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明治時代以降の清水徳川家 当主が禁固刑に 日本初飛行で名誉回復した御三卿の名門のその後

今回は、一橋家、田安家と並び御三卿として江戸幕府で重きをなした清水徳川家のその後についてご紹介します。

御三卿とは、8代将軍徳川吉宗以降、尾張、紀伊、水戸の御三家についで新たに創設された家で、将軍後継者候補となる資格を持っていました。

11代将軍徳川家斉、15代将軍徳川慶喜、そして明治時代以降の徳川家当主の徳川家達は御三卿の一橋家、田安家の出身です。

今回ご紹介する清水徳川家は、将軍は出さなかったものの、当主が禁固刑になり爵位返上、日本で初めて飛行機で空を飛んだ人物を出すなど、別の意味で有名になってしまいました。

そんなお騒がせ御三卿、清水徳川家について見ていきます。

徳川慶喜の弟の徳川昭武が当主に!幕末の清水徳川家

清水徳川家は、11代将軍徳川家斉の息子たちが代々当主となっていました。

当主は代々短命で、亡くなるたびに家斉は新しい子を当主に送り込みますが長続きせず、長生きした子も紀州徳川家に次々と養子に入ってしまっていました。

その結果、ついに跡継ぎがいなくなり、20年もの間、当主が不在という異常事態になってしまいます。

そんな状況の中、15代将軍となった徳川慶喜の命令で、慶喜の弟である徳川昭武が清水徳川家を継ぎ、20年ぶりに清水徳川家は当主を迎えることとなりました。

徳川昭武

昭武は、パリ万国博覧会に慶喜の名代として訪問することとなっており、そのために御三卿という格をつける目的がありました。

一説には、子供のいなかった慶喜は昭武を後継者にと考えており、将軍を継ぐ資格を有する清水徳川家に送り込んだといわれています。

昭武は万博終了後もフランスで留学生活を続けますが、明治維新によって帰国を余儀なくされ、帰国後は内乱の起きていた水戸藩を収めるために水戸藩主に就任しました。

こうして清水徳川家はまたもや当主不在となってしまいます。

借金しすぎて禁固刑に 明治時代の当主 徳川篤守

清水徳川家が再び当主を迎えることとなるのは、1870年のことです。

徳川昭武の甥で、前水戸藩主徳川慶篤の次男の徳川篤守が当主となり、清水徳川家を相続しました。

篤守は、14歳にして明治天皇の次侍従となり、天皇の側で仕え、翌年にはアメリカに留学、コロンビア大学で法律を学びました。

6年間の留学生活を経て帰国し、帰国後は外務省に入って北京公使館などで勤務しています。

1884年の華族令によって伯爵の地位を授けられ、華族としての地位を手に入れました。

1889年には国会開設を目前に、貴族院設置を視野に入れた伯爵会に幹事として参加するなど、政治の分野にも進出しようとしています。

一見順調に見える篤守と清水徳川家でしたが、こうした活動には出費も多く、家計は火の車となっていました。

1892年にはついに経済的に行き詰まり、融資を受けて乗り切ろうとしますが、この融資を巡って訴訟事件にまで発展してしまい、篤守は敗訴、1億円近い負債を抱え込んでしまいます。

この時には、他の徳川一族が清水徳川家を支援し、負債の整理ができました。

しかし、6年後の1898年、再び経済的に行き詰まり、ついに債権者に訴えられてしまいます。

2度までも同じ過ちを繰り返した篤守に対し、徳川一族も今度は支援の手を差し伸べることはありませんでした。

こうした借金騒動は新聞にも取り上げられ、華族としての品位を汚しているとして、華族としての礼遇も停止されてしまいます。

これを受け篤守は、華族の体面を維持できないとして、1899年に伯爵の爵位を返上してしまいました。

伯爵の地位を失っても借金問題は解決せず、その後数年間にわたって裁判で債権者とあらそうも、結局は敗訴し、元華族としては異例の禁固刑の実刑を食らうこととなってしまいます。

こうして御三卿の名門、清水徳川家の名声は地に落ちてしまいました。

日本で初めて空を飛んだ 清水徳川家の名誉を回復した徳川好敏

日本初飛行の栄誉を手にした徳川好敏

没落した清水徳川家を再興させたのが、篤守の長男、徳川好敏です。

15歳の時に父が爵位を返上し、債権者と裁判を行っている中、好敏は陸軍士官学校を卒業し、陸軍に入ります。

工兵科に入った好敏でしたが、1910年に飛行機操縦技術を習得するためにフランスへ派遣されることとなりました。

この派遣が好敏、そして清水徳川家の運命を大きく変えることとなります。

フランスの航空パイオニア、アンリ・ファルマンの飛行学校に入学した好敏は、同学校で日本人初の操縦士資格試験に合格します。

そして1910年に行われた記録会で、動力機初飛行という偉業を成し遂げることとなりました。

好敏が飛んだ所沢飛行場は、現在も所沢航空記念公園として残っています。

当初、この記録会では、天才発明家として報道されていて、好敏と同じく飛行することとなっていた日野熊蔵の方がはるかに有名で、好敏には前日までほとんど取材もなかったといいます。

日野熊蔵

また、日野はこの記録会の前に、代々木で飛行会を行っており、ジャンプした程度とはいわれていますが、事実上の日本初飛行も成し遂げています。

しかし、当時没落していた清水徳川家の当主に日本初飛行の栄誉を与えたいという軍、そして華族界の意向により、徳川、日野の順に飛行することとなり、好敏が日本初飛行の栄誉を手にすることとなりました。

もっとも、当時の好敏は平民の身分であり、爵位を返上したという不名誉な状況であったことから、華族が本当に支援したかは疑問ですが、名誉回復のまたとない機会を好敏は見事に掴みました。

その後も好敏は陸軍の航空部門の看板として順調に出世していきました。

陸軍も日本初飛行の栄誉を手にした好敏を引き立て、日野熊蔵や、好敏よりも格上の万国飛行免許状を持っていた滋野清武ら他の軍人を押しのけ、出世することとなります。

滋野清武

滋野清武は、好敏ばかりが厚遇される状況に嫌気が差し、フランスに渡り、第一次世界大戦ではエースパイロットになる活躍を見せています。

その後も好敏は航空部門で活躍し、陸軍の航空兵団司令官などを務め、1928年には、日本陸軍航空兵分野確立の功労により男爵を授爵しました。

父、篤守が爵位を返上してから29年後、ついに好敏は清水徳川家の名誉を回復したこととなります。

その後も好敏は陸軍航空士官学校の校長など、後身の育成に務め、終戦まで航空分野の発展に貢献しました。

御三卿の一つとして創設されるもなかなか日の目を見なかった清水徳川家。

当主不在、当主が実刑判決と他家には類を見ないほどの不運に見舞われますが、日本初飛行という意外な活躍をすることでその名誉を回復しました。

 

 

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