽家から大量に家臣を引き抜いており、太田一吉と同時期に引き抜かれた武将には、五奉行の一人長束正家をはじめ、村上義明、溝口秀勝らがいます。
こうして秀吉の家臣になった一吉は美濃国で一万石を領し、九州征伐、小田原征伐と従軍し、持ち前の管理能力を活かし、豊臣政権の官僚武将の一人として成長していきます。
軍目付として活躍 武断派武将に嫌われる…
太田一吉は官僚武将として徐々に活躍の場を広げていきました。
太田一吉が最も活躍したのが朝鮮出兵です。
文禄の役では軍目付として出征しています。軍目付(いくさめつけ)とは、戦場での将兵の監視を担当する役職です。合戦中の勝手な行動を取らないようにする見張りの役目、合戦後の論功行賞のために勲功を確認する役目も担いました。
太田一吉をはじめ、目付の石高は1万石程度の武将ばかりでしたが、彼らの機嫌を損ねるとせっかく手柄を立てても秀吉に報告してもらえません。
結果として軍目付は戦場において絶大な権力を持つことになったのです。
実際に、軍目付からの失態の報告を受け、豊後国の大名である大友義統が改易されています。
その際に太田一吉は豊後臼杵城にて5万石を加増されています。これは軍目付を束ねていた 石田三成の引き立てがあったからだと言われています。
ただでさえお目付け役として嫌われているのに、戦功を挙げている自分たちより多く報酬を受け取っているのです。諸大名から嫌われるのも無理はありません。
こうして、諸大名との関係を悪化させつつも、太田一吉は着実に出世街道を進んでいったのです。
軍功を挙げるも蟄居…武断派との対立
慶長の役でも太田一吉は軍目付として出陣しています。当初は小早川秀秋の担当だったようです。
文禄の役では官僚的役割が多かった一吉ですが、慶長の役では実際に軍功も挙げています。
緒戦の南原城の戦いでは宇喜多秀家隊に属し勝利を挙げます。
さらに加藤清正の奮戦で有名な蔚山城の戦いでは、加藤清正、浅野幸長らとともに過酷な籠城戦を耐え抜き、日本軍を勝利に導いています。
戦働きでも大活躍の一吉でしたが、帰国後に武断派諸将からの訴えにより蟄居処分となってしまいました。朝鮮の役で虚偽の報告をしたという訴えでした。
文禄の役での大友義統に続いて、小早川秀秋も減封処分になったのも影響しています。
いくら戦功を挙げたところで、文禄の役から続いていた武断派諸将との軋轢は避けられませんでした。
石田三成の引き立てにより出世を遂げた太田一吉でしたが、秀吉死後は逆風にさらされることになってしまいました。
関ヶ原の戦い~最期
蟄居処分となった太田一吉は居城である臼杵城にて再起の時を図ります。
この時に、後に江戸幕府で外交顧問として活躍する、ウィリアム・アダムス(三浦按針)、ヤン・ヨーステンらを乗せたオランダ船リーフデ号が臼杵に漂着し、船員を救助しています。
そして1600年、関ヶ原の戦いが勃発します。
文治派で石田三成と仲の良かった太田一吉はもちろん西軍に属し、嫡子太田隆満とともに上洛します。
関ヶ原の戦い本戦には参加せず、近江瀬田橋の警護にあたっていました。
西軍敗北後は為す術もなく、国元に帰還します。
しかし朝鮮の役で軍功を挙げるなど、戦にも自信のあった一吉は東軍に降伏することなく、居城である臼杵城にてなおも東軍に抵抗しました。
太田一吉は東軍武将である中川秀成に居城を攻められます。
中川秀成は西軍に属した疑いをかけられており、疑いを晴らすため必死の攻撃を試みます。両軍は佐賀関でぶつかり、太田一吉は敗北し、居城臼杵城に籠城します。
中川秀成は文禄の役の失態にて改易されかけた過去をもっており、攻城戦は苛烈を極めたといわれています。ここでも軍目付時代の恨みが影響してしまいました。
さすがの一吉も攻撃に耐えきれず、黒田如水の仲裁でついに東軍に降伏します。死一等は減ぜられ、改易処分となりました。
こうして大名としての地位を失った太田一吉は剃髪し宗善と号し、1617年に京都にて没しました。
最後に
官僚、武将として大活躍も、武断派武将との軋轢により改易となってしまった太田一吉。
仮に関が原の戦いにて東軍についたとしても、東軍諸将とうまくやっていくのは難しかったかもしれません。
太田一吉のような官僚派大名は、多くが関ヶ原の戦いで太田一吉と似たような運命をたどることになります。