偉人解説

裏ですでに貴族とつながっていた! 北条を凌ぐ大物 三浦義村の生涯

三浦義村

こんにちは!レキショックです!

今回は、三浦義村の生涯について義村の後半生を中心に紹介します。

梶原景時の変から比企能員の変、畠山重忠の乱まで、御家人たちの争いの中では毎回重要な役割を演じ、北条氏と組むことで常に勝者の側に立ってきました。

和田合戦、承久の乱でも見事な立ち回りで勝者となり、他の御家人たちが次々と没落していくなか、北条氏と並ぶ大勢力として生き残ります。

藤原定家の書いた当時の日記、明月記にも、義村は不可解な人物と書かれるほど、義村の行動は謎に包まれていますが、義村は御家人たちの抗争の裏で貴族とつながり、着々と実力を蓄えていました。

3代将軍、源実朝が暗殺され、源氏将軍家の血筋が途絶えると、義村がかねてよりつながっていた九条家の九条頼経が鎌倉殿に迎えられ、いよいよ義村のもとに権力が転がり込んできます。

今回は、三浦義村の生涯、摂関家とつながり、幕府政治を牛耳った義村の卓越した政治手腕について紹介します。

御家人たちの抗争を勝ち残り、北条氏に次ぐ地位に 三浦義村の前半生

義村の父 三浦義澄

三浦義村は、代々源氏に仕えてきた相模の大勢力三浦氏の棟梁、三浦義澄の子として、1168年頃に生まれました。

源平合戦が始まった頃はまだ12歳で、16歳の時に、平家追討軍に父の義澄とともに従軍しています。

源頼朝存命中は、義村も若かったことから、父の義澄が三浦氏の代表として幕府の重鎮となっており出番はありませんでした。

その後、頼朝が亡くなると、義村も政治の表舞台にたつことになります。

義村は、御家人たちの抗争では、つねに渦中の人物となります。

梶原景時の変では、無二の親友、結城朝光が梶原景時に讒訴された際に、和田義盛らと図って、御家人66名が名を連ねた弾劾状の提出を主導し、景時失脚に大きく貢献します。

この頃には、娘の矢部禅尼を北条泰時に嫁がせ、2人の間には得宗家につながる北条時氏が生まれており、北条義時とは縁戚関係になりました。

比企能員の変でも、頼家の子、一幡を擁して小御所に立て籠もった比企一族の討伐に参加しています。

さらに、変後に、実朝の身柄を北条時政邸から北条政子の屋敷に移した際には、義時とともに使者として派遣されています。

畠山重忠の乱では、頼朝挙兵時に、重忠によって三浦氏の本拠、衣笠城が攻められ、三浦一族の長老、三浦義明が討たれた恨みもあり、特に主導的な役割を果たしました。

義村は、畠山重忠の嫡子、畠山重保を由比ヶ浜で討伐し、その後重忠との戦いに従軍します。

重忠討伐後には、重忠のいとこにあたる稲毛重成、榛谷重朝兄弟を誅殺し、義村は乱の始まりと終わりを担うことになりました。

その後に起きた牧氏事件では、将軍実朝の身柄を北条時政の屋敷から義時の屋敷に移し、時政を引退に追い込んでいます。

この時には、時政が平賀朝雅擁立を図った際に、北条政子は慌てて義村に相談し、義村が主力となって実朝の身柄を移したと愚管抄には記載されており、政子の信頼も得るまでになっていました。

義村がここまで重要な役割を演じることができたのも、鎌倉にほど近い三浦の地を根拠地にした大勢力であったからにほかなりません。

三浦氏は、何か鎌倉で変事が起きれば、一番早く大軍勢を鎌倉に集められる勢力であり、それゆえに御家人間の争いでは三浦氏をいかに味方につけるかが勝負の鍵となったのです。

そして、同じ三浦一族である和田義盛が北条義時と争った和田合戦では、直前で義盛を裏切り、北条側につき、北条氏の勝利に大きく貢献しています。

和田合戦で義盛は、義時の排除のみを狙い暴れまわっており、義村としても、味方して勝ったところで戦後の展望が描けないと思ったのかもしれません。

和田合戦によって、三浦一族の長老の立場にあった和田義盛が滅亡し、義村は、名実ともに三浦氏のトップに立つことになりました。

この時義村は45歳で、50歳になっていた盟友、北条義時と協調し、さらに幕府内で躍進を続けていきます。

源氏将軍家滅亡は義村にとっても大チャンス? 実朝暗殺、承久の乱での義村

実朝を討つ公暁

和田合戦から6年後の1219年には、3代将軍の源実朝が、甥の公暁によって暗殺されてしまいます。

実朝を暗殺した公暁も討たれ、公暁の兄弟、阿野全成の子の阿野時元も相次いで討たれたことで、源氏将軍家の男子は僧となっていた頼朝の三男、貞暁を除いて全員亡くなってしまいました。

義村は公暁の乳母父を務めており、実子の駒若丸が公暁の門弟でもあったことから、北条義時と並んで実朝暗殺の黒幕ともされています。

真偽は不明ですが、源氏将軍家の断絶は、結果として義村にとっては勢力拡大の好機となりました。

北条義時、政子らは、実朝の後継に、後鳥羽上皇の皇子を望みましたが、実朝が亡くなったこともあり、後鳥羽上皇に断られてしまいます。

代わりに、藤原摂関家の九条家出身の九条頼経が跡継ぎとされますが、九条家から将軍を迎えようと進言したのが、他ならぬ義村でした。

愚管抄には、親王下向を拒否した後鳥羽上皇に対し、三浦義村が源氏との縁もある九条家から将軍を出すことを提案したとあります。

九条頼経の父で、九条家の当主であった九条道家は、源頼朝の妹、坊門姫の孫にあたる人物で、源氏の血もわずかながら引いていました。

その九条家は、源氏以上に、三浦義村と深いつながりを持っており、この縁が義村の道を開いていきます。

三浦義村は、比企能員の変直前の1203年に土佐国の守護に任じられており、数年後には、九条家が土佐国の知行国主となっています。

この縁から、義村はかねてから九条家とつながりがあったと考えられ、4代将軍の選定時には、九条頼経擁立を提案できるまでの関係になっていたのでしょう。

頼経の鎌倉下向直後に、義村は駿河の国司に任じられており、幕府の最重要国の一角を手に入れ、北条氏に次ぐ地位を持つ御家人となりました。

これは、北条泰時の義理の父という関係から北条氏によって与えられた地位といわれます。

ですが、当時の関東は新たに鎌倉殿となった九条頼経のものであるともいえ、頼経の父、九条道家が、義村を引き立てるために推挙したとの説もあります。

吾妻鏡では、4代将軍の選定時期の箇所が欠落しているため詳細は不明ですが、愚管抄通りであれば、九条家のために義村が力を尽くしたことになります。

九条道家も、息子の将軍就任に尽くした義村に、国司任官で報いたということなのかもしれません。

こうして、幕府内でもその地位を高めた義村は、承久の乱でも、朝廷、幕府両陣営の命運を握ります。

義村の弟、三浦胤義は上皇方につき、義村を引き入れようと書状を送ります。

ですが、義村は、これを無視し、北条義時に従う姿勢を見せ、北条氏に唯一対抗しうる三浦義村を味方に引き入れられなかった後鳥羽上皇はあっけなく幕府に敗北しました。

後鳥羽上皇も、北条義時を排除したのちは、三浦義村を執権とした傀儡政権を作ろうと考えていたとされており、北条氏と上皇で三浦義村を取り合ったことになります。

義村が上皇方につかなかった理由の一つには、義村と関係の深い九条道家、その舅である西園寺公経が親幕府勢力であったことも関係していたと思われます。

西園寺公経は、源頼朝の妹、坊門姫の娘を妻としており、公経の娘は九条道家に嫁いでいたことから、幕府、九条家と近い関係にありました。

公経は、上皇挙兵をいち早く鎌倉に伝えたため、幕府の信頼を獲得し、乱後の朝廷で、婿の道家とともに幕府の支持を得て実権を握りました。

仮に承久の乱で義村が上皇方について執権になったところで、後鳥羽上皇の絶大な権力にひれ伏すしかなく、上皇方につくメリットは薄かったと言えます。

結果として、義村にとっては幕府、朝廷ともに自分に都合の良い体制になりました。

義村と関係の深い西園寺公経、九条道家が朝廷の中心となったことで、義村はいよいよその本領を発揮していくことになります。

九条頼経のもとで北条氏をも凌ぐ勢力に 晩年の三浦義村

九条頼経

承久の乱で、幕府軍は京都に攻め上がり、幕府軍の大将、北条泰時らはその後も京都に駐留し、戦後の新体制づくりに取り組みます。

三浦義村も、幕府軍の一員として上洛していますが、京都では泰時よりもむしろ義村が中心となって戦後処理にあたっていました。

義村は、京都で御所の守護を命じられ、さらに、義村自らが交渉にあたり、後鳥羽上皇の息のかかっていない新しい天皇として、後堀河天皇を擁立します。

これもすべて、朝廷の実権を握った西園寺公経、九条道家との縁がなせるものでした。

義村は同年に、新たに設置された河内国の守護に、九条家が知行国主であったことから初めて任命されています。

さらに息子の三浦泰村は、肥前国、筑前国にあった日宋貿易の拠点の荘園を任せられており、三浦氏は京都とのつながりから日宋貿易を掌握するまでに成長していきます。

これも西園寺公経、九条道家の計らいによるもので、承久の乱を経て義村は、京都と幕府の間を取り持つことのできる人物として存在感を増していきました。

義村が権勢を増していく中、義村の盟友、北条義時は承久の乱の3年後に亡くなります。

その後に起きた伊賀氏の変では、義村は一連の事件の首謀者とも目されますが、政子と直談判することでこれを収めています。

そして、大江広元、北条政子も相次いで亡くなり、幕府の中心を担っていた有力者がいなくなると、義村が最後の実力者として、執権の北条泰時と並んで幕府の中心となりました。

政子が亡くなった年に新設された13人の評定衆にも、義村は長老として名を連ねています。

やがて九条頼経が元服すると、頼経は血縁関係のない北条氏よりも、九条家と関係の深い義村ら三浦一族に近づくようになり、何度も三浦邸を訪問するなど、親しい関係を築きます。

頼経の成長は、源頼朝以来、源氏将軍家との血のつながりを武器に政権を担ってきた北条氏の優位性が初めてなくなることにつながりました。

執権北条泰時の子、北条時氏は義村の孫にもあたり、この頃の義村は、血縁的にも北条氏に有利な立場を取れるほどでした。

それでも義村は、北条氏に公然と敵対することはありませんでした。

義村の行動からは、政治が安定するまでは、北条氏に表舞台に立ってもらい、自分はその陰で実力を高めようとする思惑が透けて見えます。

義村はこの頃に、九条頼経の元服に際し、頼経を藤原氏から源氏に改姓させようとしていました。

この試み自体は、藤原氏よりも格下にあたる源氏への改姓を朝廷側が嫌がったことから実現はしていません。

頼経が源氏将軍家の名跡も継ぐことができていれば、頼経自身が強大な権力を持ち、その力を使って義村はさらなる力を手に入れていたかもしれません。

この頃には、京都の公家が、朝廷での昇進を求めて、北条氏ではなく、朝廷のトップ、九条道家とつながりを持つ義村に取次を願うということも起きています。

朝廷にとっては、幕府の顔は北条氏ではなく義村であると見ていたことになり、義村が実質的に幕府の意思を決定していたともいえます。

こうして北条氏をも凌ぐ実力者となった義村は、北条義時の死から15年近くが経った1238年、70歳の時に、将軍頼経上洛の先陣を務めるという生涯最高の栄誉を手にします。

この上洛では、北条泰時、時房は後陣に甘んじており、京都とつながりを持ち、北条氏とも血縁関係を持つ義村が幕府の実質的なトップに立った瞬間であったともいえます。

北条氏をも凌ぐ権勢を手に入れた義村でしたが、この上洛の翌年に71歳で病死してしまいます。

こうして、幾度となく訪れたチャンスを我慢し、最高の形で権力を手に入れた義村の野望は終わりました。

北条義時をも凌ぐ大政治家であった義村だからこそ、三浦氏はこれほどの力を手に入れられたともいえ、義村の死後、三浦氏はその強大な力を扱いきれず、自滅の道を歩むことになります。

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