こんにちは!レキショックです!
今回は、文官として13人の合議制のメンバーの1人に名を連ねた中原親能について紹介します。
大江広元らとともに、文官として鎌倉幕府を支えていたイメージが強い親能ですが、実は源平合戦前から頼朝と知り合いで、頼朝の信任を得て、幕府の体制確立に大きな役割を果たしました。
源平合戦にも従軍し、その所領も全国にわたっており、文官だけでなく、頼朝政権を支えていた坂東武士たちにも負けずとも劣らない実力を有していました。
親能の子をはじめ、中原一族は鎌倉時代を通じて、その高い文官能力と他の御家人に匹敵する領地を背景に、重要な役割を占め、鎌倉の陰の実力者として権勢を振るっていくことになります。
豊後国の戦国大名、大友氏も、親能の勢力を背景に、後の発展の基礎を築くなど、親能の力は後世にも影響を及ぼしています。
そんな鎌倉幕府を形作った文官、中原親能の生涯、子孫のその後について紹介します。
頼朝の旧知の仲として幕府の体制づくりに貢献 源平合戦までの親能
中原親能は、朝廷の儒学の研究や訴訟事例を担当する明法博士を務めていた中原広季の子として生まれたと言われています。
中原氏は代々明法博士を務める名門で、親能の弟には、のちにともに鎌倉幕府を支えることとなる大江広元がいます。
一説には、親能は、参議を務めていた名門貴族の藤原光能の子で、中原氏に養子に入ったともいわれており、いずれにせよ、都で格式のあった家の出身でした。
その後、親能は縁あって、若い頃に京都から相模国に下って、相模国で少年時代を過ごし、その時に4歳下の源頼朝と知り合ったといわれています。
頼朝とは年来の知音であったと、当時を代表する日記『玉葉』にも記されており、数少ない都出身の同世代ということで、特に仲良くなっていたのでしょう。
また、親能は、相模国の足柄のあたりに勢力を持っていた波多野経家の娘を妻としており、若い頃から東国とある程度のつながりを持っていたといえます。
その後、親能は京に戻り、中納言の源雅頼に家人として仕えていたものの、頼朝とは引き続き連絡をとっており、頼朝挙兵時には、親能が仲介役となって、頼朝の意思が源雅頼を通じて朝廷に届けられており、頼朝の立場を保証する役割を担っていました。
もっとも、親能の行為は、平家にとっては謀反人に加担しているに等しく、検非違使の平時忠が、親能を尋問するために雅頼邸に押し入るといった事件も発生しており、こうした事件もあったことから、親能は鎌倉に逃れ、頼朝に直に仕えるようになったといわれています。
こうして親能は、頼朝の挙兵当初から鎌倉で文官として活躍するようになり、行政能力にも長けており、頼朝の信頼もあったことから、頼朝政権を支える中心人物になります。
かつての主人、源雅頼を介して頼朝と朝廷を結ぶ役割も担っており、後白河法皇が木曽義仲の圧迫に耐えかねて、頼朝に救援を依頼した際には、源義経とともに先遣隊として上洛し、朝廷や貴族たちとの交渉にあたっています。
大江広元や三善康信など、京都出身の文官たちが鎌倉に来るのは、頼朝挙兵からしばらく経った後のことであり、それまでは親能が京都との交渉を一手に引き受けており、頼朝政権になくてはならない人物となっていました。
当時の九条兼実の日記『玉葉』には、親能の名が義経よりも前に記されており、頼朝の代官であった義経よりも親能の方が名が知られており、それだけ重要視されていたことがわかります。
その後も親能は、京都において、義仲追討のために上洛してきた頼朝軍と合流し、その中心武将であった土肥実平らとともに平家追討の策を練っており、後白河法皇と頼朝をつなぐ使者として京都と鎌倉を頻繁に往復していました。
この頃には、弟の大江広元を別当とした政務担当機関の公文所が設置され、親能も寄人の1人とされ、幕府政治の中枢を担う存在となりますが、親能は政治だけでなく、軍事面での活躍も見せています。
親能は源範頼の参謀役として、西国各地で平家追討の任務にあたっており、壇ノ浦の戦い直前には、平家の背後を遮断するために九州に上陸し、九州各地を転戦しており、頼朝も親能の活躍に対して感状を発給するなど、軍事面でも大きな活躍を見せていました。
この時の活躍もあり、のちに親能は九州各地に所領を得ることになります。
こうして、頼朝を初期から軍事、政治両面で支えた親能は、頼朝が平家滅亡の悲願を達成した後も、頼朝政権を支える重要人物として活躍を続けていくこととなります。
九州に大勢力を築き、頼朝の娘の養育も任せられる 幕府成立後の親能
源平合戦後の親能は、頼朝の信頼の厚い側近として、政治面にその活躍の場を戻し、しばしば上洛して京都と鎌倉の折衝にもあたり、京都守護に任じられていました。
親能は京都だけでなく、九州の統治も任されていたともいわれており、頼朝が征夷大将軍に任じられてから2年後の1194年頃には、天野遠景の後任として鎮西奉行に就任したとされ、九州一帯の統治を担うことになります。
同時に豊後国、肥後国、筑後国の守護にも任命されており、西日本を中心に各地に膨大な所領を獲得することになりました。
親能が九州全土の統治権を持っていたかまでは不明ですが、少なくとも、この頃の御家人の中では九州における最大勢力であり、ただの一文官というわけではありませんでした。
頼朝の信任が厚かったことは、頼朝の次女の三幡の乳母父に親能が任命されていることからも確認できます。
頼朝は長女の大姫を後鳥羽天皇の后として入内させようとしていましたが、大姫の急死によって叶わず、それ以降は次女の三幡の入内を目指しており、京都と深い縁を持つ親能も、入内への貢献が期待されていたのでしょう。
頼朝の子どもの乳母を任せられていたことからも、親能は、頼朝を創業期から支えてきた忠臣として、北条氏や比企氏に匹敵するほどの権勢を有していたといえます。
親能は、頼朝の死後、跡を継いだ源頼家を支えるために発足した、北条時政や比企能員ら、宿老たちによる13人の合議制にも名を連ね、幕府の重鎮として不安定な幕府政治を支え続けます。
しかし、合議制発足からわずか3ヶ月後、親能が愛情をかけて育ててきた頼朝の次女、三幡が14歳の若さで急死してしまいます。
三幡は、親能の屋敷があった鎌倉の亀ヶ谷に葬られ、当時は京都に滞在していた親能も慌てて鎌倉に帰り、三幡の死を悲しみ、同日には出家し、寂忍と号しました。
三幡の死以降、親能は吾妻鏡などの記録に登場する回数がめっきり減っており、三幡の死をきっかけに第一線を引退し、息子の中原季時に跡を譲ったとみられます。
その後の親能は、鎌倉を離れ京都に拠点を移しており、表立っては幕府政治に関わらなかったものの、息子の季時が京都守護を務めていたこともあり、長年のつながりを活かして、陰ながら幕府を支えていたものと思われます。
そして、源頼朝の死から10年後、66歳の生涯を閉じることとなりました。
中原親能の子孫、一族のその後 幕府政治の中心を担い続け、北条氏に次ぐ御家人に
中原親能の死後、その跡を継いだのは子の中原季時でした。
季時は、親能の子として、早くから頼朝に側近として仕えており、訴訟の取次も行うなど、若い頃から文武両道の活躍を見せています。
親能の引退後は、その京都とのパイプも継承し、京都守護の役職も任せられました。
同時期に、鎌倉幕府の中でも重要な国である駿河国の守護にも任じられており、かつての北条時政と同じ役職にあったことからも、季時の幕府内での地位の高さが見て取れます。
季時はその後も幕府の中心人物として活躍しますが、3代将軍の源実朝が公暁に暗殺されると、その死を悼み出家し、それまで14年の長きにわたって務めていた京都守護の役職も、同年に辞任しました。
それでも季時は、宿老として幕政に重きをなし、承久の乱の際には、鎌倉の留守役を務めたとも、北条泰時に従って京都へ進発したともいわれており、承久の乱から15年後の1236年に亡くなっています。
季時以降の中原親能の子孫については記録が残っておらず、詳細は不明となっていますが、中原親能のいとこ、中原師茂の子、中原師員が4代将軍九条頼経に仕えるなど、中原一族は鎌倉時代を通じて幕政の中心を担い続けます。
中原師員は、九条頼経のもとで、北条泰時が設立した、執権、連署を中心とした13人の合議制である評定衆に名を連ね、師員は、執権、連署を除いた評定衆の席次筆頭を務め、26年の長きにわたって評定衆を務め上げ、その豊富な知識で、将軍、御家人たちの信頼を集めました。
この評定衆には、宿老として三浦義村など古参の御家人や、北条一族なども参加していますが、師員は筆頭の座を譲らなかったことからも、その権勢の大きさが見て取れます。
師員の子孫も評定衆を務めるなど、代々幕政に重きをなし、子孫は摂津氏として室町幕府にも仕え、13代将軍足利義輝のもとで、政所執事を務めた摂津晴門につながることになります。
また、豊後国の戦国大名として続き、戦国時代にはキリシタン大名として名を馳せた大友宗麟も輩出した大友氏の祖、大友能直も、中原親能と直接の血のつながりはないものの、親能の猶子として九州の地盤を継いでいます。
能直は、母が波多野氏の一族の出身で、親能の妻と縁があったことから、親能の猶子とされ、能直自身も源頼朝の信頼が厚かったことから、親能の九州の地盤の一部を譲られ、現在の大分県にあたる豊後国を中心に大勢力を築くことになります。
能直以降も、大友氏は代々豊後国を中心に大勢力を築き、戦国時代には島津氏、龍造寺氏と並ぶ九州を代表する戦国大名となりますが、この大友氏の繁栄も、源平合戦をはじめ、鎮西奉行として九州統治に大いに貢献した中原親能の功績があってこそといえるでしょう。
[…] これは、広元の兄である中原親能が、早くから頼朝に仕えて、京都との外交交渉を担っていた縁によるものでした。 […]
[…] 遠元以外の4人は、大江広元、中原親能、二階堂行政、藤原邦通と、京都出身の文官たちが占めていたことから、武士ながら彼らとともに政務に携わることができる遠元の行政能力の高さが目立ちます。 […]
[…] 能直は、13人の合議制の1人にも名を連ねている中原親能の養子にもなっており、その縁もあって、養父の中原親能が領していた九州の地盤を引き継ぎ、のちに戦国大名として発展するきっかけとしています。 […]