幕末 近代

大蔵大臣、日本銀行総裁を務めた渋沢栄一の後継者 渋沢敬三 67年の生涯

栄一の孫 渋沢敬三

今回は、渋沢栄一の孫で、栄一の後継者となった渋沢敬三について紹介します。

渋沢敬三は渋沢栄一の息子、渋沢篤二と敦子夫妻の長男として生まれました。

動物学者を志していた敬三でしたが、父篤二をめぐる問題、そして日本経済界を代表する栄一の懇願もあり、否応なしに実業界へ入ることとなります。

しかし敬三は実業界でその才能を発揮し、祖父、栄一に負けずとも劣らない活躍を見せることとなりました。

今回はそんな敬三はどのように実業界で活躍していたのか、戦後の混乱の中、どのように日本経済を救ったのか、紹介します。

祖父、栄一の必死の頼みに応える 渋沢家の後継者に

渋沢敬三は、渋沢栄一の息子、渋沢篤二と、伯爵橋本家出身の敦子の長男として1896年に生まれました。

橋本敦子(渋沢敦子)

敬三は現在の筑波大学附属小学校を卒業し、筑波大学附属中学に入学、裕福な家庭の息子として学問、趣味を思う存分楽しむ幼少期を送ります。

しかしこの頃、父親で、栄一の後継者であった渋沢篤二が、妻を家から追い出し芸妓と一緒になると言い出し、栄一から廃嫡されてしまいます。

渋沢家では篤二の子であった敬三を後継者とすることが決まり、敬三は中学卒業時には渋沢同族株式会社の社長に就任しました。

この頃、敬三の母である敦子は夫の篤二が世間を騒がせている状況を申し訳なく思い、大きな家に住むのはすまないとして敬三ら兄弟を連れて都内を転々としていたといいます。

敦子と敬三兄弟

こうした自身の周りの環境の変化は敬三にも重くのしかかり、そのせいもあってか敬三は病気をして落第してしまうほどでした。

敬三はこうした状況の中でも勉強に励み、当時の名門教育機関であった仙台の第二高等学校に進学します。

敬三は中学時代に民俗学者の柳田國男と出会い大きな影響を受けており、自身も動物学者を志して、農科への進学を希望していました。

しかし、渋沢栄一は敬三に第一銀行を継ぐようにと羽織袴の正装で、頭を床に擦り付けてまで懇願したため、敬三は動物学者の道を断念し、英法科へ進学しました。

母の敦子は、敬三の合格をとても喜んでいたといいます。

敬三は自分の興味のある民俗学も学びつつ、実業界で活躍するために必要な知識を身につけ、東京帝国大学経済学部に入学します。

大学入学後も敬三の民俗学への情熱は衰えず、高校時代の同級生とともに、自邸の車庫の屋根裏に動植物の標本、化石などを収集したアチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)を開設しています。

この博物館の収蔵品はやがて日本各地の民俗学博物館の資料の母体となっていきます。

こうして勉学、趣味に邁進した敬三は、本来ならば卒業後は栄一の第一銀行に入り、後継者として活躍するはずでした。

しかし敬三は他人の飯が食ってみたいと、貿易為替を行う横浜正金銀行に入行します。

そしてロンドンで勤務し、横浜正金銀行時代には、京都府知事を務めていた木内重四郎の娘、木内登喜子と結婚しています。

登喜子の母の磯路は三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎の娘で、この結婚を機に渋沢家と岩崎家は縁戚同士となりました。

結婚から3年後には長男の雅英が生まれますが、この頃になると祖父、栄一の体調が思わしくなくなり帰国し、満を持して第一銀行に重役として入行しました。

第一銀行入行後の敬三はまじめに働きましたが、もっとも、敬三は元来動物学者を志しており実業界での活躍は望んでいなかったため、銀行は大切だと思いつつも面白いと思ったことはなかったと語っています。

しかし敬三は実業界で頭角を現していき、栄一の後継者という立場を抜きに周囲の人々に認められるようになっていくのです。

日銀総裁、大蔵大臣に 混乱する日本を救う

第一銀行に入った敬三は取締役を務め、やがて副頭取まで昇進します。

一方、渋沢家の家業であった澁澤倉庫でも取締役を務め、栄一の後継者として申し分ない働きをしていました。

やがて、1931年に渋沢栄一が、翌年には父の篤二が亡くなり、敬三は名実ともに渋沢家を背負って立つ存在となります。

渋沢栄一

この頃、日本は日中戦争を始め、1941年には真珠湾攻撃を機についにアメリカとも戦争状態に突入してしまいます。

戦争が始まってしばらく経った1942年、第一銀行副頭取を務めていた敬三のもとに、大蔵省から日本銀行の副総裁の職の打診が来ました。

第一銀行側では、敬三は大事な跡取りなのでと断りますが、当時大蔵大臣を務めていた賀屋興宣は頑なに敬三を日銀に引き入れようとし、ついに敬三は第一銀行から日本銀行に移ります。

そして1944年には日銀総裁になっています。

もっとも、当時の日銀に課せられた使命は、軍事費を賄うための赤字国債をいかに発行するかで、敬三が金融政策に力を発揮する機会は限られていました。

それでも、敬三の日銀副総裁就任に対し、敬三の母の敦子は泣いて喜んだといいます。

敦子は「第一銀行の頭取になるのは親の七光りだが、栄一が死んで10年以上経って日銀に迎えられたのは単なる親の七光りではない、これで栄一や篤二に合わす顔がある」と語っているように、実業家としての敬三が世間に認められていたことを証明するできごとでした。

やがてポツダム宣言受諾により日本は戦争に敗北します。

敗戦後の日本経済は、戦時中に大量に発行された国債と急激なインフレにより混乱の極みにありました。

そんな中、東久邇稔彦の跡を受け総理大臣になった幣原喜重郎は、縁戚にもあたる敬三に対し大蔵大臣就任を要請します。

幣原喜重郎

敬三の在任期間は約半年ほどでしたが、その間に、預金封鎖新円切替を実施しインフレ対策を行い、また、高税率の財産税を臨時徴収することで国債の整理にあたりました。

特に、財産税徴収は、莫大な資産を抱えていた華族にとっては致命的で、多くの華族は代々受け継いできた屋敷などを物納せざるをえなくなり、没落していく者も多くいました。

渋沢家も例外ではなく、敬三は自らが導入した財産税のために三田にあった自邸を物納しましたが、このくらいは当たり前と平然としており、敷地内の片隅にある小屋に引っ越したといいます。

また、GHQによって財閥解体が行われた際に、渋沢家も財閥指定を受けましたが、これにも抵抗することなく従いました。

渋沢家は栄一が財閥を志向していなかったため、三菱や三井のように他の会社の株の大半を保有するということをしておらず、家業の澁澤倉庫でさえ保有率は30%を切っているほどでした。

GHQも再調査の結果、財閥には該当しないと通告しましたが、敬三はあえて何もせず、財閥解体の対象となる道を選びました。

この時に敬三は「ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷の百姓に戻ればいい」と語っています。

やがて大蔵大臣を辞任した敬三は公職追放を受け全ての職を失い、わずかに残った土地で野菜を栽培し、客人に手製の料理をふるまうといった生活を送りました。

もともと実業界を志していなかった敬三は、これを機会にと渋沢家から解放されることを望んでいたのかもしれません。

もっとも、妻の登喜子はこうした敬三の態度に嫌気がさしたのか、敬三や子供たちを置いて家を出ていってしまい、社長秘書や英語教師として自活する道を選んでいます。

晩年の敬三 民俗学者としての業績

1951年に公職追放が解除されると、敬三は経団連の相談役や、現在のKDDIにあたる国際電信電話の初代社長、文化放送の初代会長などを務めました。

さらに政治の世界にも関わり、1957年には外務省移動大使として中南米諸国を訪問しています。

敬三は幼い頃から興味を持っていた民俗学に生涯を通じて精力的に取り組んでおり、大学時代に自邸の車庫の屋根裏に開設した私設博物館「アチック・ミューゼアム」は、日本常民文化研究所となり、現在は神奈川大学の研究所となっています。

また、コレクションは現在の大阪万博公園内にある国立民族学博物館の資料の母体となっています。

自らも研究に勤しみ、漁業史の分野で日本農学賞を受賞する功績を挙げました。

これは、療養先の静岡県内浦で、村の400年にわたる生活の記録を発見し、『豆州内浦漁民資料』として刊行したもので、他にも漁業史に関する本を多数出版しています。

これらの活動は銀行家として精力的に働きながら並行して進められていたもので、敬三の行動力の高さが光ります。

敬三は民俗学者の活動の支援も積極的に行い、給与や調査費用、出版費用などを援助し、日本の民俗学の発展に大いに貢献しました。

戦後はこうした活動に割ける時間も多くなり、若い頃に家庭の事情で諦めた民俗学への思いをぶつけることができました。

こうして生涯に渡って実業、政治、民俗学と様々な分野で活躍した敬三は、1963年10月に67歳で亡くなりました。

長男の渋沢雅英氏は、陸軍を経てアメリカで道徳再武装運動に従事し、1994年から10年にわたり、渋沢栄一が設立に関わった東京女学館の館長を務めています。

また、2020年まで渋沢栄一記念財団理事長を務め、敬三に関する書籍も出版するなど、渋沢家の事績を後世に伝える役割を果たしています。

偉大な祖父、栄一の後継者として、自らが志した民俗学への道を諦めてまで実業の道に進んだ敬三。

戦後の財閥解体、財産税への対応からも分かるように、敬三には実業の世界への執着心はなく、自分に課せられた使命のためにただひたすらに努力した人物でした。

日本資本主義の父、渋沢栄一の後継者としてだけではなく、自分の実力で活躍し、混乱期の日本を救った渋沢敬三。

その生き様からは、偉大な祖父を持った苦労、心境など考えさせられるものがあります。

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