偉人解説

北条時房の生涯 泰時の永遠のライバルとなる北条のNo.2

北条時房

こんにちは!レキショックです!

今回は、北条義時の弟、北条時房について紹介します。

義時の12個下の弟として生まれた時房は、北条氏の出身であるにも関わらず、2代将軍源頼家や、比企一族とも友好関係を築き、頼家追放後は北条一門の重鎮として一族の発展を支えました。

義時、泰時親子を忠実に支え、北条氏のために尽くした時房でしたが、その内心には野心を秘めており、執権となった泰時とは互いに支え合いながらもライバル関係にあったといわれています。

容姿も優れ芸も達者、文武にも優れた北条のNo.2、北条時房の生涯、得宗家に警戒された子孫のその後について紹介します。

蹴鞠の才能で源頼家の側近に 北条時房の出自

北条時政

北条時房は、源平合戦が始まる5年前の1175年に、北条時政の子として生まれました。

兄の北条義時とは12歳、姉の北条政子とは18歳離れており、源平合戦で活躍した武士たちより一つ下の世代となります。

時房の母の名前は伝わっておらず、身分の低い家の出であったと思われ、北条氏の嫡男候補となった牧の方の子、北条政範とは違い、北条氏の家督を継ぐ資格は持っていませんでした。

時房は、奥州合戦の直前に、三浦氏の当主、三浦義澄の弟の佐原義連を烏帽子親に元服し、当初は北条時連と名乗っていました。

烏帽子親の佐原義連は、後に会津の地を与えられ、子孫は会津の領主として伊達政宗らと奥州の覇権を争った蘆名氏に続いていきます。

やがて、源頼朝が亡くなり、源頼家が2代将軍となると、時房は頼家に側近として仕えることとなります。

源頼家

時房は蹴鞠に堪能であったことから、頼家に気に入られ、側近として仕えるきっかけになったといわれています。

当時は、京都の朝廷にも認められる武家政権にしようと、積極的に京都の文化を取り入れていた時期でもあり、頼家のもとには、かつて後白河法皇に仕えていた平知康が蹴鞠相手として仕えるなど、京都文化が重要視されていました。

時房は、蹴鞠や和歌など、京都の文化を柔軟に身に着けていき、頼家の信任を得ていきます。

当時の頼家は、後見役であり、妻の実家でもあった比企氏との距離が非常に近く、そのせいもあって、幕府内での権力を争う北条氏は頼家、比企氏との関係が悪くなっていました。

しかし時房は、北条氏の出身であるにも関わらず、頼家だけでなく、頼家に仕える比企一族とも友好関係を築き、北条一門とは離れ、独自の動きを見せていきます。

もっとも、この時の時房の行動は、比企氏に対するスパイの役割を果たしていたともいわれており、北条氏と比企氏、頼家が激突した比企能員の変では、時房は連座せず、以降は北条氏の一門として活躍することになります。

北条氏の中でも、兄の北条義時に従順に従い、畠山重忠の乱では、重忠討伐を強硬に主張する父、北条時政に対し、義時とともに討伐に反対する側に回ります。

畠山重忠

そして、義時と時政が対立した牧氏事件では、一貫して義時に従い、父の追放に一役買っています。

時政が失脚したのちは、北条氏のトップとなった義時に次いで、実質的に北条氏のNo.2の立場となり、兄弟で当時の最重要国であった相模国、武蔵国を治めるようになります。

もともと北条氏は北条時政、義時親子がそれぞれ独立した力を持ち、13人の合議制にも一族から2人参加していたこともあり、時政がいなくなったのちは、時房がその跡を埋めた形になります。

北条義時

北条氏の中枢を担うようになった時房は、北条氏と和田義盛の戦いである和田合戦においても、義時の子の北条泰時とともに、和田軍の主力と激戦を繰り広げ、これを撃退する大功を挙げました。

こうして、北条氏は和田義盛の務めていた侍所の別当の立場を手に入れ、政所の別当の地位も合わせて幕府のトップとして君臨することとなり、時房も幕府内でさらに活躍していくことになります。

泰時を支えながらも、ライバルとして競い合う 連署としての時房

北条泰時

御家人たちとの争いを経て、幕府の権力を掌握した北条氏でしたが、3代将軍の源実朝が暗殺されると、後継の将軍候補をめぐって幕府と朝廷が対立します。

北条義時は後鳥羽上皇の親王の将軍就任を希望し、時房に軍勢を率いて上洛させ、朝廷との交渉に当たらせました。

時房はかつて源頼家のもとで蹴鞠などを学んでいたこともあり、京都の文化に通じており、容姿も端麗であったことから後鳥羽上皇にも気に入られたといいます。

後鳥羽上皇

しかし、親王を将軍にすることは叶わず、妥協案として、藤原摂関家の出身である九条頼経を4代将軍とすることを許され、時房は頼経を鎌倉に連れて帰還します。

一連の将軍後継者問題で、幕府と朝廷の対立は激しさを増し、承久の乱が勃発すると、時房は北条泰時とともに大将として大軍を率いて上洛し、朝廷軍を打ち破る功績を挙げました。

そして泰時とともに朝廷の監視、西国の統治を担う六波羅探題に就任し、北条氏の執権政治を支えることになります。

やがて、北条義時が亡くなり、泰時が跡継ぎとして鎌倉に戻ることとなると、経験豊富で一族の長老的立場となっていた時房も泰時を補佐する立場である連署に就任し、鎌倉で政務に当たることになりました。

ともに手を携えて北条氏を支えていたかにみえる泰時と時房ですが、実は水面下では激しい主導権争いが行われていました。

時房としても、実績は積んでいるものの、8歳下である上に、義時の正妻の子ではない泰時に主導権を取られるくらいならば、自分が北条、幕府を主導したいという思いがあったのでしょう。

時房も、かつて義時が務めていた儀式の一部を引き継ぐなど、後継者を狙う行動をしていたものの、北条政子の意向もあり泰時が正式に後継者となり、時房は一時期京都に帰っていたこともありました。

北条政子

しかし、幕府政治の中心であった北条政子、大江広元が相次いで亡くなると、時房は泰時に補佐を請われて鎌倉に帰還し、執権を支える連署に正式に就任し幕政にあたることになります。

泰時、時房らは、かつて、2代将軍源頼家のもとで形成された13人の合議制の後継組織として、13人の評定衆による評定会議を新設し、三浦義村ら有力御家人、および実務官僚など計11人に泰時、時房を加えた13人による政治を推進しました。

それでも時房は、ことあるごとに泰時に反発しており、泰時が御所を移転し、自分が今後の幕政を主導することを宣言すると、その3日後に急に病と称し家に引きこもり、九条頼経の元服の儀式への参加を欠席するなど、泰時への反抗姿勢を見せていました。

泰時も、時房に主導権は渡すつもりはないながらも、一族の長老である時房の協力は是が非でも必要だったため、執権の力の源の一つである政所の別当の地位を時房に譲るなど、一定の妥協をしながら、時房との協力体制を維持し続けました。

時房も表立って泰時に反抗するようなことはしなかったものの、泰時が重病にかかって危険な時に宴会を催すなど、独自の立場を貫き続けました。

これを詰問された際には、泰時がいるからこそ御家人はまとまり、安心して宴会ができる。万が一泰時が死んだら宴会もできなくなってしまうと弁明したことが記録に残っており、時房の泰時に対する複雑な感情が見て取れます。

こうして泰時と手を携えながらも生涯のライバルとして競い合った時房は、泰時の死の2年前の1240年、65歳の生涯を閉じることになりました。

北条時房の子孫のその後 泰時に警戒され、分裂工作を仕掛けられる子どもたち

鶴岡八幡宮

北条時房には7人の男子がいましたが、このうち、長男の北条時盛、4男の北条朝直が特に力を持っていました。

長男の北条時盛は、当時六波羅探題を務めていた父の時房が連署に就任し、京都から鎌倉に移ると、父の跡を継いで六波羅探題に就任し、北条泰時の弟の北条重時や、泰時の子の北条時氏らとともに西国統治にあたっていました。

やがて、北条時房が亡くなると、父の跡を継ぐべく鎌倉に向かい、連署に就任することを求めましたが、時盛の願いは泰時によって却下されてしまいました。

本来ならば、六波羅探題を長年務め、実績十分の時盛が連署に就任するのは自然なことですが、これには、長年時房と競い合ってきた泰時による、時房流の分裂工作が関係しています。

泰時は、自身の娘を時房の4男の北条朝直に嫁がせており、娘婿の朝直を引き立て、最重要国である武蔵守に任じるなど厚遇していました。

もっとも、朝直も泰時の娘との婚姻には消極的だったようで、伊賀氏の変により伊賀氏から迎えた妻を離縁せざるをえず、激しい抵抗の末、渋々泰時の娘を妻に迎えたという経緯がありました。

こうして朝直を厚遇する一方、時房の後継者と目されていた長男の時盛は冷遇することで、時房流は分裂し、泰時に対抗しうる存在であった北条時房の系統は、北条氏の一支流に転落することになります。

かつての後継者、北条時盛はそれでも後継者の座を諦めず、北条泰時が危篤となった際も、再度鎌倉へ向かいますが、またもや拒絶され、やがて六波羅探題の職も解任され、子孫は没落していきます。

一方、後継者となった朝直も、幕政に参加し、7代執権の北条政村の代まで長老格として執権を補佐し続けましたが、執権に対抗しうる存在になることを恐れた得宗家の妨害によって、ついに連署や寄合衆など、幕府の重要な職につくことはありませんでした。

朝直の子である北条宣時は、9代執権の北条貞時の代に連署に就任し、約半世紀ぶりに、時房と同じ地位を得ることになりました。

北条宣時

この頃はすでに元寇も終わっている頃でした。

そして、宣時の子である北条宗宣は、ついに第11代執権に就任します。

しかし、この執権就任は、9代執権の北条貞時が病にかかり、息子の北条高時までのつなぎとして任命されたもので、実権は内管領の長崎円喜に握られていた上に、わずか1年足らずで辞任しています。

北条宗宣

宗宣の子の北条維貞は、六波羅探題に就任し、畿内に跋扈する悪党の取締や、後醍醐天皇の倒幕運動の取締などにあたり、連署にも就任しています。

しかし、鎌倉幕府が不安定になる中病に倒れ、息子の北条家時がその跡を継ぎました。

家時は、倒幕のため挙兵した後醍醐天皇や楠木正成の討伐にあたり、千早城の戦いで楠木正成を攻めますが、そのうちに足利尊氏が離反するなど、軍は壊滅し、最終的には鎌倉に戻り、北条一族とともに東勝寺で自害することになります。

家時の弟の北条貞宗、北条高直は出家し足利尊氏に降伏し、軟禁状態に置かれます。

足利尊氏

しかし、各地で北条氏の残党が反乱を起こし始めたことから、後醍醐天皇によって処刑命令が下され、約1年後に処刑され、ここに時房の系統は途絶えることとなりました。

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