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奥州藤原氏の歴史 鎌倉幕府に仕えた一族も?

平泉 無量光院跡

こんにちは!レキショックです!

今回は、東北地方で独自の勢力を築き、源頼朝に滅ぼされることとなった奥州藤原氏について紹介します。

奥州藤原氏は、源頼朝の祖先である源義家に前九年の役後三年の役で協力した藤原清衡が奥州を掌握し、100年近くにわたって奥州を支配した一族です。

源平合戦の頃の当主、藤原秀衡は、奥州で取れる莫大な金を武器に平家とも渡り合い、源義経を奥州で引き取るなど中央政局にも深く関与しました。

その子の藤原泰衡の代に、奥州合戦で奥州藤原氏は滅ぼされてしまいますが、その後も奥州藤原氏の一族は生き延び、後世にその系譜を伝えていくことになります。

今回は、奥州藤原氏の歴史、源頼朝によって滅ぼされた後の奥州藤原氏のその後について紹介します。

源氏との関わりの中で奥州に勢力を確立する 奥州藤原氏の始まり

藤原清衡

奥州藤原氏は、藤原秀衡の祖父にあたる藤原清衡を初代当主としています。

藤原清衡は、平将門討伐で名を挙げた藤原秀郷の子孫にあたる藤原経清の子で、京都の藤原氏からも、藤原一族にあたる家として認められる存在でした。

清衡の妻は、奥州の支配者であった安倍頼時の娘で、安倍頼時は前九年の役で源頼朝の祖先にあたる源頼義と戦い討たれ、清衡の父の経清も安倍氏と運命をともにし、清衡は7歳にして父を失ってしまいました。

藤原経清は安倍氏の中心武将の1人であったため、本来ならば清衡も殺されるはずでしたが、清衡の母が、敵将であった清原武貞に嫁ぐこととなり、清衡も連れ子として武貞の養子となり難を逃れました。

その後、清衡はよそ者でありながらも、清原氏の後継者の一人となり、異父弟の清原家衡と清原氏の所領を分割し相続することになりました。

この所領分割は、源頼義の子、源義家の仲裁でなされましたが、異父弟の家衡は、清原氏の出身ではない清衡に所領が与えられることに不満を持ち、清衡を襲撃、清衡は妻子や一族を皆殺しにされ、源義家に助力を求め、これが後三年の役に発展し、家衡を討ち取ることに成功します。

後三年の役

こうして、源氏の介入により人生を狂わされながらも、最終的には源氏の助力によって周りの敵対勢力に打ち勝ち、奥州をめぐる戦いで最後に生き残った者として、奥州の支配者の地位を手に入れました。

これ以降、清衡は父の姓である藤原氏に姓を戻し、ここに奥州藤原氏が確立します。

藤原清衡は、奥州の金、馬などの特産品を京都の藤原氏に献上するなど、中央との関わりを深め、奥州の統治者としての地位を築き、京都からも認められる存在となります。

その豊富な資金力を武器に、大陸とも直接貿易を行うなど、経済的にも繁栄した藤原氏は、平泉に拠点を移し、中尊寺を造営するなど、中世を代表する文化都市、平泉を形作っていきました。

藤原清衡の跡は、息子の藤原基衡が継ぎます。

藤原基衡

もともとは、基衡の異母兄である藤原惟常が跡継ぎとされていましたが、基衡は父の死後に異母兄と争い、家督を簒奪する形で後継者の地位についています。

当たり前のように行われる兄弟争いは、のちに奥州藤原氏を破滅へと追い込むことになります。

基衡は、陸奥守として平泉に下向してきた藤原基成と深く結び、基成の娘を自身の息子の藤原秀衡に嫁がせ、基成の京都へのパイプを使い、さらに奥州の権力を高めます。

この頃には、当時の権力者であった藤原頼長が、奥州の年貢増額を要求してきた際に、その要求を突っぱね、藤原頼長が妥協するといったように、朝廷にも通用する力を備えるまでになっていました。

藤原頼長

この頃の京都では、平治の乱で平清盛が源義朝に勝利し、平家政権の確立に動き始めるなど、時代は大きく動いており、奥州藤原氏もこの流れに飲み込まれていくこととなります。

北方の王者 藤原秀衡

藤原秀衡

藤原基衡の跡は、息子の藤原秀衡が継ぎました。

秀衡の家督継承時には、家督争いは起きておらず、祖父、父の代での家督争いを教訓に万全の態勢を敷いての家督継承だったのでしょう。

秀衡は、京都で覇権を握った平家とは一定の距離を保ち、平泉は京都に次ぐ大都市となるなど、奥州で独自の勢力を保ち続けました。

しかし、平家をはじめ、京都の貴族、寺社勢力とはむしろ繋がりを深め、奥州の豊富な財力を使い、多額の寄進を行っています。

京都の勢力は秀衡の寄進に頼るようになりますが、一方で奥州を夷狄と蔑む姿勢は変わらず、このことは奥州藤原氏が中央政局とは一定の距離を保つ理由ともなりました。

もっとも、京都からすると、莫大な財力を持つ得体のしれない奥州藤原氏が中央政局に入り込むことで、やがて自身に取って代わろうとするのではないかと疑念を持っていたとも考えられており、距離を取ろうとするのもわかります。

実際に、九条兼実の日記『玉葉』からは、藤原秀衡が鎮守府将軍に任官したことに対し「乱世の基」と記述するなど、警戒していた様子が伝わります。

九条兼実

この頃、秀衡は平治の乱で敗北した源義朝の末子、源義経を奥州に受け入れています。

義経は鞍馬寺に預けられていましたが、僧となることを拒んで逃亡し、奥州にいた藤原基成の縁を頼って秀衡のもとへたどり着いていました。

やがて、以仁王が打倒平家の令旨を全国の源氏に出し、源頼朝が挙兵するなど源平合戦が始まりますが、秀衡は義経を匿いながらも、奥州の地で中立を決め込みます。

一方の平家は、富士川の戦いで頼朝に敗れるなど、劣勢が続き、打開策として、奥州藤原氏を自陣営に引き込み、頼朝の牽制を依頼することを図り、秀衡を陸奥守に推挙するなど、秀衡にアプローチを続けます。

秀衡はこれに対し明確な返事を避けた一方、義経に従者を付けて頼朝のもとへ送り出したものの、源氏側につくことも避け、源平合戦中は中立を保ち続けました。

もっとも、全く情勢を無視していたわけではなく、平家の焼き討ちにあった東大寺の再建費用を頼朝の5倍も納めるなど、その豊富な資金力で京都との関係は保ち続けました。

平家は奥州藤原氏を敵対視することはなかったものの、関東を勢力基盤とする源頼朝は、領地を接していることもあり、源平合戦の頃から秀衡を敵対視していました。

源頼朝

頼朝は源平合戦を通して鎌倉を動きませんでしたが、これは、秀衡の南下に備えていたためであるといわれています。

しかし、秀衡が育てた義経によって、壇ノ浦の戦いで平家が滅ぼされると、頼朝は奥州藤原氏に狙いを定めます。

頼朝は、独自のルートで朝廷と繋がりを持つ秀衡に対し、自分が朝廷との間を仲介すると圧力をかけ、秀衡を自身の下に位置づけようとしました。

このときに秀衡は、あくまでも頼朝との対決を避けようと、頼朝の言うことに従いますが、一方で、頼朝との対決を避けられないことを悟り、頼朝に追われていた源義経を庇護するなど、頼朝との対決準備を進めていきます。

しかし、義経が平泉に到着した9ヶ月後、秀衡は病に倒れてしまいます。

この時に秀衡は、正室の子である藤原泰衡を後継者に定め、泰衡の兄である庶子の藤原国衡には、泰衡の母を嫁がせることで、国衡と泰衡を義理の親子関係とし、兄弟争いが起きないようにしました。

奥州藤原氏は秀衡以外は家督争いを続けてきた歴史があり、頼朝と対立する中での家督争いは、奥州藤原氏の滅亡を意味することで、秀衡にとっては絶対に避けなければいけないことでした。

当時は、兄弟争いは当たり前でしたが、親子の争いは稀で、兄弟が協力し、義経を大将軍とすることで平泉が一丸となって頼朝に対抗するように遺言して秀衡は亡くなりました。

しかし、跡を継いだ藤原泰衡は、兄の国衡との兄弟争いは回避したものの、頼朝からの圧力を受け続け、秀衡の死から1年半後に、ついに頼朝の要求に屈して、源義経を衣川の館に攻め、義経を自害へと追いやってしまいます。

衣川

泰衡は義経の首を鎌倉に送り、頼朝に恭順の意を示しますが、頼朝はこれまで義経を匿ってきたことは反逆の罪にあたるとして、泰衡討伐を宣言し、奥州藤原氏はいよいよ滅亡への道を歩むことになります。

奥州合戦後の奥州藤原氏 滅亡後も細々と続いた系譜のその後

奥州合戦

義経を失ったのち、源頼朝は大軍を率いて奥州に攻め込み、奥州藤原氏は藤原国衡を大将に阿津賀志山に防塁を築き、頼朝軍を迎え撃とうとします。

しかし、平家との戦いをくぐり抜けてきた頼朝軍は強く、奥州藤原氏は抵抗するも敗れ、大将の国衡も和田義盛の軍によって討ち取られてしまいました。

藤原泰衡は平泉を脱出し北方に落ち延び、頼朝に助命を嘆願する手紙を送るも無視され、家臣の河田次郎に裏切られ命を落とします。

平泉も灰燼に帰し、奥州藤原氏は滅亡してしまいました。

当主の泰衡は首を晒されたものの、奥州藤原氏の一族の中には、その命を助けられた者もいます。

藤原泰衡の弟にあたる藤原高衡は、金が多く産出し、奥州藤原氏の経済力の源泉となっていた本吉荘を統治しており、京都との関わりも深かったことから、頼朝に降伏を許され、相模国の梶原景時の所領に配流されました。

梶原景時

その後は梶原景時の仲介により鎌倉幕府の客将のような立場となり、旧領であった気仙沼のあたりの統治を任されています。

このように、長年独自の勢力を保ってきた奥州を治めるのは容易ではなく、頼朝は奥州藤原氏の一族を生かして、その力をもって統治しようとしていました。

高衡と梶原景時の関係はその後も続き、梶原景時が鎌倉幕府を追われた際には、梶原一族が高衡の所領の気仙沼に落ち延び、現在も早馬神社として遺跡が残っています。

一方の高衡は、奥州藤原氏の滅亡から12年後、もとは越後国の平家勢力で、同じく梶原景時の庇護下にあった城長茂が鎌倉幕府に反旗を翻した建仁の乱に一味として加わります。

しかし、城長茂の決起は失敗し、高衡も父の秀衡の縁を頼り、貴族の邸宅に逃れるなど抵抗するも、最終的には幕府の追手に討ち取られてしまいました。

藤原高衡の死によって、奥州藤原氏の中心人物たちはほとんどいなくなってしまいましたが、2代当主、藤原基衡の弟にあたる藤原清綱の子、樋爪俊衡は頼朝に降伏し、常陸国の御家人の八田知家に預けられていました。

八田知家

のちに樋爪俊衡は所領を安堵され、藤原泰衡の子の藤原秀安を匿い、自身の娘を秀安に嫁がせ、養育しています。

藤原泰衡の子は、資料は乏しいものの、藤原時衡、秀安、泰高の3人がいたとされ、長男の時衡は奥州合戦で亡くなり、3男の泰高は、奥州合戦のときはまだ幼かったものの、のちに京都に出て奥州藤原氏の再興を目指しますが失敗し、熊野で余生を過ごしたと伝わります。

一方、秀安は樋爪俊衡のもとで成長し、2人の子をもうけ、そのうち、次男の藤原良衡は、安倍氏の一族の安倍頼久の娘を妻とし、藤原信衡をもうけています。

藤原信衡とその子の藤原頼衡は、代々安倍一族の娘を妻に迎え、頼衡の子の孝衡の代に、安倍氏を名乗ったといいます。

以降も、子孫は代々東北の地で続いていったといい、歴史の表舞台に舞い戻ることはなかったものの、100年以上にわたり奥州に覇を唱えた奥州藤原氏の系譜を継いでいくこととなりました。

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