偉人解説

明治時代以降徳川家のその後 総理大臣候補にもなったかつての将軍家

今回は、明治時代以降、徳川家はどのような道を辿ったのかについてご紹介します。

大政奉還によって政権を朝廷に返上した徳川慶喜は、その後鳥羽・伏見の戦いを経て朝敵となってしまいます。

江戸に帰った慶喜は、やがて水戸で謹慎することとなり、徳川家の家督は田安徳川家の田安亀之助こと徳川家達が相続することとなりました。

田安亀之助(徳川家達)

徳川宗家を継いだ時の家達はわずか6歳で、駿府70万石を与えられ駿府藩主として静岡に移住することとなります。

今回は家達以降、徳川宗家はどのような道を辿ったのか、現代まで続く徳川家のその後についてご紹介します。

徳川内閣成立も? 政治家として活躍した16代様 徳川家達

徳川家達

家達は静岡移住後、徳川家当主として静岡知藩事を務めました。

まだ幼い家達でしたが、知藩事として書類にひたすら判を押す公務を行う一方、学問、剣術に励みました。

やがて廃藩置県が行われ、家達も東京に移住します。

東京では赤坂の屋敷などを経て、1877年に千駄ヶ谷に10万坪を超える千駄ヶ谷御殿を建設しました。

千駄ヶ谷の屋敷には、13代将軍徳川家定の実母の本寿院、正妻の天璋院篤姫なども暮らしており、大勢の使用人たちが家達や徳川家の人々のために働いていました。

明治時代以降も徳川家に大きな影響を与えた天璋院篤姫

やがて家達は14歳のときにイギリスに留学します。

イギリス留学は5年におよび、イギリス上流階級が学ぶイートン・カレッジに入学、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けるなど、西欧の知識を身に着けました。

一方、国内では天璋院が近衛家の姫である近衛泰子と家達の婚約を進めており、婚儀を心待ちにする天璋院のために5年で留学を切り上げて帰国しています。

帰国後、華族令公布に伴い、家達は公爵に叙されました。

島津家や毛利家が明治維新の功績から公爵となっていますが、武家で公爵相当とされたのは徳川宗家のみで、江戸時代が終わっても徳川家は他の大名家とは一線を画していたのがわかります。

1890年には帝国議会が開設され家達も貴族院議員に就任、政治の世界に足を踏み入れます。

そして1903年には貴族院議長に就任しました。

貴族院議会の様子

家達は貴族院議長として院内の派閥間の調整、貴族院と内閣間の交渉に尽力していきます。

家達はどの派閥にも属さず、私心のない公平な人物として、その手腕を高く評価され、31年の長きにわたって貴族院議長を務めました。

貴族院の57年間の歴史の半分以上を家達は議長としてまとめ上げていたこととなります。

政治手腕を高く評価されていた家達は、1914年、第一次山本権兵衛内閣がシーメンス事件をきっかけに総辞職した後の首相候補として推挙されました。

後継首相を決める元老会議にて、山県有朋松方正義は、家達を推挙したものの、家達は貴族院議長しか務めておらず行政経験が皆無であることから、推薦を辞退するのではないかと危惧しました。

山県有朋

事前に打診すると間違いなく断られると考えた元老たちは、出し抜けに天皇から家達に大命降下することを画策し、何の打診もされなかった家達は大正天皇から唐突に組閣の大命を下されます。

しかし元老たちの画策もむなしく、家達は行政経験がないことを理由に断り、徳川内閣は幻に終わってしまいました。

家達は徳川家のトップとして、経験が浅い中総理大臣を務め、万が一失敗してしまったら徳川一門にまで迷惑がかかると考えていたようです。

その後も家達は貴族院議員を務め続け、1921年に行われたワシントン軍縮会議には、加藤友三郎、幣原喜重郎と並び、全権大使として参加しています。

左から幣原喜重郎、加藤友三郎、徳川家達

もっとも、ワシントン会議の全権大使就任は、無所属で通してきた家達に、原内閣寄りという印象を与えてしまい、海軍主力艦の比率を対英米6割に制限されたこともあって家達は批判の対象ともなってしまいました。

昭和に入り、段々と旧体制打破、天皇親政を唱える勢力が増え始め、特権階級である貴族院、そしてそのトップの家達は非難の対象となります。

こうした勢力は家達を執拗に攻撃し、議長在任30年という節目の時期でもあったことから、ついに家達は1933年に貴族院議長を辞任しました。

その後も家達は、日本赤十字社社長オリンピック東京大会組織委員会委員長などを務めますが、1940年、76歳でその生涯を終えました。

華族制度、貴族院の終焉を見届けた 徳川家正

徳川家正

家達の跡を継いだのが、息子の徳川家正です。

家正は東京大学卒業後、外交官の道に進み、シドニー総領事、カナダ公使、トルコ大使などを歴任します。

家正は、最後の薩摩藩主島津忠義の5女の正子と結婚しました。

家正と妻 正子

この結婚は天璋院篤姫の遺言に基づいて実施されたもので、2人の間には徳川家英が産まれますが、24歳の若さで父に先立って亡くなってしまいました。

徳川宗家の断絶を恐れた家正は、長女の豊子が嫁いでいた会津松平家の一門の松平一郎の子、恒孝を養子に迎えました。

また、家正の次女の敏子は上杉謙信ゆかりの米沢藩上杉家の上杉隆憲に嫁いでおり、徳川家と上杉家は縁戚同士となっています。

1940年に父の家達が亡くなると公爵を襲爵し貴族院議員に就任し、戦後には貴族院議長に就任しました。

そして最後の貴族院議長として、一橋徳川家の当主で貴族院副議長を務めていた徳川宗敬とともに貴族院と華族制度の廃止を見届ける役割を果たしました。

家正は1963年に78歳で亡くなり、貴族院の後身である参議院からは、最後の貴族院議長として憲政の発展に尽くした功を称える弔事が贈られています。

会津松平家から養子に 会社勤めの傍ら先祖の供養も行う 徳川恒孝

徳川恒孝氏は、会津松平家の一族、松平一郎の次男として生まれました。

母の豊子が徳川家正の娘だった縁で、早くに嫡男の家英を亡くしていた家正が徳川宗家の断絶を防ぐために養子縁組したものです。

祖父である家正から養子に望まれた際に、恒孝氏は「なぜ自分だけよそへ行かなければならないのか」と聞いたところ、父の一郎は「お前は大飯を食うからだ」と答えたそうです。

家正が恒孝氏を説得する決め手とした言葉も「おいしいものをたくさん食べさせてあげる」だったそうで、当時は戦後の食糧難の時代だったことから恒孝氏には魅力的な言葉でした。

しかしいざ養子に入ると、家正は粗食家で、思うようにご飯を食べさせてもらえず、恒孝氏は空腹に耐えかね実家にご飯を食べに帰り、状況を察していた母の豊子も恒孝氏の食事を用意していたそうです。

恒孝氏はやがて学習院に進学し、越前松平家当主の松平宗紀氏と同級生になりました。

宗紀氏は田安徳川家から越前松平家に養子に入っており、会津松平家から養子に入った恒孝氏とあわせて、同級生たちからは「徳川が徳川に、松平が松平に養子に入ったらいいじゃないか」とからかわれたといいます。

やがて恒孝氏は、日本郵船に入社し、最終的には副社長まで出世しました。

日本郵船で勤務していた時、一時期加賀前田家の当主の前田利祐氏と同じ部署で勤務していたこともあります。

その時の上司は、よく「前田!徳川!ちょっと来い!」と怒鳴りつけていたといい、前田家と徳川家の当主を部下に持ったのは豊臣秀吉以来俺だけだと語っていたといいます。

恒孝氏は徳川宗家の当主として先祖の祭祀に多大な時間を割いており、歴代将軍の命日には墓参りのために上野寛永寺芝増上寺を訪問し、徳川家康の命日には久能山東照宮、日光東照宮を訪問しています。

芝増上寺

他にも歴代将軍の側室や徳川家ゆかりの人物の墓にも年末年始やお盆にまとめて訪問しており、月平均2〜3日は先祖の供養に費やしていました。

恒孝氏はそのために個人的な休みは返上し、有給休暇も参拝のために割り当てるなど、会社勤めの傍ら徳川家当主としての務めも果たしていました。

恒孝氏は退職後、財団法人徳川記念財団を設立し理事長に就任、徳川家にまつわる古文書や絵画などの保存管理を行っています。

ほかにも日本美術刀剣保存協会の名誉顧問に就任し、日本刀文化の保護に努めるなど、武家の棟梁 徳川家当主という立場を活かした活動を展開しています。

息子の徳川家広氏は、慶應義塾大学を卒業後、ミシガン大学大学院に進学、国際連合食糧農業機関で勤務し、ベトナム支部勤務時に知り合ったベトナム人女性と結婚しました。

この結婚に恒孝氏夫妻は猛反対しましたが、家広氏の意志は固く、最終的には結婚までたどり着いています。

明治維新によって政権を失った徳川家。

しかし明治時代以降の徳川家を率いた徳川家達は、貴族院議長として特権階級をまとめ上げ、戦前の議会政治の発展に貢献しました。

支配階級であった華族中心の貴族院をまとめ上げる姿は、かつての将軍家に重なるところもあります。

現在も武家の棟梁の名門として各地で活動している徳川家。

時代は移り変わり徳川家の話題を聞くことも少なくなりましたが、日光東照宮や芝増上寺など、徳川家ゆかりの建物は今もなお数多く残っており、これからも連綿と続いていくことが望まれます。

 

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