こんにちは!レキショックです!
今回は、木曽義仲の愛妾、巴御前の生涯について紹介します。
義仲の幼馴染として木曽の地で育ち、その生涯にわたって義仲を支えた巴御前。
武勇にも優れ、軍勢を率いて敵と戦ったという逸話まで残されています。
義仲が戦死した後は東国に逃れ、一説には、鎌倉幕府の侍所別当、和田義盛の妻になったという伝説もあります。
今回は、そんな義仲第一の家人、巴御前について紹介します。
木曽義仲の乳兄妹として育つ
巴御前は、木曽の有力者、中原兼遠の娘として生まれたとされています。
木曽義仲は2歳の時に、父である源義賢を、源頼朝の兄である源義平に討ち取られ、何とか逃され、中原兼遠のもとへ送られてきました。
中原兼遠の妻は、木曽義仲の乳母を務めていたといい、その縁もあって、兼遠が義仲の世話をすることとなったのです。
巴御前は、兄の今井兼平、樋口兼光らとともに、義仲の乳兄妹としてともに成長します。
乳兄妹とは、乳母に育てられた貴人と、乳母の実の子の関係を指す言葉で、幼馴染としてともに成長するため、実の兄妹のように深い主従関係を築く傾向にありました。
巴御前も、乳兄弟の典型である今井兼平らとともに、女性ながら義仲とは切っても切れない主従関係を築きました。
巴御前は、武芸の稽古相手として義仲に負けず劣らずの才能を見せ、義仲も巴御前の武芸を見込んで、戦いにも連れて行ったといいます。
一説には、巴御前は源義高など、義仲の子を産んだとされていますが、その可能性は低いでしょう。
なぜなら、巴御前はこの後の源平合戦に、義仲に従って従軍しているからです。
義仲の側室のような立場であったでしょうが、義仲の他の女性たちが子を産んで義仲に従軍できない中、子を産んでいない巴御前のみが義仲に従軍できたのでしょう。
木曽義仲は、以仁王の令旨に従って挙兵し、信濃国から北陸方面へ進出していきます。
この頃から、巴御前の活躍も描かれるようになります。
信濃国で勢力を拡大する義仲に対し、越後国の平家方勢力である城長茂が攻め寄せた横田河原の戦いでは、巴御前も軍を率いて、7騎を討ち取る功績を挙げたといいます。
戦国時代以降は、女性が戦場に出ることはめったになくなりますが、この頃は、数は少なかったものの、女性も戦場に出ることはありました。
巴御前の他にも、女性が軍勢を率いて戦っていた記録は残っており、女性を一人前の武人として養育する風習はあったものだとされています。
また、鎌倉時代には、女地頭という言葉もあるように、女性であっても男性同様に財産分与がなされており、のちの時代に比べて、女性の権力は大きいものとなっていました。
このような時代背景であったからこそ、北条政子のような人物も出てきたのでしょう。
巴御前の活躍もあり、北陸地方を席巻した義仲は、平維盛率いる平家の大軍と倶利伽羅峠の戦いで激突します。
巴御前はこの倶利伽羅峠の戦いで、大将の1人として出陣したといいます。
この戦いでは、巴御前とともに義仲に従軍していた葵御前という女性が討死したといい、巴御前も敵の前面に出て戦っていたのでしょう。
倶利伽羅峠の戦いに大勝利した義仲軍はいよいよ京都に突入することとなります。
義仲との悲劇の別れ
平家を都から追い落とし、京都を手中に収めた木曽義仲でしたが、京都の治安維持に失敗し、一気に立場を悪化させてしまいます。
さらに、義仲は後白河法皇との関係も悪化させ、西国で平家討伐にも失敗し、その勢力に陰りが見えるようになります。
後白河法皇は鎌倉の源頼朝に対し、義仲討伐を要請し、源義経、源範頼率いる大軍が義仲討伐のために京都を目指すこととなりました。
これに勇気を得た後白河法皇は、源行家ら義仲に従っていた源氏諸将を味方に引き入れ、義仲との対決姿勢を見せますが、義仲はこれを破り、後白河法皇を幽閉します。
しかし、一連のできごとで人望を失い、味方の数を大きく減らした義仲軍は、劣勢の中、頼朝軍と対峙することとなりました。
巴御前は義仲のもと、源義経率いる頼朝軍と激戦を繰り広げたといいます。
京都に迫る頼朝軍の畠山重忠と一騎打ちを演じたといい、重忠の怪力の前にさすがの巴御前も敵わず、鎧の袖を引きちぎられ、敗北してしまいました。
こうして総崩れとなった義仲軍は、近江で今井兼平の軍と合流し、北陸に落ち延びようとします。
義仲に従う兵はわずか数騎となりますが、巴御前はそれでも最後まで追ってくる敵を討ち取り、義仲の逃亡を助けます。
最期を悟った義仲は、巴御前に対し、戦場を離脱し落ち延びるように命じました。
なおも義仲に従うことを譲らない巴御前に対し、義仲は「討死の間際まで女を連れていたと言われるのは良くない。生き延びて後世まで自分を弔うことが奉公だ」と諭し、やむなく巴御前は落ち延びることを承諾します。
巴御前は、最後の奉公だと追ってきた敵の恩田師重を討ち取って、戦場を離脱したといいます。
巴御前を無事に逃した義仲は、今井兼平とともに近江国の粟田で討死し、その生涯を閉じることとなりました。
巴御前のその後 和田義盛の妻になった?
義仲と別れた巴御前のその後ははっきりとしていません。
近江国にある義仲寺は、義仲の死後、巴御前が庵を結び、日々義仲を供養していた場所と伝わっています。
また、巴御前は北陸に落ち延び、生涯を北陸の地で過ごしたとも伝わります。
新潟県上越市や、富山県南砺市には、巴御前が余生を過ごした地としての伝説が残っており、それぞれ巴御前の墓が建てられています。
また、木曽義仲の一族の菩提寺である徳音寺には、義仲や今井兼平らの墓とともに巴御前の墓も建てられています。
巴御前は、鎌倉幕府の侍所別当である和田義盛の妻になったという伝説も残っています。
これは、義仲の最期を後世に伝えるように命じられた巴御前が、義仲の死後、その存在を知った源頼朝に鎌倉に召し出され、そこで和田義盛と縁を持ったとするものです。
巴御前は和田義盛との間に、朝比奈義秀という子をもうけたと伝わります。
朝比奈義秀は、和田義盛の三男として生まれ、並外れた武勇の持ち主でした。
若い頃からその伝説は始まっており、源頼家と船上で宴会をしていた際に、海底でサメを3匹捕まえて、頼家を驚かせたといいます。
また、鎌倉への通り道の一つである朝比奈切通しは、義秀が一夜で切り開いたとする伝説も残されています。
義秀は、和田義盛の一族が、北条義時の挑発に乗って挙兵した和田合戦でも、並外れた怪力で、次々と敵を討ち取り、敵味方に恐れられたといいます。
しかし、巴御前が和田義盛との間に朝比奈義秀を産んだという説は、義秀の年齢と食い違うことから否定されています。
和田合戦の際には、朝比奈義秀は38歳であったと記録されており、逆算すると、義秀が生まれたのは1175年で、義仲戦死時は9歳でした。
このことから、巴御前が朝比奈義秀の母であることは否定されていますが、和田義盛の妻となった巴御前が朝比奈義秀を養育したということはありえるでしょう。
和田義盛を父に持ち、木曽義仲譲りの武芸を巴御前に仕込まれたからこそ、朝比奈義秀は伝説的な活躍を見せるまでに成長したのかもしれません。
しかし、巴御前が嫁いだ和田義盛も、和田合戦で北条義時に敗れ、和田一族は滅亡し、巴御前はまたしても夫を失うこととなりました。
巴御前は、和田合戦の後も生き残っていたといわれています。
神奈川県小田原市にある善栄寺は、巴御前が木曽義仲と和田義盛の菩提を弔うために創建した寺であると伝わっています。
巴御前はこの地で、滅亡した木曽義仲と和田義盛の一族の菩提を弔い続け、91歳で亡くなったと伝わります。
木曽義仲、和田義盛という源平合戦を代表する二人の武人の妻となった巴御前。
両者とも、時代の波に飲まれて一族滅亡となってしまいました。
巴御前は、その長い後半生を夫の菩提を弔うことに捧げることとなったのです。
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