出来事解説

享保の改革の内容とは?徳川吉宗によって行われた改革の結果は?わかりやすくまとめました。

「享保の改革」とは、悪化の一途をたどっていた幕府財政の立て直しを目的に、政治、経済、司法など、様々な分野で前例にとらわれない政策が行われた幕政改革です。

江戸幕府8代将軍の徳川吉宗によって享保元年(1716年)より開始され、寛政の改革、天保の改革と並ぶ江戸の三大改革と呼ばれています。

この記事では、享保の改革が行われた背景、内容、改革の結果についてわかりやすく解説していきます。

享保の改革の背景 ~なぜ「享保の改革」は必要だったのか~

Tokugawa Yoshimune.jpg徳川吉宗(Wikipediaより引用)

徳川吉宗が江戸幕府8代将軍となった享保元年、徳川幕府は財政を中心に、様々な面で危機的な状況を迎えていました。

どうして危機的な状況となったのか、江戸幕府が抱えていた問題を一つずつ見ていきましょう。

・米価格の低下 ~幕府の収入が減ってしまった~

元々、徳川幕府にとっては「米」が税金の代わりでした。

収穫された米を「年貢」として徴収し、それを商人に売ってお金に換え、幕府を動かす為の様々な費用に充てられます。

家臣である武士たちにも、禄高米という形で、給料の代わりに米が渡され、彼らはそれを売って、日々の生活費とする、というシステムです。

しかし、17世紀の後半に入ると、農業技術の発達で、米の収穫高は大きく増え、市場に出回る米は必要とされる量を超えて、余りがちになっていきます。

また、米以外の様々な商品作物の生産も、各地で行われるようになっていきます。

そうなると、人々も無理して高い米を買おうとはしませんから、値段を下げなければ売れなくなり、米の価格が低下したのです。

米の価格が低下するということはつまり、年貢による収入が減るということです。

年貢収入の減少は、幕府や藩など収入を米で得ている武士階級に深刻な影響をもたらしました。

貨幣改鋳による混乱 ~大事な通貨に信用が置けない~

幕府は収入が減った分を補うため、使われている通貨を改鋳し、従来のものより、含まれる金・銀の量を下げた貨幣を大量に生産する、いわゆる貨幣改鋳を実行します。

同じ1両でも、金の含有量を少なくすればその分多く作れますから、余分に作った分が幕府の収入となるわけです。

しかし幕府は、貨幣改鋳を何度も無節操に行ってしまいます。

そのため、世の中には質が悪い上に価値の違う貨幣が何種類も出回るという事態になり、貨幣価値は下落し、経済を混乱させてしまいます。

訴訟件数の激増 ~社会が進歩して問題が複雑に~

江戸時代中期は、新田開発が盛んになった時代でもありました。

一方で、土地の開発によって各地の農村では、土地の境界線や、農業用水の使用権などの争いが激しくなっていました。

また、都市部では貨幣経済が急速に浸透したことで、金の貸し借り関係のトラブルが続出します。

さらに、それらを裁くための法律も未整備だったことで、裁判の処理が滞り、裁判自体が進まないということもありました。

享保の改革の内容 ~改革はどんなことが行われたのか?~

享保の改革の主な目的は、破綻した幕府の財政を立て直すことでした。

ただ、徳川吉宗が将軍となったときは、幕府財政の破綻に加え、都市、農村でも問題が多発し、社会全体が不安定になっていました。

そのため、改革の範囲は政治だけではなく、司法や社会福祉など、非常に広い範囲に渡っています。

そんな広範囲にわたる改革を一つずつ見ていきましょう。

・質素倹約令 ~出ていくお金を減らそう~

将軍となった吉宗が、まず手を付けたのは、幕府の運営に必要な費用から、無駄な支出を抑えることでした。

上は大名から、下は庶民に至るまで、全ての人々に「質素倹約」を促し、食事や服装など、日常生活での贅沢を禁止します。

命令するだけでなく、将軍自身が手本にならなければと考えて、吉宗は一汁三菜の食事や、粗末な木綿の衣服の着用などを自ら実践し、生涯を通して、質素な生活を送りました

倹約に対する、代表的なエピソードが「大奥」に対する改革です。

大奥(Wikipediaより引用)

大奥とは、将軍の正室を始め、側室や、その世話をする女性が暮らす場所です。

華やかな彼女たちが身に付ける、高価な着物や化粧品などの費用も、大きな出費となっていました。

吉宗は、大奥の女性のうち、特に美しい者を50人選んで書き出させた上で、彼女らを直ちに解雇するように命じます。

大奥の出費を減らす為には人を減らさなければならない、美人であれば例え解雇されても、すぐに嫁に行けるだろう、という訳です。

こうして幕府自らが身を削り支出を抑え、財政の健全化に取り組みました。

・上米の制 ~緊急の費用を大名から出してもらおう~

家臣への棒給(給料)の支給も滞りがちとなっていた幕府の状況では、改革のための費用をどこから捻出するかが緊急の課題でした。

そこで、吉宗は諸国の大名に対し、「上米の制」を発布します。

「それぞれの領地一万石につき百石の米を上納せよ。その代わり、参勤交代で江戸にいる期間を一年間から半年間に短縮する」というものです。

「参勤交代」とは、各地の大名が交代で家臣を引き連れて江戸にやって来て、一年間を江戸で勤めなければならない、という制度です。

大名の幕府に対する忠誠心を計り、同時に、莫大な出費を強いる事で、反乱を起こす力を削ぐという目的もありました。

米を上納させる代わりに、参勤交代の期間を短縮させ、大名の負担を軽くする事で、バランスを取るという訳です。

この制度で、年間で幕府には18万7千石が納められ、赤字続きの財政は、とりあえず一息つくことができました。

・定免法と五公五民~年貢を少しでも多く~

毎年入ってくる年貢の量を増やすために定められたのが、「定免法(じょうめんほう」です。

それまで、徴収される年貢の量は、毎年の米のでき具合によって、その年ごとに決める、という「検見法(けみほう)」で決めていました。

この方法は、豊作・不作に応じて年貢の量を調節できる反面、収められる年貢量が一定しないという欠点があります。

これに対し、「定免法」は、その土地ごとに基準を定めて、年ごとの豊作・不作に関わらず、決まった量を徴収するやり方です。

さらに吉宗は、それまで収穫高のうち、4割を年貢に、6割を領民の取り分とする、いわゆる四公六民であったところを、それぞれ5割ずつの「五公五民」に引き上げます。

これらによって、幕府に入ってくる収入が増えた上、毎年の量も安定しました。

ただ、農民にしてみれば、負担割合が増えた上に、不作の年でも例年と変わらない量を取られる訳ですから、当然ながら不満は続出します。

この問題に対しては、サツマイモなどの、悪天候に強い作物の栽培を奨励することで対応しています。

また、酷い凶作の年には「破免検見」といって、その年だけ年貢の負担を減らす、という救済処置も存在しました。

・新田開発の進歩 ~開発できる土地は無駄にしない~

吉宗が将軍になる前から、新田の開発は行われていました。

しかし、それは湖沼や溜池、小川の周辺といった場所が中心で、開発によって最も豊かになるはずの、川の中流・下流域は、手つかずの所が多く残っていました。

当時は築堤技術が未熟で、河川の周辺では大雨で増水した時に田畑が水浸しになってしまうからです。

吉宗はなかなか進まない新田開発の状況に対し、紀州流という新しい方法を導入します。

これはその名の通り、吉宗の以前の領地であった紀州藩(現在の和歌山県)から連れてきた技術者たちによるもので、今まで危険とされていた、中下流域やデルタ地帯の開発を可能としました。

吉宗による新田開発によって、毎年の米の収穫高を大幅に増やすことに成功したのです。

・米価格の調整 ~できるだけ高く米を売りたい~

米の収穫が増えても、入ってくるお金を増やすためには、米の価格を高値で維持しなければなりません。

吉宗は米相場に介入し、後世に「米将軍」とあだ名が付くほどの、悪戦苦闘を続けることになります。

米の価格がなぜ下がるのかと言えば、米が市場に出回りすぎて、大量に余っているからです。

そこで吉宗は、有力な商人に命じて米を買い占めさせ、流通量を減らして、価格を引き上げようとします。

他にも、大阪の堂島にあった米市場を公認したり、米切手の売買を許可したりと、様々な方法を採ります。

しかし、これらはあまり成果を上げませんでした。

農作物である米は、天候などによって生き物のように価格が上下するので、将軍といえども自由にコントロールできるわけではなかったのです。

米の価格を調整する最後の手段は、貨幣を改鋳し通貨の流通量を増やすことでした。

将軍になった当初、吉宗は改鋳されていた質の悪い貨幣を廃して元に戻しましたが、貨幣改鋳による出費に加えて、切り替えのために貨幣の流通量が減り、それがまた値下がりの一因になっていました。

そこで、元文元年(1736年)、「金銀が不足しており、貨幣の通用に不自由が出ている」という理由で新たに貨幣改鋳を行うことを発表します。

過去に乱発された改鋳とは違い、きちんと流通量を計算し、世間にも理解を求めた上で製造された通貨は、多少の混乱は伴いましたが、やがて市場に受け入れられていきます。

吉宗の貨幣改鋳によって、流通する通貨の量は増え、米価格は何とか無理のないところに落ち着きました。

・足高の制 ~家柄に囚われず人材を登用する~

当時の幕府では、一定以上の禄高を持つ武士で無ければ、重職に就くことができないという原則がありました。

つまり、才能のある身分の低い武士は重要な役に就けず、高い家柄の者だけが重職に就けたのです。

そこで考え出されたのが、「足高の制」です。

これは、役職に就く者の禄高が必要に満たない時、その不足分を補助するという制度で、現代の「役職手当」のようなものです。

足高の制により、旧来の身分制度を大きく変えることなく、優秀な人材を身分問わずに、重要な役職に就けられるようになりました。

・公事方御定書の制定 ~時代に合わせた法律を~

司法面の改革で代表的なものが、裁判を行う際の基本法典として作られた「公事方御定書」の制定です。

急増した訴訟に対して、当初、幕府は「相対済まし令」という法律を発し、金銭の揉めごとは当事者間で解決するように、という方針を採っていました。

しかし、力に物を言わせて借金を踏み倒す等のケースが続出し、基準となる法律の必要性が改めて浮上します。

作業は非常に難航したようで、享保5年(1720年)1月に法典の作成が命じられ、17年後にようやく草案が提出。

それを何度も手直しした結果、吉宗の治世末期である寛保2年(1742年)に、「公事方御定書」はようやく完成しました。

刑罰の基準を中心に、日常生活で起こる様々な訴訟について定めた公事方御定書は、その後も何度か改訂を加えられながら、幕府の司法の中心となりました。

曖昧な部分が多かった裁判に、はっきりした基準を生むことに成功したのです。

・町火消の創設 ~大火災による損失を防ぐ~

明暦の大火(Wikipediaより引用)

この時代の江戸は、火災にとても弱い町で、大火事が起きるたびに、家屋の修理や被災者の救済が、幕府の頭痛の種になっていました。

住居の大半が木や紙で出来ていた事や、極端な人口集中に加えて、当時の防火組織である「火消」は、それぞれの大名や旗本の屋敷を守るだけで、最も火災の起きやすい一般庶民の消火活動は遅れがちになっていたのです。

享保3年(1718年)、吉宗は町人で構成された消化集団である「町火消」の創設を命令、隅田川より西に「いろは四十八組」が、東の本所・深川には十六組が組織されます。

いろは組とその纏(Wikipediaより引用)

彼らは専用の纏を身に付ける事が許され、武家屋敷以外の消火活動においては、全てを任さていました。

町火消の創設以外にも、延焼を防ぐための空き地を設けたり、建物は瓦葺や土蔵づくりなどの燃えにくい材料にするよう義務付けたりと、被害を最小限に留めるための対策もとられました。

・目安箱の設置 ~庶民の声に耳を傾ける~

市民の生活に近い改革の中で、忘れてはならないのが、享保6年(1721年)に設置された「目安箱」です。

これは、評定所(裁判所)の前に置かれた箱に、訴えたいことを書いて投書すると、将軍に意見を直接見てもらえるというものです。

名ばかりでなく、目的に沿う運用をしていたとわかるのが、ある時、軍学者・山内幸内から目安箱に投函された文書に関するエピソードです。

この投書には、吉宗の政策に対する厳しい批判が書かれており、重役達は大変怒って、この者を直ちに捕らえて罰を与えるべき、と主張します。

しかし吉宗は、このような意見を言ってくれる者こそ大事だと言い、投書した幸内に褒美を与えています。

実際に目安箱に寄せられた意見から、小石川養生所の設置、新田開発、町火消の整備など、実際に幕府の政策に取り入れられた意見が数多くありました。

・小石川養生所の設立 ~国家による無料の治療院~

小石川養生所は、享保7年(1722年)、幕府が公式に設立した、無料の診療所です。

これは、目安箱への「病気になっても満足な治療を受けられない人が大勢いる」という投書をきっかけに、小石川薬園の一角に建てられました。

通院・入院の患者ともに受け入れており、入院の収容人数は、開設当初で40人ほど、後には200人まで入院できるよう拡充されています。

大都市である江戸には、単身の出稼ぎ労働者や、身寄りの無い老人も多く、彼らにとって病気で働けなくなるということは、死に直結する恐怖でした。

小石川養生所は、そんな彼らへの救済措置でもあり、福利厚生の面で画期的な政策と言えます。

3.享保の改革の結果

吉宗の改革は、どのような結果を生み出したのか、メリット・デメリット・後世への影響に分けて見てみます。

・享保の改革のメリット

最優先課題とされた「財政の立て直し」は、諸々の改革を通じてほぼ達成することができていました。

改革の開始から10年後の享保16年、幕府の年貢収納高は、歴代で最高水準となる180万石となり、備蓄金は吉宗が将軍を引退する時点で117万両を計上しています。

後述するイナゴの大被害の際にも、幕府はここから、庶民救済のための資金を捻出することが出来ました。

また、幕府政治を支える官僚機構の方も、足高の制による有能な人材の登用、公事方御定書の交付による法体系の整備によって、以前と比べて格段に整備されました。

さらに、町火消の整備や、小石川養生所の設立のように、防火・福利厚生という身近な面でも、安全に直結する政策がいくつも行われ、成功しています。

・享保の改革のデメリット

改革によるデメリットは、一般庶民、とりわけ農民の生活が苦しくなったことです。

その理由は、財政を立て直すために行われた、米に対する数々の制度改革でした。

年貢の負担割合が増えた農民の生活は、依然として苦しく、吉宗の治世末期や引退直後には、一揆と呼ばれる農民の暴動が各地で多発しています。

享保17年(1732年)には、イナゴの大被害に加え、幕府が米価調整の為に米を買い占めさせていたために、米の価格が一気に上がりました。

庶民の怒りは、買い占めを担当した商人に向けられ、翌年の享保18年(1733年)、江戸では暴徒化した民衆に、商家の米蔵がいくつも破壊され、帳簿が焼き捨てられています。

俗に「打ちこわし」と呼ばれる、このような事件は、吉宗の死後も度々起きました。

ここまでの混乱を招いたのは、米を少しでも多く作らせ、一粒でも多く徴収し、高く売ろうという目的を最優先したことにあります。

吉宗の改革は、あくまで「幕府のための改革」であって、「民衆のための改革」と言う面は薄いものだったのです。

・改革の後の時代への影響

享保の改革は、様々な問題を抱えていた幕府の政治を、時代に合ったものに修正し、安定させることに成功しました。

享保の改革以降も、幕府政治は吉宗によって作られた制度を踏襲しつつ、時代に合わせた変更を加えて運営されています。

その一方で、「民衆に米を強制的に作らせつつ、武士が支配階級のトップに立つ」という、ずっと続いてきた徳川幕府のやり方そのものが、限界を迎えていることも示しました

これより後の幕府の改革では、「武士は今までどおり身分の頂点に立つのか」、それとも、「前より力が弱くなった事を認めて新しいやり方にするのか」という問題と、常に向き合っていくことになります。

参考文献

・百瀬明治 『徳川吉宗』 (角川書店、1995年)
・笠谷和比古 『徳川吉宗』 (筑摩書房、1995年)

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