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小田原北条氏のその後 子孫は大名として生き残っていた!戦後には参議院議員にも!

北条氏の祖 北条早雲(伊勢宗瑞)

皆さんこんにちは!レキショックです!

今回は、関東に5代100年にわたって君臨した戦国大名、北条家は、江戸時代以降どうなったのかについてご紹介します。

北条早雲以来、関東にて勢力を伸ばしてきた北条家。

武田信玄上杉謙信の侵攻も防ぎきりましたが、豊臣秀吉小田原征伐の前には抗うすべがなく、降伏し滅亡してしまいました。

4代当主の北条氏政、その弟の北条氏照は切腹となりますが、5代当主である北条氏直をはじめ一族の多くは助命されており、各地で続いていたのです。

今回は、滅亡後の北条家は、その後どうなったのか詳しく紹介します。

10万石の大名に復帰目前だった? 最後の当主、北条氏直

北条家5代目当主 北条氏直

豊臣秀吉による小田原征伐当時の当主であった北条氏直は、切腹となった父、北条氏政とは対象的に、助命され高野山に送られる事となりました。

これには穏健派として秀吉との和平交渉を行っていたこと、そして徳川家康の娘婿であったことなどが理由に挙げられます。

一門である北条氏規太田氏房らを伴って高野山に上った氏直は、その翌年からさっそく赦免活動を開始します。

氏直の赦免活動をとりなしたのは、義理の父にあたる徳川家康でした。

氏直の妻 督姫の父 徳川家康

こうした活動の甲斐あって、高野山に上った約半年後には赦免されており、その3ヶ月後には大阪で旧織田信雄邸を与えられています。

織田信雄は元尾張伊勢100万石の大名で、小田原征伐後の転封を拒否して改易となっていました。

そんな国主格の大名の屋敷を与えられていることからも、秀吉は氏直を正式に大名として復帰させる意図があったものと考えられます。

小田原征伐から1年後の1591年8月には正式に秀吉と対面し、1万石の領地を与えられ、大名として復活しました。

秀吉はこの時、現在の鳥取県にあたる伯耆国を氏直に与え、国持大名に復帰させる予定であったといいます。

しかし、謹慎中の借金の整理を行っているさなか、大名復帰の3ヶ月後に、氏直は突如として病死してしまいました。

氏直の死後は叔父である北条氏規の息子の北条氏盛が遺領のうち4000石を相続しますが、氏直の死により北条家の国持大名復帰の話は立ち消えとなってしまいました。

氏直には娘が2人いましたが、子は残されず、北条家の直系は氏直の死によって断絶することとなりました。

河内狭山藩主として続いた江戸時代

狭山陣屋にあったものを移築した本願寺堺別院御成門

北条氏直の死後、跡を継いだ北条氏盛は、氏盛の父である北条氏規の領地も相続し、計1万1千石で河内狭山の領主となりました。

河内狭山は現在の大阪府南部にあたります。

氏盛は関ケ原の戦いにも東軍として従軍し、本領を安堵され、ここに北条家の河内狭山藩が成立しました。

氏盛は養父の氏直と同じく30代の若さで亡くなり、跡を継いだ子の北条氏信は、狭山藩の政庁となる狭山陣屋の建築に着手しますが、25歳の若さで亡くなりました。

跡を継いだ子の北条氏宗も病弱で、子も娘しかいなかったため、従弟の北条氏治を養子としました。

しかし氏宗は病弱な上に大酒飲みであったため重病に倒れ、将軍にお目見えすることがなく無位無官の状態であり、老中の稲葉正則が相続に反対したため、氏治には新たに藩を与えるという形での相続となっています。

幕府老中 稲葉正則

氏治は相模国の早雲寺に北条早雲以来北条氏5代の供養塔を建立するなど北条氏の供養に務め、その跡は弟の北条氏朝が継いでいます。

北条氏朝は北条氏規の再来と呼ばれるほど聡明で、幕府にも実力を評価され、京都火消役伏見奉行、奏者番など幕府の要職を次々と務めました。

武芸にも達者で、伊藤一刀斎から一刀流の免許皆伝を許されていたというエピソードもあります。

しかし幕府政治への積極的な参加は出費の増加に繋がり、藩財政は悪化、子の北条氏貞、孫の北条氏彦の代には、小田原以来の旧臣と改革派が対立し、保守的な小田原衆が改革派を弾圧する狭山騒動が起こってしまいました。

跡を継いだ北条氏昉は、こうした藩内の混乱に加え、頻発していた百姓一揆、打ちこわしに対応するために軍資金を積み立てるなどの対策を行いますが、改革は成功せず、さらに狭山陣屋の焼失、天明の大飢饉によって藩財政は悪化の一途をたどることとなります。

幕末の動乱に巻き込まれる 江戸時代後期の北条家

幕末の北条家当主 北条氏燕

1785年に北条氏昉の子である北条氏喬が藩主となりますが、この頃から北条家は京都、大阪に地理的に近いこともあり、動乱に巻き込まれることとなります。

1810年には、この頃相次いでいた外国船の来航に備えるために大阪湾岸の警備に駆り出され、さらに大阪加番にも任じられました。

さらに1837年には大塩平八郎の乱が起き、北条家は大阪城の警備を務めることとなりました。

大塩平八郎

これらの負担は小藩である狭山藩にはとても重く、倹約はもとより、祝賀行事の制限、藩札の発行、藩士からの上米の強化など、財政再建のためにあらゆる手段を尽くします。

しかし、今度は上米によって負担の重くなった藩士たちの反発にあい、氏喬は大垣藩戸田家から北条氏久を婿養子に迎え、隠居することとなってしまいます。

氏久の代には外国船の来航も相次いでいたことから、狭山藩は農民を兵士に徴兵し軍事力強化を図りますが、軍備拡大によって財政はいよいよ逼迫することとなりました。

縁戚から養子に入った北条氏燕の代に、いよいよ狭山藩は財政破綻寸前まで追い込まれます。

1854年にロシアのプチャーチンが大阪に来航した際には大阪警備を務め、さらに駿府加番まで命じられます。

日露和親条約締結などを担当したプチャーチン

これら出費に対し、狭山藩では高野豆腐の専売化などの対応を行いますが、今度は百姓や手工業者の反発を受け専売化は中止するなど改革はなかなか進みません。

それでも氏燕は人材登用に活路を求め、藩校簡文館の再興に務め、他藩の藩士の入学を認めるなど文学を奨励しました。

そんな氏燕を困らせることとなるのが、天誅組の変を起こした中山忠光吉村寅太郎です。

天誅組の変の首謀者 中山忠光

孝明天皇が14代将軍徳川家茂に攘夷を命じたにも関わらずなかなか実行しないことに不満をつのらせた攘夷派は、孝明天皇自らが兵を率いて大和の春日大社に行幸し、攘夷の成功を祈願するという大和行幸の計画を進めます。

これに先立って中山忠光、吉村寅太郎ら天誅組は大和国を抑えようとし、狭山藩にも加勢を求めてきたのです。

氏燕はこれに対して仮病を使い面会しなかったものの、小藩ゆえに面と向かって断ることもできず、ゲベール銃など兵器を供出し、天皇が来る際には加勢すると弁明し、この危機を乗り越えました。

やがて天誅組は幕府軍によって壊滅させられ、狭山藩も討伐に加わりました。

氏燕の跡は、下野佐野藩の堀田家から北条氏恭が養子に入ります。

氏恭は大阪湾の砲台建設、幕府領での百姓一揆鎮圧などに駆り出され、大政奉還以降はいち早く新政府に恭順し、戊辰戦争を新政府側で戦いました。

こうして明治時代を迎えた狭山藩北条家でしたが、藩財政は限界を迎えており、1869年の版籍奉還により狭山県知事に任じられるも財政難から藩知事を辞任、狭山藩は廃藩置県を待たずに廃藩となってしまいました。

貴族院議員、参議院議員にも!明治時代以降の北条家

明治時代の当主 北条氏恭

藩知事を辞任した北条氏恭は明治天皇の侍従となり、明治天皇が崩御するまで天皇の側で仕えることとなりました。

1884年には華族令により子爵に任じられています。

氏恭の跡は、長男の謙吉を経て4男の北条雋八が跡を継ぎました。

大正 昭和期の当主 北条雋八

東大を卒業し帝室林野管理局技手となっていた雋八は、やがて貴族院議員に当選し、政治の世界へ進みます。

議員活動を続ける傍ら、日蓮正宗を信仰していたこともあり、創価学会に関るようになり、創価学会文化部顧問にも就任します。

公明党結成にも参加し、公明党が成立した後は、公明党議員として活躍し、参議院法務委員長などを務めました。

雋八の跡は兄の子である北条尚が北条家を継いでいます。

また、甥である北条浩も参議院議員として活躍し、創価学会の理事長、会長を務めるなど活動しています。

まとめ

豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した後も、小藩ながら幕末まで大名として残った北条家。

嫡流以外にも、地黄八幡の異名をとった北条綱成の子孫の北条氏勝は、譜代大名として江戸時代途中まで続くなど他にも旗本、大名家の家臣として残った家が多くありました。

また、関東地方を支配していた北条家の家臣の多くは、江戸に入った徳川家の家臣となり、家康の関東経営、ひいては現在の東京の発展の礎となっています。

北条氏直が長生きしていれば国持大名として再興されていたかもしれない北条家。

大名として復活した北条氏直が義理の父親である徳川家康に味方し関ケ原の戦いで大活躍なんていう世界も考えてみると面白いですね。

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