今回は、大老として権勢をふるい、桜田門外の変で暗殺されてしまった井伊直弼の死後、井伊家はどのように幕末維新の動乱を乗り切ったのかについて紹介します。
井伊直政以降、譜代筆頭の名門として5人もの大老を輩出するなど、江戸時代を通して幕府政治で重きをなした井伊家。
幕末の当主、井伊直弼は、ペリー来航以降混乱する幕府政治を大老として仕切り、強引に通商条約を結びます。
その結果、徳川斉昭ら諸藩の大名、全国の志士からの批判を浴び、将軍継嗣問題もあいまって安政の大獄を断行し、水戸藩士らによって桜田門外の変で暗殺されてしまいました。
直弼死後の井伊家は息子の井伊直憲が継ぎますが、譜代筆頭の地位にあった井伊家は、その後理不尽な仕打ちを受けてしまうこととなります。
今回は、幕末維新の激動の中、井伊家、彦根藩はどのように動いたのか、明治時代以降の井伊家はどのような道を歩んだのかについてご紹介します。
名誉回復に奔走 幕末の井伊家
桜田門外の変で暗殺された井伊直弼は、その死をしばらく隠され、のちに病死と発表されました。
幕府の決まりでは、大名が殺害されるなどした場合は家名断絶、領地没収となりますが、井伊家は譜代筆頭であったため、病死とし、その間に息子の井伊直憲に家督継承が行われたという形をとったものでした。
直弼の死後、公武合体を進める幕府政治はさらに混乱し、一橋慶喜が将軍後見職に就任、松平春嶽が政治総裁職に就任するなど、かつて井伊直弼が対立した一橋派が実権を握ります。
この時、彦根藩は直弼の死を秘匿した罪に問われて、10万石を減封されてしまいました。
さらに、井伊直政以来任せられていた京都守護の任務も解かれ、譜代筆頭の名門としての名声は地に落ちてしまいます。
これ以降、幕末の井伊家は失った名声を取り戻そうと必死の努力を続けることとなります。
彦根藩では勤王派の岡本半介が藩の実権を握り、井伊直弼の側近であった長野主膳らを斬首し、一橋派へアピールします。
さらに彦根藩は幕府の軍事活動にも積極的に協力しました。
江戸湾警備、大阪、堺警備、京都御所警備など諸藩が負担に思っていた警備活動にも進んで参加し、幕府への忠節をアピール。
禁門の変、天狗党の乱にも出兵し、特に天狗党の乱では諸藩が斬首役を拒否する中、投降した天狗党員の斬首役も進んで引き受けました。
井伊直弼の仇討ちという思いも藩士の中にはあったのかもしれません。
こうした努力のかいもあり、没収された10万石のうち、3万石の回復に成功しています。
しかし、彦根藩は第二次長州征伐で長州藩に大惨敗を喫してしまいます。
長州征伐に際し、彦根藩は先鋒を任せられますが、直政以来の赤備えで出陣し、長州藩の最新装備のかっこうの餌食となってしまいました。
旧式装備だった彦根藩はまともに立ち向かえず、最新装備を有する紀州藩の増援により何とか持ちこたえるという有様でした。
こうして幕府に尽くして名誉回復に奔走した井伊家でしたが、戊辰戦争においてまさかの行動を取ることとなります。
史上最大の裏切り 戊辰戦争での井伊家
長州征伐の失敗後、徳川慶喜が15代将軍となり、やがて幕府は政権を朝廷に返上する大政奉還を行います。
慶喜は新政権でも中心の座につくことを目論んでいましたが、王政復古の大号令が発せられ、その夜に行われた小御所会議において、薩摩藩などの息のかかった岩倉具視ら新政府によって、慶喜は官位、領地を返上することを求められました。
彦根藩はこれに対し、会津藩、桑名藩ら佐幕派諸藩とともに反発しますが、衝突を回避しようとする慶喜に従って大阪城に移ります。
その後、薩摩藩ら倒幕派の挑発もあり、鳥羽・伏見の戦いへと突き進みます。
会津藩、桑名藩などを中心とした旧幕府軍は京都に向け進撃しますが、彦根藩はここで徳川慶喜を裏切り、新政府側へつくこととなったのです。
彦根藩は、徳川が政権を返上したのだからこれに従う必要はない、南北朝時代には井伊家は南朝側として宗良親王とともに戦った勤王の家という理屈で新政府側につきました。
彦根藩は大阪から脱出し、鳥羽・伏見の戦いでは大津に進撃し旧幕府軍の連絡を遮る役割を果たしました。
同時期に藤堂家の津藩も新政府側に寝返っており、かねてより幕府の先陣を任せられていた家である井伊直政の井伊家と藤堂高虎の藤堂家が揃って徳川を裏切るという形になってしまいました。
井伊家の中では、井伊直弼以来、一橋派に目の敵にされ、理不尽な扱いを受けていた状況に対し、譜代筆頭といえど幕府への忠節心は揺らいでいたのかもしれません。
その後、彦根藩はともに佐幕派として活動していた桑名藩討伐の先鋒を新政府に願い出て、朝廷への忠節をアピールしようとします。
もっとも、桑名藩では藩主で京都所司代を務めていた松平定敬を排除し、家老が恭順したため戦闘には至りませんでした。
その後も彦根藩は新政府軍として東に進み、新撰組の近藤勇の捕縛などで活躍しています。
旧幕府軍を追って北上した小山の戦いでは、大鳥圭介率いる伝習隊に撃破されてしまいますが、その後も白河、会津と転戦し、最終的に戦死者29名を出しながらも、彦根に凱旋しました。
その結果、賞典録2万石を獲得しています。
こうして、徳川家から受けた恩を仇で返すような形になってしまった井伊家でしたが、結果として討伐の対象となることもなく明治時代をむかえることとなりました。
子孫は彦根市長に!現在でも続く井伊家
幕末の井伊家の当主であった井伊直憲は、明治時代以降も当主を務め、1871年には欧米に留学もしています。
この時の随員にのちに専修大学の創設者となった相馬永胤がいます。
彦根藩からは中央大学の創設者である増島六一郎も出ており、彦根藩は現在の日本の私立大学にも大きな影響を与えていることとなります。
1884年には華族令発布に伴い伯爵を授爵しました。
直憲の息子の井伊直忠は、生涯の大半を能に打ち込み、東京の屋敷に能舞台を作るほどでした。
現在、彦根城博物館に収蔵されている能面などは、直忠が収集したものです。
1944年には井伊家が所有していた彦根城を彦根市に寄贈し、現存天守を現代にまで伝える役割を果たしています。
直忠の息子の井伊直愛は、1953年から1989年の長きに渡って彦根市長を務めました。
在任中は殿様市長と呼ばれ、桜田門外の変以来のわだかまりを超えて、井伊家当主として水戸市の木村伝兵衛市長と話し合い、彦根市と水戸市の親善都市盟約締結に成功しています。
また、井伊直愛は農学博士としての一面も持っており、小型甲殻類のアミ類の研究を行い50種類以上もの新種を発見、25年がかりで研究論文をまとめるなどの活躍もしました。
その後の井伊家は、息子の井伊直豪を経て、現在は井伊裕子氏の娘婿となった井伊直岳氏が当主となっています。
井伊直弼以降、不名誉な扱いを受け、譜代筆頭であるにも関わらず薩長新政府に従い徳川家を追い詰める役割を担った井伊家。
同じ徳川四天王の家である庄内藩酒井家は最後まで旧幕府側として新政府と戦い、高田藩榊原家や岡崎藩本多家も新政府軍に従ったものの、徳川赦免のために動いたり、佐幕のために脱藩したものもいた中、早期に勤王一本で固まった井伊家は特徴的です。
それほど、幕末の理不尽な扱いは井伊家にとって耐え難いものだったのでしょう。
井伊直政以来の幕府への忠節よりも領地、領民を守ることを重視した井伊家。
裏切り行為は後世においては非難の対象となりますが、彦根の民を戦火に巻き込むことは避けられ、彦根城を当時の姿のまま現代にまで伝えることにつながったのは、当時の判断としては正しかったのかもしれません。
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