偉人解説

山元虎鉄のモデル 吉永虎馬の生涯 富太郎に植物の魅力を教えられた同郷の弟子【らんまん】

吉永虎馬(右)牧野富太郎(左)

こんにちは!レキショックです!

今回は、牧野富太郎の弟子とも呼ばれた吉永虎馬の生涯について紹介します。

富太郎と同郷の虎馬は、幼い頃から富太郎の影響で植物の魅力に取り憑かれ、富太郎とともに山野を駆け回っては植物採集を行う日々を送っていました。

矢田部良吉の大発見であるキレンゲショウマも、元は虎馬が発見したもので、発見場所をめぐる矢田部の虚偽の記載など、若くして植物学の闇にも直面しています。

虎馬自身は生涯に渡って高知を拠点に活動し続け、富太郎にも高知の植物の標本を送り、富太郎が日本を代表する植物学者になるのを助けました。

今回は、高知にいながら標本を全国の研究者 機関に送ることで植物学の発展に貢献し、自身も研究者として業績を残した吉永虎馬の75年の生涯について紹介します。

キレンゲショウマの発見者は矢田部良吉ではなく吉永虎馬 吉永虎馬の出自

キレンゲショウマ

吉永虎馬は、1871年、高知県佐川に吉永懐蔵多津の次男として生まれました。

後に生涯に渡って交流を続ける牧野富太郎とは同郷で、富太郎の9歳年下にあたります。

虎馬には悦郷という兄がおり、悦郷が牧野富太郎と幼馴染だったことから、虎馬も早くから富太郎と親しくなりました。

幼い頃から富太郎の影響で植物研究に興味を持ち、兄や富太郎とともに山野を歩き回って植物採集に励んでいたといいます。

虎馬も富太郎同様、大学などで専門的な植物学の教育を受けることはなく、独学で植物学の知識を身に着けていきました。

やがて、虎馬が13歳の時に、富太郎は本格的に植物学研究を行うために高知を出て東京に向かい、虎馬と富太郎は別々の場所で植物学研究に励むこととなります。

虎馬は、四国の山々に登って植物採集をすることもあり、1888年、17歳のときには、同年代の少年と山登りをしている最中に、高知、愛媛の県境の石鎚山でキレンゲショウマを発見しました。

キレンゲショウマは、一般的には当時の植物学教室のトップ 矢田部良吉が自ら採集し、新属として発表した植物として知られています。

矢田部良吉

1890年に矢田部が、欧米の研究者に頼らず日本人のみで植物の命名、記載を行うことを『植物学雑誌』上で宣言した後、新属新種として初めて発表した植物で、和名のキレンゲショウマを属名にそのまま使うなど、矢田部の思いも強く込められた研究となっていました。

しかし、キレンゲショウマを初めて発見したのは実際は虎馬で、矢田部は虎馬によってキレンゲショウマの存在を教えてもらっています。

もっとも、虎馬が石鎚山に登っているのと同じ時に、矢田部も少し送れて植物採集のために石鎚山に向かっており、虎馬も矢田部の一行の存在は知っていました。

そのため、初めて見たキレンゲショウマの花を採集した虎馬は、矢田部に会いに行き種類について質問しようとしましたが、天候が悪くなり洪水も起きたため、矢田部は石鎚山登山を中断してしまい、虎馬は矢田部に会えずじまいとなります。

石鎚山

その後、虎馬が故郷の佐川村に帰ったところ、矢田部がまだ近隣の池川村にいることを知り、キレンゲショウマを持って訪ね、矢田部はこの時初めて、虎馬によって採集されたキレンゲショウマを目にしました。

当然、矢田部も今まで見たことがない新属新種の植物のため、種類については見当もつきませんでしたが、全く関係のないレンゲショウマと似ていることから、黄色いレンゲショウマ キレンゲショウマと名付け、東京に戻った後に本格的に研究することを虎馬に約束します。

その後矢田部は、天候が回復した後に登山を再開し、虎馬に見せてもらったキレンゲショウマを発見、東京に持ち帰って小石川植物園で栽培し研究を行いました。

もっとも、矢田部は虎馬がキレンゲショウマを見つけた石鎚山山頂に行く前に別の場所で花を見つけており、石鎚山山頂まで登らずに帰ってしまったものの、論文では石鎚山の標高5000フィートで採集したと記載しています。

さらに、実についても、矢田部は同じ場所で採集したと論文中で記載しているものの、実際は虎馬の父 懐蔵が高知の黒瀧山で採集し矢田部に送った標本を元に発表したもので、これも事実とは異なります。

採集場所については虎馬の兄 悦郷によって説明がなされたにも関わらず、矢田部は無視しており、初発見の地が石鎚山山頂であるという事実は動かせないため、別の場所のキレンゲショウマを石鎚山山頂の物として発表することとなってしまいました。

矢田部の代表的発見であるキレンゲショウマは、実際は虎馬と吉永一家の発見によるものであり、虎馬は若くして黎明期の植物学の良いところも悪いところも見ることとなったのです。

ちなみに、後年、矢田部に恨みを持つ牧野富太郎は、キレンゲショウマの名を全く別の種類のレンゲショウマにちなんでつけたことに対し痛烈な批判を加えました。

牧野富太郎

富太郎は、矢田部は一度つけてしまった名前を訂正しては博士の面目に関わると考え、間違った分析に基づく名に固執し、キレンゲショウマ属という属の名にまでしてしまったことを愚かな行為と断じています。

若い頃から日本植物学の歴史に残る大発見に関わることになった虎馬は、この後、本格的に植物学の道へと進んでいくこととなります。

教員として働く傍ら、植物学研究にも取り組み続ける 就職後の吉永虎馬

吉永虎馬は、植物学研究一本に生きるわけではなく教員として生計を立てる道を選び、佐川を出て高知師範学校に入学、1892年に21歳で卒業しました。

以降、教員としての人生を歩むこととなり、故郷の佐川小学校の教師を皮切りに、生涯に渡って高知県内の学校で働くことになります。

虎馬は次男であったため、この頃に同郷の井上家の婿養子となり、井上虎馬と名乗るようになり、妻 栄との間に一男二女を儲けました。

1894年 23歳の頃からは、井上虎馬の名で『植物学雑誌』に主に高知の植物について論文を発表するようになります。

兄の悦郷も『植物学雑誌』など各所に論文を寄稿しており、兄弟は牧野富太郎に植物の鑑定を依頼するなど、富太郎との繋がりの元、研究を進めていきました

富太郎は東京に拠点を置いていたため、虎馬が高知近辺の植物を富太郎に送り、富太郎の研究が進むという協力関係が成り立っており、虎馬は富太郎の弟子と呼ばれるようになります。

吉永虎馬 牧野富太郎

教員生活も順調で、1902年には高知県立第一中学校、翌年には安芸市の第三中学校、1906年には高等女学校の教員となり、安定した生活を送っていました。

1901年には、シダ植物の研究を続けていた兄の悦郷の後継ぎとなって再び吉永姓を名乗るようになり、以降、吉永虎馬として引き続き研究を進めていきます。

虎馬は、植物全般を研究対象としていましたが、その中でもまだ日本ではあまり盛んでなかったコケ類の研究で功績を挙げています

サカワヤスデゴケ、ニシヤマヤスデゴケ、カビゴケ、ミカンゴケといった新種の発見者となっており、日本におけるコケ類研究を代表する一人となりました。

1902年頃からは、菌類の研究にも取り組み始め、アメリカやドイツの学者にも標本を送り鑑定を求めるなど、高知にいながら世界とも繋がっています。

高知を拠点に活動していたことから、高知を訪ねてきた研究者の案内役を務めることも多々あり、植物学界では名の知られる人物となっていた虎馬は、この後も陰ながら植物学研究の発展に貢献していくこととなるのです。

牧野富太郎との交流は生涯に渡って続く 吉永虎馬の後半生

虎馬は、植物学の世界で実績を積んだことで、教師としての地位も上がっていき、1924年には佐川高等女学校で理科の教師を務めるようになります。

1926年には現在の高知大学にあたる高知高等学校の講師となり、1935年には教授にまで昇進しました。

虎馬は早くから『植物学雑誌』に論文を寄稿していたことから、研究者の間では広くその名が知られており、博物学者として各方面で活躍した南方熊楠とも交流がありました。

南方熊楠

和歌山を拠点に活動する南方熊楠と虎馬は、地理的にも近く同じ南海地方を拠点とする在野の学者同士気があったのか、頻繁に手紙のやり取りをしています。

熊楠の長男 熊弥はこうした縁もあってか、1925年に高知第一高等中学校へ進学を希望し、受験のため高知へ向かうも到着後発病、現地で入院中は虎馬が世話を見るといったことも起きています。

虎馬は教師をしながらも地道に最終、研究を重ね、1935年には代表的著作である『四国銹菌誌』を著し、菌類研究でも実績を残しました。

虎馬の研究成果は、東大をはじめ全国の学校、機関に主に高知で採集した標本などを送ったことにも表れており、研究者としては比較的地味な部類に入るものの、圧倒的な採集実績から日本全体の植物研究の発展には多大な貢献をした人物と言えます。

虎馬のようなレベルの高い研究者が高知にいたことは、県内の学生や愛好家にとっては計り知れないほどの財産となっており、虎馬は目立たないところで日本の植物学を支えていました。

職場の高知高等学校では、教授を定年で免官になった後も講師として引き続き授業を行い、1940年、69歳の時に正式に退官しています。

牧野富太郎とは生涯に渡って交流が続いており、たびたび一緒に植物採集に出かけるほど仲は良好でした。

牧野富太郎

虎馬が教師を辞めた後も交流は続いており、第二次世界大戦中には、富太郎は虎馬に対し、空襲が激しくなってきたが大量の書物があるので疎開できない、いざという時は書物とともに心中するつもりだと手紙を書き送っています。

その後、終戦間際になって疎開した富太郎は、またもや虎馬に宛てて「きのふまで 人に教へし野の草を 吾れも食はねば 命つづかず」と食糧難を嘆く歌を送っており、お互い70歳を越えても仲が良かった様子が伺えます。

一方の虎馬は、1944年に妻 栄を亡くしており、翌年には長女を亡くすという身内の不幸に立て続けに見舞われており、この頃は佐川にある次男の家で暮らしていました。

そして、戦争、家族の死で心労がたたったのか、1946年2月に75歳で生涯を閉じました。

虎馬の死後、収集した文献は宮崎県の服部植物研究所へ、標本は国立科学博物館へ収められ、死後も日本の植物学研究の発展に後見することとなったのです。

参考文献

吉永虎馬『きれんげしょうま発見当時の話』 (『植物研究雑誌』第7巻第2号 昭和5年)

小林義雄『吉永虎馬 人と業績』 (『植物研究雑誌』第54 巻第8号 昭和54年)

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