新型コロナウイルス感染症は人類をおびやかす病気となり不安な日々を過ごしている方をいらっしゃる方も多いでしょう。
しかし、人類の歴史は、感染症との戦いの記録でもあります。
紀元前から現在まで、ペスト、スペイン風邪、マラリア、結核など様々な感染症に人類は苦しめられてきました。
そんな中、人類が根絶に成功した感染症が「天然痘」です。
今回は、幕末に人類脅威の伝染病だった天然痘の予防法である「種痘」の普及に力を注いだ日本の近代医学の祖、緒方洪庵の話をしたいと思います。
予防接種の先駆けー種痘(しゅとう)とは?
天然痘は古代エジプトの時代から感染が確認されており、20%から50%と高い致死率を持っていることから、世界中で恐れられてきました。
日本でも徳川将軍15人のうち6人、江戸時代の天皇14名のうち5名が天然痘に感染していることから、江戸時代でも何度も流行したことがわかります。
しかし、一度天然痘にかかった人間は再び感染しないということもわかっており、軽症者のかさぶたを採取し、粉末にして鼻から吸引して免疫を獲得する「人痘種痘法」が天然痘に対するほぼ唯一の対処法でした。
緒方洪庵もいわゆる「種痘」が伝来するまでは、人痘種痘で天然痘の予防に力を注いでいました。
しかし、人痘種痘によって天然痘が発症し、死亡する例もあり、安全とは言いがたいものだったのです。
そんな状況において、1798年にイギリスのジェンナーが牛痘(ウシの天然痘)を人に接種し、安全に免疫をつける方法を発見しました。
牛痘は人に感染しても発症することはほとんどなく、安全に免疫をつけられる「種痘」はまさに画期的な方法でした。
ちなみにワクチン(vaccine)の語源は、雌牛を意味するラテン語「ワッカ(vacca)」が由来です。
ジェンナーの種痘の情報は瞬く間に世界中に広まり、日本でも牛痘種痘を取り入れようと多くの医者が奮闘しました。緒方洪庵もその一人でした。
緒方洪庵の経歴と種痘の関係
緒方洪庵は、1810年に備中国賀陽郡足守(現在の岡山市)で、足守藩士の佐伯惟因の三男として生まれました。
武士の子として生まれましたが身体が弱く、8歳の時に天然痘にもかかっています。
父の佐伯惟因は藩命で江戸や大坂、京都行きを何度も命じられますが、洪庵も父の大坂行きに2回同行し、学問に触れました。
大阪の蔵屋敷で洪庵は学問と武術を学びましたが、「病気がちで励むことができなかった」と後年『病学通論』で述べています。
2度目の大坂行きの最中に、蘭学者・中天游(なかてんゆう)の噂を聞いたのが転機となり、大坂から戻った後、翌年3月に自分の意思で大坂へ蘭学を学びに行くこととなります。
中天游の下で4年間学んだ後、江戸に渡り、医者の坪井信道と宇田川玄真の塾で蘭学の知識を深めました。
その後は医者として各地で研鑽を積み、1838年、大坂で医業を始めると同時に、蘭学塾「適々斎塾」を開きます。
これが「適塾」の始まりです。
中天游、坪井信道、宇田川玄真ら当時の第一人者たちは、いずれも洪庵の実力を高く評価しており、洪庵が大阪で開業・開塾するとたちまち評判となります。
緒方洪庵の適塾からは福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、高松凌雲、佐野常民など、幕末から明治にかけて活躍した偉人たちを輩出しています。
しかし評判になったと言っても衛生状態が良くなかった当時、感染症である天然痘で亡くなる人間が多かった時代でした。
洪庵自身も天然痘にかかったこともあり、種痘の普及に力を注いだのは自然のことだったでしょう。
種痘をすると牛になる?~困難の連続~
日本に種痘がもたらされたのは江戸時代後期の1849年のことでした。
当時、長崎の出島を拠点に日本との貿易を行っていたオランダの協力により、インドネシアから痘痂(かさぶた)が送られてきました。
この痘痂をオランダ商館の医師モーニケが三人の子供に接種、一人だけ成功します。
この時できた痘苗を材料にできた種痘は、瞬く間に全国に広がり、同年12月大阪の緒方洪庵の元に伝わったのです。
洪庵はかつて、人痘種痘によって患者を死なせてしまったことがあり、安全な治療法である種痘の普及に全力を注ぐこととなります。
痘苗を入手した洪庵は、商人・大和屋喜兵衛の協力を得て種痘専用施設「大坂除痘館」を開設します。
洪庵は全国から集まった同士と、適塾の塾生たちのネットワークを駆使して痘苗を分け与え、それを元に各地で種痘を行う「種痘所」が作られました。
冷蔵・冷凍施設がなかった当時、種痘の原材料である痘苗を増やすには、子供に痘苗を植え、できた痘苗を別の子供に植える分苗を繰り返すほかありません。
しかし当初は「種痘をすると牛になる」「種痘は子供に害を与えるものだ」という噂が流れ、分苗に必要な子供が集まらなかったのです。
当時洪庵は大坂の医者の番付で関脇の地位にいる、名医の一人として知られていました。
名医として有名だったからこそ全国から適塾に生徒が集まったのです。
しかし種痘に関しては、洪庵でも風評被害は止められませんでした。
そこで洪庵は、金銭と米を無償で与えて種痘をする子供を集めて痘苗を維持、牛に乗った牛痘児が天然痘を倒す錦絵が描かれたチラシを配るなどして、私財を投じて情報の発信にも努めました。
また種痘は無償で行われ、接種済の人には「疱瘡済証」という証明書を渡し、もし再び天然痘を発症した場合は「我ら医者の首を渡す」という口約束までしたと『大阪市種痘歴史』には伝えられています。
地道な努力の結果、徐々に種痘をした人間の数も増え、「大坂除痘館」から分苗された痘苗は、5ヶ月で20ヶ国60ヶ所という驚異的なスピードで広まりました。
最終的には、中国・四国・東海・九州まで全国180ヶ所以上に分苗されています。
1858年、大坂除痘館は官許を得て幕府公認の種痘施設になりました。
江戸の種痘所「お玉ヶ池種痘所」が官許を得るのがその2年後の1860年のことです。
コロナ禍の今、見習える対応とは?
大坂除痘館が官許を得た年は、コレラが大流行していました。
コレラの流行に対しても、緒方洪庵は西洋のコレラ治療法をまとめた『虎狼痢治準』を5、6日で書き上げ、医師仲間や門下生たちに100部無償配布しています。
天然痘でもコレラでも、緒方洪庵は正しい情報をスピード感を持って発信することを重要視していたといっていいでしょう。
現在のコロナ禍でも「遺伝子が書き換えられる」「体に磁石がくっつく」など、ワクチンに対するデマが流布している現状も、当時と同じです。
しかし、洪庵と同じように正しい情報の発信に努めている医療人もまた存在しているのです。
現在のコロナ禍は未だ収束が見通せない、先行き不安な状況です。
そんな状況下だからこそ、緒方洪庵の業績から私たちはどうするべきか、学ぶことは多いでしょう。
参考文献
・『大坂の除痘館 緒方洪庵没後150周年記念』緒方洪庵記念財団 除痘館記念資料室
・『新版 緒方洪庵と適塾』大阪大学適塾記念センター
・『日本経済新聞』5月14日