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阿野全成の生涯 子孫のその後 子孫は南朝の天皇につながる!

阿野全成

こんにちは!レキショックです!

今回は、源頼朝の弟の阿野全成の生涯について紹介します。

源義朝と常盤御前との間に生まれた全成は、実の弟の義円源義経らが次々と命を落とす中、政治の表舞台に立つことはなく、頼朝の兄弟たちの中で最も長生きしました。

しかし、頼朝死後の源頼家、御家人間の抗争に巻き込まれ、甥の頼家によってその命を奪われてしまいます。

全成の子どもたちも、源氏の血を引く者として悲劇の最期を遂げることになりますが、全成の娘がその系譜を後世に残し、後醍醐天皇の后として阿野家は再び歴史の表舞台に舞い戻ることになります。

今回は、阿野全成の生涯、南朝の天皇につながった子孫のその後について紹介します。

一門として陰から頼朝を支える 頼朝存命中の阿野全成

常磐御前

阿野全成は、源頼朝よりも6歳年下で、源義朝と側室の常盤御前の間に生まれました。

墨俣川の戦いで戦死した義円は2歳下、源平合戦で大活躍した源義経は6歳下で、2人とも常磐御前を母に持つ実の弟にあたります。

全成が6歳の頃に、父の源義朝は、平治の乱で平清盛に敗れ命を落とし、常盤御前と3人の子どもたちは平清盛に捕まり、出家することで命を助けられました。

全成は醍醐寺にて出家し、この時に全成と名乗り、以降、死ぬまで還俗することなく、僧の身分であり続けました。

全成は、平家全盛の世の中ではおとなしく僧としての修行に励んでいたものの、全成が27歳の時に、以仁王が打倒平家の令旨を発し、兄の源頼朝が伊豆で挙兵すると、これに合流するために、密かに寺を抜け出し、東国へ向かいます。

以仁王

しかし全成が東国へ到着した頃には、頼朝は石橋山の戦いで敗れ、安房国に逃げ延びている最中であり、全成は同じく戦いに敗れた佐々木4兄弟の佐々木定綱らと合流し、佐々木氏の領地でしばらく匿われることになります。

そのうちに、頼朝は上総広常ら房総半島の武士たちの支援を受けて勢力を回復し、全成は房総半島の頼朝のもとに出向き、ついに兄弟は対面を果たすことになりました。

頼朝にとっても全成は、自分の身内で初めて参陣してくれた弟であり、頼朝も泣いてこれを喜び、全成に武蔵国の長尾寺を与えたといいます。

やがて全成は駿河国の阿野の地を与えられ、以降は阿野冠者と呼ばれ、阿野の姓を名乗りますが、戦場に出た弟の義円や義経とは違い、あくまでも僧として戦場に出ることはなく、一御家人として頼朝の身辺で仕えていました。

全成も戦場での活躍はなかったものの、近親者として頼朝の信頼は厚く、北条政子の妹の阿波局を妻に迎え、阿波局は頼朝の次男、源実朝の乳母に任じられたことから、全成夫婦は実朝の養育も任せられるようになるなど、源氏一門として幕府でも一定の地位を築いていました。

源実朝

全成自身も子に恵まれ、阿野頼全阿野時元をはじめ、6男2女をもうけています。

政治の表舞台に出ることはなかったことから、同じ頼朝の弟である源義経や源範頼が、平家との戦いでは大活躍したにも関わらず、次々と謀反の疑いをかけられ、その命を落としていく中、全成だけは最後まで頼朝の信頼が変わらず、頼朝の死によって、頼朝の兄弟の中で唯一存命する人物となります。

こうして、頼朝の弟でありながら政争に巻き込まれることなく過ごしていた全成でしたが、頼朝の死後、全成は否応なしに争いに巻き込まれていくことになります。

北条と結び頼家に殺され、息子は北条に討伐される 頼朝死後の全成

源頼家

頼朝の存命中は、政治の表舞台に出ることはなかった全成でしたが、頼朝の死後、2代将軍の源頼家の時代になると、将軍職をめぐる争いに御家人間の抗争も加わり、全成も争いに巻き込まれてしまいます。

頼朝の死から9ヶ月後に起きた梶原景時の変では、九条兼実の日記、玉葉にて、景時が頼家に対し、実朝擁立の動きがあると密告したものの、他の御家人の反発を買い失脚したと記述されており、真偽は不明ながらも、頼朝の死の直後から、頼家に代わって実朝を擁立しようとする動きはあったようです。

当時、実朝擁立の先頭に立っていたのは北条時政で、比企一族が頼家の乳母を務め、さらに比企能員の娘が頼家との間に一幡という男子をもうけていたことから、比企氏が幕府の実権を握るのを防ぐために、頼家排除を狙っていました。

北条時政

実朝の乳母は、北条時政の娘でもある全成の妻、阿波局で、当然、その夫である全成も、実朝擁立を狙う勢力として認識されていました。

全成は幕府内での実績もなく、もしかしたら本人にも、実朝の乳母父として実権を握る気はさらさらなかったかもしれませんが、全成は無関係の立場を許されず、頼家からも実朝擁立派とみなされ、ひいては自分に謀反する気でいると思われてしまいます。

そして先手を打った頼家は、甲斐源氏の棟梁である武田信光に命じて全成を謀反人として捕らえ、監禁します。

頼家は、北条政子の妨害により叶わなかったものの、全成の妻である阿波局も捕らえようとしていたことから、実朝の乳母である全成夫妻を排除することで、実朝と北条氏の関係を断ち切り、北条時政による実朝擁立の動きを封じようとしたと考えられます。

こうして、反頼家派とみなされた全成は、命だけは助けられ、13人の合議制のメンバーの1人である八田知家の所領の常陸国へ流罪とされました。

八田知家

しかし、その1ヶ月後、頼家の命令を受けた八田知家によって全成はその命を奪われ、50年の生涯を終えることとなりました。

全成の死から一月後、全成の息子の1人で、京都の延年寺にいた阿野頼全が、のちに源実朝の側近となる源仲章、かつて全成を助けた佐々木定綱によって命を奪われています。

全成の息子で唯一残った阿野時元は、北条政子や北条時政の助命運動により命は助けられ、全成の所領のあった駿河国の阿野の地で、16年もの間ひっそりと暮らします。

しかし、1219年に3代将軍の源実朝が亡くなると、そのわずか一月後に、かつて自分を助命した北条政子の命を受けた北条義時の家人、金窪行親によって討伐され、命を落としました。

時元が城郭を築き兵を集め、宣旨を得て将軍になろうとしていたので討ち取ったと記録はされているものの、歴史の表舞台から去って長い時元が、わずか1ヶ月で将軍になろうと行動できるとは到底考えられず、源氏の後継者候補となる時元を事前に抹殺するための北条氏の陰謀であったといわれています。

時元には子がいたものの、北条氏全盛の世の中ではひっそりと生きるしかなく、そのうちに記録からも姿を消し、阿野全成の系譜は鎌倉時代の終わりから室町時代にかけて途絶えることとなります。

全成の系譜は途絶えたものの、全成の娘の1人が、京都の公家の藤原公佐に嫁いでおり、公佐が阿野の姓と全成の所領を引き継いだことから、全成の血筋は京都の公家として続いていくことになります。

後醍醐天皇の寵妃 阿野廉子につながる 南朝の天皇家として続いた全成の子孫

阿野廉子

阿野全成の娘が、全成の死後に阿野の地の一部を相続し、かつて後白河法皇の側近として活躍し、鹿ヶ谷の陰謀で処罰された藤原成親の系譜に連なる藤原公佐に嫁いだことから、公佐の子孫が阿野の姓を名乗り、全成の血を引く阿野家は、公家として続いていくことになります。

阿野家は、鎌倉時代を通じて、出世する者は少なく、不遇の時代を過ごしますが、鎌倉時代末期の当主、阿野実廉の時代に、実廉の妹の阿野廉子が後醍醐天皇の側室となったことで、一躍、日の目を見ることとなります。

阿野実廉、阿野廉子兄妹は、阿野全成から5代後にあたり、兄の実廉は、当初は鎌倉幕府に仕えており、新田義貞が鎌倉を攻めると、北条側の追っ手を振り切り鎌倉を脱出、倒幕軍に加わり功績を挙げていました。

一方、妹の廉子は、後醍醐天皇の后、西園寺禧子に仕える女官でしたが、後醍醐天皇に気に入られ側室となり、後醍醐天皇との間に3男2女をもうけ、後醍醐天皇が鎌倉幕府によって隠岐に流罪とされた際にも同行し、後醍醐天皇に献身的に尽くしました。

後醍醐天皇

流罪となった後醍醐天皇の苦境を支えた人物として、後醍醐天皇の復帰後に台頭し、廉子自身も政治家としてのセンスがあったため、しばしば政治にも参画し、南北朝時代にも、南朝を支える実力者の1人となります。

そして廉子の実の子である後醍醐天皇の皇子、後村上天皇が即位したことで、廉子は天皇の生母となり、阿野全成の血筋はついに天皇にまでつながることとなりました。

後村上天皇のあとは、後村上天皇の子の長慶天皇、後亀山天皇の兄弟が南朝の皇位を継ぎますが、後亀山天皇の代に、南北朝合一が行われ、以降は北朝の天皇が代々皇位を継いでいったため、阿野全成の血筋は、南朝の終焉とともに皇室から姿を消すことになりました。

後村上天皇

一方、公家としては全成の血筋は続いており、南朝に仕え続けた阿野家は、阿野実為の代に南北朝合一を迎え、実為は南朝側の代表として室町幕府との交渉にあたり、南朝の幕引き役を担います。

その後も公家として続き、足利将軍家とも深いつながりを持つようになり、応仁の乱が終わった頃の当主の阿野季綱は、室町幕府10代将軍足利義稙に仕え、側近として細川氏や大内氏など、有力大名との交渉役を務めるなど、幕政にも深く関与するようになりました。

しかし、季綱は万里小路家から養子を迎え、ここに阿野全成以来続いた源氏の血筋は途絶えることとなりましたが、全成ゆかりの阿野家は、引き続きその名跡を残し、江戸時代以降も続いていきます。

幕末の当主、阿野公誠は、尊王攘夷派の公家として三条実美などとともに積極的に活動し、徳川慶喜に攘夷決定の督促をする勅使の役を務めるなど、幕末の動乱でもその存在感を発揮します。

阿野家は華族令では子爵の地位を与えられ、大正、昭和の当主、阿野季忠は、華族銀行として知られた十五銀行で副頭取まで上り詰め、その後も様々な企業で取締役を務め、貴族院議員にもなるなど活躍しました。

阿野季忠

しかし、季忠は1944年に亡くなり、息子の阿野季房も同時期に戦死したため、ここに阿野家は断絶することになってしまいました。

阿野季房には娘の佐喜子氏がおり、五摂家の一つ、近衛家の出身で、内閣総理大臣を務めた近衛文麿の弟、近衛秀麿の子である水谷川忠俊氏に嫁いでおり、阿野家の足跡を現代に伝えています

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